Story ストーリー

戦争の頃、青山学院の存続を守った二人の院長 2.小野徳三郎

青山学院の150年近い歴史の中で、学院の存続が危ぶまれた時期がいくつかありました。
その中のひとつ、太平洋戦争中の出来事から、前回、國澤新兵衛院長事務取扱の時代のエピソードを紹介いたしました。
今回は、國澤の後を受け、青山学院第8代院長に就任した、小野徳三郎院長のお話を紹介いたします。

 

小野 徳三郎 おの とくさぶろう (第8代院長 1943年9月~1945年11月)

國澤新兵衛院長事務取扱の後、青山学院の第8代院長に就任した小野徳三郎。海軍中将という軍人でありながら、敬虔なクリスチャンでした。その任期は1943年9月6日~1945年11月。戦争中に就任した院長として歴史に名を残すものの、これまでほとんどその人柄や業績が紹介されることはありませんでした。

ところが、2020年1月28日に開催された「青山学院の歴史を語る会」で、当時、中学部の生徒だった方から興味深い話が語られました。1944年4月の入学式で、小野院長は新入生に向けて次のように語ったそうです。
「青山学院はキリスト教主義の教育ですから、それが嫌なら即刻立ち去ってください」と。
“当時としては余程の覚悟が必要な発言だったと思います。この事実をぜひ記録してほしい”と、ご紹介者が語られました。
この戦争一色の時代、国から各学校に派遣されている軍事教官たちも列席する中での発言です。当時、日本のキリスト教主義の学校は、敵対国の欧米の教育をしているとして、政府や軍部からにらまれていた時、まさに勇気のいる発言です。

男子は教練、女子は軍服修理の勤労奉仕

 

いろいろ調べていると、多磨霊園に眠る著名人リストに小野院長の名前を見つけました。そのサイトには小野院長のプロフィールも掲載されていました。「太平洋戦争中の軍事教練の教官の前で戦争批判をしたが、海軍中将の肩書のため免職を免れた」と。

死をも覚悟して伝統を守り、青山学院を愛する小野院長の実像が浮かび上がりました。

小野院長は1882(明治15)年、三重県に生まれ、海軍機関学校を経て海軍大学校に学び、1933年に海軍中将となります。富士見町教会に所属し、海軍での軍務のかたわら、佐世保教会の設立に関与したり、広島県呉市の教会の長老として8年間仕えるなど、キリスト教徒としても各地で活躍していた痕跡が残されています。

奇しくも、戦争中に廃刊となる「青山学報」(170号から「青山学院報」と名称変更)最後の号、176号(1943年10月1日発行)に、小野院長「就任の辞」が掲載されています。その編集後記には、氣賀重躬先生(戦後、大学学長に就任)が次のように記しています。「用紙の配給は益々窮屈になりました。(中略)おそらく次号は何時発行されるか全く見当がつきません。(中略)併しこれは国家の要請です。進んで用紙を返上しなければならない時です。」と。
全てが戦争優先の時代でした。

戦後、復刊成った「青山学報」16号(1956年5月10日発行)に、小野院長の追悼記事が掲載されています。
「戦時中、青山学院の存在が軍関係より圧迫を受け、正常の歩みを阻害されて居た時代に海軍機関中将であった小野先生は理事会より迎へられて院長の職に就かれたもので、文化系統の他校統合、工業専門学校の創設等、軍部の圧迫を封じるためのあらゆる手段を講じ、苦心された効あって青山学院は存続を許され今日を得たのである。院長時代の先生は軍人恩給、各会社役員手当等の収入があったので、全任期中の院長給を辞退されその金額を教職員友愛会に寄附されたり、前述の工専設立に当っては自ら募金に奔走する等、常に率先事に当って困難を克服された。」と記されています。(一部、アオガクプラス編集部にて旧字等を変換)

挙国一致体制下、男子専門部(文学部、高等商業学部)は、徴兵猶予が無くなり(1943年10月1日)、学徒として出陣していきます(同年10月21日)。

雨中の明治神宮外苑競技場で行われた「出陣学徒壮行会」(1943年10月21日)
青山学院の学徒たちの隊列。先頭には青山学院旗が掲げられている。

 

その結果、学生数が激減となり文科系専門部の維持が困難となると見込まれました。さらには、男子専門部は、関東学院高等商業部とともに明治学院に統合せよ、との指示が出されました(教育二関スル戦時非常措置方策)。

青山学院は、“存続か否か”の時を迎えました。

男子系存続のためには、存続が認められる理科系専門学校の設立しか道はありませんでした。
そしてやむなく航空工業専門学校の設立をかかげ、文部省、海軍省、陸軍省の賛成も得られ、航空機科(定員150名)、発動機科(定員150名)、土木建築科(定員100名)の3科で構成される「青山学院工業専門学校」を開設。校長に小野院長が兼任で就任し、1944年4月15日に開校式が行われます。
そして、男子専門部は、同年4月1日より、明治学院に統合されました。
(当時、10の専門学校が5つに統合、21の理科系専門学校が新設された)

青山学院工業専門学校開校式の日(1944年4月15日)

 

その後の戦争の激化に伴い、学徒出陣のほかにも勤労動員、疎開などにより、学校における教育はその機能を失い、さらには空襲で校舎は焼け、そして終戦を迎えます。

戦後、連合国に占領され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)より「日本教育制度に関する管理政策」が発表され、ほかの多くの学校同様、小野院長は退任を余儀なくされ辞表を提出、1945年11月の理事会において小野院長は退き、古坂嵓城氏が院長事務取扱となります(後に、院長、理事長を務める)。終戦から退任までの短い間にも、小野院長は古坂氏とともに明治学院に合併させられた男子専門部の復活を図り、食糧事情の悪い当時、農業専修科の設置を考えるなど、青山学院の復興を目指しました。

小野徳三郎は、青山学院を離れたのち、キリスト教印刷株式会社を設立し、聖書の印刷と普及に尽力された、と記されています。
1956年5月1日に昇天。74年の生涯でした。

 

軍人でありながら戦争を批判し、軍部からの圧力にも屈することなく、熱心なキリスト教徒であった小野院長の不屈の精神と行動力のおかげで、青山学院は存続することができたのです。そして在校生を守ろうとする愛があふれていました。学徒として出陣していく、出陣せねばならない在校生たちを見送る心情はいかばかりだったか、想像するに難くありません。

「青山学報」が廃刊となるように、紙も含めた資源が乏しく、空襲で焼けてしまい、小野院長が在校生に、教職員に話した言葉はあまり残されていません。小野院長の想いも残されていません。しかし、当時生徒だった方の証言から、そして断片的に残された資料から、小野院長の業績とお人柄を知ることができました。
困難に立ち向かい、キリスト教主義の建学の精神を守り、青山学院の歴史を繋ぎ、導いてくださった方なのです。

小野院長就任式の日(1943年9月)
着席者、國澤新兵衛院長事務取扱(中央)、小野新院長(右)

 

〈参考文献〉
・「青山学院報」176号 1943年10月1日発行
・「青山学報」復刊16号 1956年5月10日発行
・「青山学院120年」学校法人青山学院
・「青山学院100年 1874-1974」学校法人青山学院
・「日本英語教育史研究」16号 南精一「大戦末期の英語教育-旧専門学校を中心に-」
・「青山学院一五〇年史 資料編」学校法人青山学院