青山学院 由来の地探訪プログラム【スクーンメーカー編】
2025/03/27
青山学院は、明治時代に米国のメソジスト監督教会から派遣された3人の宣教師が設立した学校がルーツとなっています。この度、創立から150年の節目に、教職員8名からなるワーキンググループを組織し、米国における学院由来の地を訪ね、そのルーツを探るプログラムを実施しました。メンバーは「団長」「学院史」「国際交流」「広報」「校友会」「後方支援」担当で構成され、全12回に及ぶ事前学習会を経て、自ら掲げた20以上のミッションに臨みました。
今回、「スクーンメーカー編」では、「青山学院 由来の地探訪プログラム(以下、本プログラム)」におけるドーラ・E・スクーンメーカーの足跡をたどる3つのミッションについて報告します。
ドーラ・E・スクーンメーカー(Dora E. Schoonmaker)は、1851年11月14日にニューヨーク州のアルスター郡オリーブという町で生まれました。その後、5歳の時に、家族でイリノイ州ウィルミントンに引っ越します。8歳になった彼女は、読書が好きで、『ハリエット・ニューエルの伝記』を手にして、この本に登場するハリエットに憧れました。ハリエットは、海外での宣教師なることを夢見て18歳で結婚し、夫サミュエル・ニューエルと一緒に宣教師としてインドに派遣されます。インドに着いて夢を実現する直前に、病気になり衰弱して亡くなってしまいますが、このハリエットの伝記がドーラの心を捉えて離しませんでした。ドーラも同じ夢を抱いたのです。
宣教師になるにはいくつものハードルがあります。何よりも神への信仰が確かめられました。学歴も必要でした。何らかのキャリアや財力も必要でした。推薦状も必要でしたし、22歳以上30歳以下でどこにでも派遣される意思があること、そして良好な健康状態。すべてを備えることは簡単なことではありません。しかし彼女は、新しい世界への一歩を踏みだすことに恵まれます。
こうして、メソジスト監督教会からの派遣で、1874年10月3日、グレート・リパブリック号という船に乗り、サンフランシスコから日本に向けて、23歳の若き一人の女性が出発、同年10月28日に横浜港に着きます。言葉も文化もわからない日本で、それからわずか2週間余りの11月16日に、青山学院の前身である女子小学校が、彼女によって産声をあげることになりました。
日本での5年間の活動を終えた彼女は、5歳から過ごしたイリノイ州へ戻りました。そして、そこから20年以上が過ぎ、1907年になって、夫の病気治療のためカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越します。ここが彼女にとっての終焉の地となりました。
今回のプログラムでは、第一弾として団長である伊藤悟学院宗教部長が、2024年7月26日から8月2日にかけてイリノイ州における彼女のゆかりの地を訪問したのち、第二弾として教職員からなる訪問団6人が同年10月28日から11月4日にかけてニュージャージー州、メリーランド州、カリフォルニア州(スクーンメーカーの由来の地はカリフォルニア州ロサンゼルス)を訪問しました。
ドーラ・E・スクーンメーカーが女子小学校を開校した日を起点として学院創立150周年を迎えたわけですから、創立記念にあたっては、まず彼女の育った場所、彼女を送り出した地を訪問することが大事だと思いました。プログラム第一弾「シカゴ編」について報告します。
2024年6月、アメリカ・イリノイ州モリスにある歴史博物館内に、ドーラ・E・スクーンメーカーの常設展示コーナーが設置されました。大学コミュニティ人間科学部の河見誠教授と校友会シカゴ支部の伊藤康彦支部長のご尽力によって実現したものです(創立150周年記念事業の一つです)。
また、モリスからそれほど遠くないウィルミントンにあるオーク・ウッド墓地には、スクーンメーカーの父ジェイコブや妹ルイーザらの墓があります。7月末の訪問では、それらの場所を訪れることがミッションの一つでした。墓標には、「Schoonmaker」の文字をはっきりと確認することができました。さらに、彼女が日本に宣教師として派遣される際に派遣式が行われたエバンストン第一合同メソジスト教会も今回の訪問先に加えることができました。
これらの場所に、青山学院から公式に訪れたのは初めてのことで、いずれの場所でも大きな歓迎を受けました。モリスの歴史博物館では、キュレーターのデビー・ステフェス氏、メアリー・コリンズ館長らが出迎えてくださり、クリス・ブラウン市長も公務の合間に駆け付けてくださいました。のちにその時の様子が、地元の「モリス・ヘラルド」紙に写真付きで掲載されました。
エバンストンの教会では、日曜礼拝に参加した際にグレース・イマシウ牧師からスクーンメーカーや青山学院についての紹介と祈りがありました。
このプログラムでは、国際交流ということもミッションの一つに掲げていましたので、イリノイ州滞在中に、ノースセントラルカレッジを訪問しました。この学校はシカゴ郊外の町、ネイパービルというところにあるリベラルアーツカレッジです。学長を表敬訪問したのち、現地の学生2名を交えた懇談にて、スクーンメーカーと同じようにアメリカから日本へ派遣された女性宣教師についての情報交換を行いました。
実は、我々団員は伊藤団長が渡米する4日前の7月22日に、日本でもノースセントラルカレッジから青山学院大学へ留学している学生のメアリーさんにインタビューしていました。メアリーさんは日本語教師を目指して本学で学んでおり、日本語がとても流暢でした。彼女の地元出身の宣教師であるスクーンメーカーが青山学院のルーツとなる女子小学校を創設してから今年で150周年となること、その記念すべき年に日本、それも青山学院大学へ留学しているということを知らせると、「縁のようなものを感じる」と話してくれました。
