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厚木キャンパス回顧 開学40周年(前編)【アオガクタイムトラベラー】

厚木キャンパスが開学してから、今年で40年。
1982年から2002年までの21年間、大学の教養課程の学びの場であった厚木キャンパス。合計76,865名の学生が通学しました(※1)。
私ブルーもその一人です。
(ちなみに、アオガクタイムトラベラーの隊員の名前は、全員カラー名なのです。)

2003年4月からは厚木キャンパスを撤退して相模原キャンパスが開学し、また2012年から就学キャンパスの再配置を行い、学部によって青山・相模原キャンパスどちらかが4年間通うメインキャンパスとなり、現在に至ります。

厚木キャンパスに通った方々には、きっと様々な思い出があることでしょう。

開学してから40年という節目の今年、タイムトラベラー隊が出動しないわけにはまいりません!
今回は、厚木キャンパスを回顧する旅に出発します。

※1 公式資料から毎年5月1日時点の学生数(1年生)を算出(科目等履修生を除く)

 

校地面積の不足から

1949年に青山学院大学が設置された時、文学部と商学部が青山キャンパスに、工学部が横須賀に置かれ、3学部体制でスタートしました。
その翌年、横須賀にあった工学部は関東学院大学に合同します。
以降、新たな学部やキャンパスが新設されます。

 1959年 法学部を新設
 1961年 綱島グラウンドを開設
 1965年 世田谷区廻沢に理工学部を新設(廻沢キャンパス開学)
 1966年 経営学部を新設

ここにきてなぜ新たなキャンパスが必要となったのか?
「青山学報」100号(1980年10月)の巻頭、当時の大木金次郎院長・理事長の「日本人の危機意識と本大学発展への小径」に経緯が記されていました。

大木院長・理事長は当時の国策「工業等の制限に関する法律」(1959年制定)に触れ、この「工業等」の「等」の文字には大学が含まれており、私立大学が学部や学科を新設、定員の増加を行う場合、首都圏の既成市街地には設置できないという規定を披露し、『この法律の存在のために首都圏下の各私大は、学問の研究と教育の施設や設備の増強のために非情(原文ママ)な苦境に立たされてきたのである』と語っています。

文部科学省の省令「大学設置基準」第37条第1項では「大学における校地の面積(附属病院以外の附属施設用地及び寄宿舎の面積を除く。)は、収容定員上の学生一人当たり十平方メートルとして算定した面積に附属病院建築面積を加えた面積とする」と定められています。これは現在も変わっていません。

『青山学院大学五十年史』では、1960年代以降の学部・学科増設に伴い、既に1970年代には校地面積が大学設置基準に満たない状態が続いていたことに触れています。

 

どの土地へ? もしかしたら幕張メッセの地に…

また『青山学院大学五十年史』や「青山学報」103号(1981年5月)の厚木開学ニュース1号を執筆した当時の保坂栄一学長の話によると、厚木の地に決まるまで、以下の候補地もあったとのことです。

1973年以降
・千葉県君津市
・町田市真光寺の物件
・幕張の広い海浜埋立地
・埼玉県所沢地区
・八王子地区の各所
・稲城市に開発中の土地
・多摩ニュータウン

「幕張の広い海浜埋立地」。今の幕張メッセの地に、青山学院大学のキャンパスができていたかもしれません。
余談ですが、幕張メッセは1989年10月9日に開園しています。

 

厚木の地に

『4年の間に十数か所の土地を調査・検討した』と保坂学長は語っています。
そしてなかなか決定打が無いなか、大木院長・理事長の“鶴の一声”により、1980年1月7日開催の臨時理事会において、文化都市建設計画の予定地として開発中だった厚木市森の里にある宅地開発公団所有の土地を購入することが決定。3月19日には同公団との間に土地譲渡契約を締結します。

大木院長・理事長の「日本人の危機意識と本大学発展への小径」から引用します。

『約152,700平方メートルを購入し、整地作業の完了する11月末には引き渡しを受けることになっている。総価格は49.5億円である。』

ところが厚木キャンパスを購入しても、1つや2つの学部だけの移転では、設置基準を満たすことが出来ないため、保坂学長のもとで、
①2つ以上の学部を厚木へ移す
②教養課程を移す
③全学を挙げて移転する
という3案が示され、教授会等での承認を経て、②案に決定しました。
文部省との事前折衝で、青山キャンパスにこれ以上学生を増加させることは困難であるとの感触を得ていた、と五十年史には記されていました。

