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青山学院と「母の日」 ~日本に母の日を提唱した三人の女性~

5月の第2日曜日は「母の日」です。この「母の日」を日本に紹介し定着させたのは、明治から昭和初期に青山学院に関わった3人の女性宣教師でした。

その一人マイラ・E・ドレーパー(1859~1935、写真左)は、ギデオン・F・ドレーパー(美會神学校時代から青山学院で教え、のちに監事も務めた宣教師)の夫人で、自身も1911年から1915年まで青山女学院で教鞭を執りました。彼女は1913年、日本で最初に「母の日」の行事を行った人です。彼女はチャペル夫人から、アメリカで1908年から祝われるようになった「母の日」について伝えられ、日本でもこれを広めようと努めました。

チャペル夫人とは、1881年から1884年まで海岸女学校の第3代校長を務めたメアリー・J・ホルブルック(1852~1912、写真中央)で、後にベンジャミン・チャペル(36年間青山学院で教えた宣教師)と結婚しました。彼女は1909年の帰米中に「母の日」の行事に触れ、日本にもこれを広めようとした矢先、病に倒れ、その志をドレーパー夫人に託したのでした。

その後「母の日」普及に貢献したのが、ファニー・G・ウィルソン(1868~1957、写真右)です。彼女は1900年から1902年まで青山女学院院長を務めた後、青山学院宣教師で役員のロバート・P・アレキザンダーと結婚し、1907年から34年間、青山学院構内の宣教師館で生活しました。彼女がチャペル夫人・ドレーパー夫人の運動を継承し、日本各界の著名人に働きかけた結果、ついに「母の日」は1932年、日本で初めて公式行事として祝われたのでした。青山学院資料センターには、当時のプログラムや新聞記事が収蔵されています。

青山学院では、「母の日」にちなんだ礼拝として、幼稚園では「母の日礼拝」、初等部では「お母さんへの感謝の集い」、中等部では「母の日・家族への感謝の日礼拝」を行っています。お母様方も出席され、カーネーションや似顔絵などのプレゼントが手渡されます。

「青山学報」224号(2008年6月発行)より転載

「母の日」大会プログラム(1932年5月8日)
「母の日」大会プログラム(1932年5月8日)

「母をたたふ」 東京朝日新聞 1932年5月9日
「母をたたふ」 東京朝日新聞 1932年5月9日