そんなメアリーさんに、青山学院創立150周年の記念キャッチコピー「響け、青学マインド。」になぞらえて、「〇〇で、響け、青学マインド。」として、現在取り組んでいることや夢などを聞きました。
彼女が書いてくれた言葉は、「日本で、響け、青学マインド。」でした。可能であれば日本に住んで、難しくても母国で日本にかかわる仕事がしたい、と話してくれました。縁あって本学に留学してくれた彼女の夢が叶うことを、団員一同、心から祈っています。
ここからは、団員6名で臨んだ、プログラム第二弾「ロサンゼルス編」です。スクーンメーカーが、日本での宣教活動を終えてアメリカに帰国、結婚したのちに、晩年を過ごしたロサンゼルス郊外の地域、オッド・フェローズ墓地を訪ね、彼女の墓前で学院が創立150周年を迎えたことを報告し、校友会の方々と共に祈りをささげることをミッションとして掲げました。
11月2日、私たちは宿泊先であるホテルを9時に出発し、本学の校友でロサンゼルス市内の教会で牧師をされている大川氏と共に、「Odd Fellows Memorial Park」(スクーンメーカーの墓)へと向かいました。この日は、「Odd Fellows Memorial Park」のほか、「Angelus-Rosedale Cemetery」(マクレイの墓)、「Forest Lawn Memorial Park」(ソーパーの墓)を順にめぐる予定です。
車に揺られること15分ほどで「Odd Fellows Memorial Park」に到着すると、そこにはすでに校友会ロスアンジェルス支部の皆さんが集合されていました。一緒にお花や旗などの飾りつけを行いました。はじめ、「Odd Fellows Memorial Park」の人目につかない場所に質素な墓石があるだけだったそうですが、青山学院の関係者によって募金が行われた結果、1990年11月9日に新しい墓碑とともに、現在の明るい場所に移されたと聞いています。
集まった皆さんの前で私たち団員は一人一人、自己紹介とともに今回の訪問の目的をお話させていただきました。その後、伊藤団長の祈祷に続いてスクーンメーカーの墓前で共に祈りをささげました。
日本では、花を供えたまま墓を後にすることが一般的ですが、大川牧師によるとアメリカでは枯れた花が墓石を痛めたり虫を呼び寄せたりする可能性があるため、持ち帰る必要があり、残したままにしておくと、のちに処分費用を請求されることもあるのだそうです。せっかく綺麗に飾り付けましたが、「花や旗(ハタ)を取り外さないとハタ迷惑」になるという大川牧師の助言により、皆で片づけをしました。
冒頭でも触れたように、スクーンメーカーがロサンゼルスに移り住んだのは、晩年のことであり、ロサンゼルスにおける彼女のゆかりの地は決して多いわけではありませんが、この機会にその各所を訪れることにしました。
棚村恵子氏の著書『しなやかに夢を生きる 青山学院の歴史を拓いた人 ドーラ・E・スクーンメーカーの生涯〜』(2004年、青山学院発行)には、ロサンゼルスにおけるスクーンメーカーゆかりの地として、生前の家と彼女が通った教会が紹介されています。これらの場所を実際に訪れ、現在の様子を確認することをミッションの一つに掲げました。
まずは対象を明確にします。
本に記されているのは、彼女が晩年に住んだ、①エヴァーグリーン通りの家、②ユークリッド通りの家、③オレゴン通りの家、そして彼女が通った教会である④ユークリッド・ハイツ・メソディスト教会跡地です。
④の教会跡地については住所が判明していますが、2003年9月の段階で取り壊されて何も残っていないと棚村先生が書いていらっしゃいます。現在はどうなっているのでしょうか・・・。
実際に行ってみると、当時何もなかったはずの土地に、建物が建てられています。それもなんとスクーンメーカーが通った当時の「ユークリッド・ハイツ・メソディスト監督教会」の建物とそっくりでした。看板には「Casa Del Mexicano」とあり、公共の場になっているようです。(当時と区画が変わっているため、あくまでも推測です)
次に、生前の家①~③ですが、我々団員の知るところは通りの名称だけで、正確な住所情報がありません。校友会ロスアンジェルス支部の皆さんなら何かご存じかもしれない・・・と考えて、事務局の方に聞いてみましたが、人口増加による区画整理が行われ続けているため、当時の場所を正確に把握することは難しいとのことです。
そこで、今度は河見先生や棚村先生に直接状況をお尋ねすることにしました。
こちらも、現在の住人がいらっしゃるため、家の周囲をグループで探したり、写真を撮ったりするのはトラブルになりかねないためご注意するように、とのアドバイスを頂戴しました。
これらのことから、生前の家については、車窓から現地の雰囲気を確認することにし、可能な範囲で車を降りて、節度を以て散策することにしました。
結果として、家の正確な場所の特定には至りませんでしたが、通りの雰囲気を肌で感じることができました。
次の写真は、1928年7月16日当時に、ロサンゼルスにおいて青山学院関係者の集いが行われた際に撮影されたスクーンメーカーとソーパーの写真です。(最前列中央が77歳のスクーンメーカー、その右隣がジュリアス・ソーパー)
彼女がロサンゼルスに移った20世紀初頭は、アジア宣教を終えたソーパー夫妻も近くへ引っ越してきて交流があったこと、さらにこの地に日本人コミュニティが形成されていった時期とも重なります。「桑港のチャイナ街(昭和25年)」ならぬ桑港の日本街=リトルトーキョーです。彼女も日本で過ごした日々に思いを馳せていたのではないかと想像を巡らせました。
スクーンメーカーやソーパーも通ったかもしれない道を我々も自らの足で踏みしめながら、その想いを引き継ぎ、学院の発展に向けて努力することを誓いました。
※本ページ掲載の内容は、2024年10月時点のものです。
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