そして「青山学報」103号(1981年5月)の保坂学長の言の中で、教授会の議を経て、大学協議会で承認された厚木校地化の基本的方向が記されています。
『厚木校地は、一般教育を中心とした、1・2年次生教育の場とし、ここにこれに対応する教育・研究の組織を置く。』

こうして厚木校地化委員会が設置され、後に学長を務めた内藤昭一教授が同委員長に就任し、校地の運用など、具体的な検討が行われることになります。


造成地を視察中の学院関係者

ここで余談です。
宅地開発公団が進めていたニュータウンの「森の里」という名前は、フィンランドのタピオラ田園都市に範をとっていたそうで、住宅だけでなく、研究所や学校などを備えた職住近接型の都市を構想するものでした。

もう一つ蛇足。
約152,700平方メートルは東京ドーム何個分か?
3.26個分でした。意外に狭い?!
※東京ドーム46,755平方メートル(建築面積 東京ドームシティ公式サイトより)

 

工事着工 わずか10か月で完成

やがて工事の概要が定まります。

〈概要〉
 敷地面積:約152,700平方メートル(その後、約200,000平方メートル)
 設計監理:株式会社日建設計
 チャペル設計:株式会社竹内建築設計事務所
 施工:7社(清水建設株式会社を幹事会社、池田建設、鹿島建設、大成建設、竹中工務店、フジタ工業、三井建設)

そして以下のスケジュールで進行しました。
 1981年5月9日 鍬入式
 1982年3月 完成
 1982年4月 開学

建築の専門雑誌『THE BUILDER』(1982年/NO.1)には、建築評論家の近宮譲治氏による「二十一世紀への国際人の育成を目指す 青山学院厚木キャンパス」と題した特集ページが組まれ、経緯、建設中の様子、国際政治経済学部の新設などについて記されていました。

〈主なトピックス〉
・プロジェクトを円滑に進めるため、施工各社からなる建設協力会を編成し運営にあたった
・硬い岩盤があり、ダイナマイトを用いた
・校舎の外壁は、集合団地を思わせる打ちっぱなしであったが、実はこの仕上げが技術のいるもので、各社で苦労しながらも様々な技巧を凝らした

予定通り、わずか10か月という驚くべきスピードで、しかも無事故無災害で完成しました。

結構な無理を強いた工事だったような気が…。それに応えて下さった業者の皆様は、流石のプロだと感じずにはいられないスピード仕上げです。
そして、殺風景だと思っていたコンクリートの外壁でしたが、仕上げには高度な技術が必要だったと知り、今更ながら感動を覚えました。

当時、大学厚木担当副学長だった貫達人先生が、『大木院長・理事長が、建物1棟ごとに1会社を担当させて各社間で競わせた。まるで豊臣秀吉のやり方であった』と回顧しています。

そして1982年4月開学。
5月29日に厚木キャンパス開学式挙行。
開学式は、来賓約1,500人、教職員約300人が参加して行われました。

 

新学部「国際政治経済学部」の誕生

新学部を開設する構想があったため、本格的に校地購入に乗り出したという事情もありました。
それが国際政治経済学部でした。

これは、大木院長・理事長が1969年10月4日の第24回国連総会本会議に日本政府代表として出席した際に、当時、日本が国連への分担金を世界で3番目に多く拠出していたにもかかわらず、国連で働く常勤の日本人職員が既定の半分しかおらず、英語に堪能でかつ政治・経済の専門知識を備えた人物が少ないことを知り、そのような人物を育てる新学部を設置しようという構想が実現したものです。

大木院長・理事長は「日本人の危機意識と本大学発展への小径」で、教員による「自己評価」の施策を採用していくと述べています。専門の研究者として、学生への教育者としての良心的な反省とともに「自己評価」を率先して実施し、批判については謙虚に受け止め、自己反省の糧とすべき、としています。さらに『大学の教員は、学問の研究者であると同時に、同程度の教育者であらねばならないという基本的要請が常に存在することを自覚する必要がある。もしこの後者の要件を拒否するものがあれば、学問の研究所の単なる研究者ではありえても、もはや大学教員の資格は当然に失うものである。』と強く語っています。

当時、大学や学部の名前に「国際」と入っている大学は珍しく、同年1982年に設立された新潟県の国際大学(日本初の大学院大学)のほか、摂南大学の「国際言語文化学部」、光陵女子短期大学(当時)の「国際教養学科」など、ごく僅かでした。国際政治経済学部は“国際”ブームの先駆けという存在でもあったのです。

したがって今年、厚木キャンパス開学と同時に誕生した国際政治経済学部も開設40年という節目にあたります。
6月18日には、「国際政治経済学部 40周年記念イベント」が開催されます。

 

開学そして諸問題


厚木キャンパスの校舎群は「第27回神奈川県建築コンクール」で最優秀賞を受賞
住所:〒243-0123 神奈川県厚木市小野1626番地 のち 神奈川県厚木市森の里青山1番1号
最寄り駅:小田急線本厚木駅・愛甲石田駅
標高:100メートル

 

さて、開学してすぐに様々な問題に直面します。
それは厚木キャンパスに通う学生にとって深刻な問題でした。

本学高等部の希望生徒58名と保護者10名で厚木キャンパスを見学した時の池田弘子高等部教諭による「3年厚木見学会」と題した「青山学報」124号(1985年7月)の報告記事が、生徒たちの声を端的に表していたので紹介します。

〈生徒から漏れた声〉
①想像以上に遠すぎる
②毎日通えるか心配
③どうしてこんな山奥に校舎を建てたのに、寮を建てないのか


「青山学報」107号(1982年3月)の表紙
完成した直後の厚木キャンパス。
そこには美しい丹沢の山々と厚木キャンパスの校舎群だけが映っている

〈保護者の声〉
①校内に入れば勉強をするしかない環境なのでありがたい
②自然豊かな場所であり個性を伸ばしてもらいたい
③通学問題(女子には下宿させたくない。寮があれば入れたいが、地方出身者優先だと入れなくなる)

おそらく保護者の方々は、なかなかネガティブな意見を言える立場ではないでしょうから、前向きなご意見をお寄せいただいておりますが、幼稚園から高等部までを青山キャンパスで過ごしてきた生徒たちにとっては、大変な問題となります。

表参道から本厚木まで、快速急行で約1時間。さらにバスで20~30分。往復約3時間の旅…。
いやいや、青山キャンパスからの時間計算ですから、自宅の場所によっては、もっと時間がかかることに!

青山キャンパスからの遠距離。

そして追い打ちをかけたもの、それは「バス」でした。

 

1.交通問題(バス)

●バスを待つ長蛇の列 特に雨天時


本厚木駅

 → 正門内にバス発着所を新設

 → バスの増発
 → 本厚木駅前路線のバス乗り場が大幅に改装され、厚木バスセンターとなる
  (ダックシティと厚木シティプラザの間)。
  「高松山経由」「小野橋経由」〈1984年10月16日から〉
 → バスの新路線 「合同庁舎前・高松山経由」「船子・新道・小野橋経由」
 → 愛甲石田駅からのバス運行〈1987年10月から〉

愛甲石田駅 【写真提供:本橋さん】

しかし、それでも…
 ・厚木市内で渋滞が発生した場合、通常20~30分のところ40~50分かかる
  (年度末の道路工事が発生すると1時間のときも…)
 ・愛甲石田駅での「愛甲ダッシュ」問題

  ※本厚木駅からバスで20~30分。一つ先の愛甲石田駅からだとバスは15分ほど。
  時間や混雑を考えると愛甲石田駅を利用する学生も多かった。
  しかしバスの本数が少ないため、電車が駅に着いてすぐにバスに乗れるよう、
  バス停に向かって猛ダッシュすることを「愛甲ダッシュ」と呼んでいた。
  一般の利用者の方には危険なため、整列させるための係員が配置された。

 → 当初認めていなかった自動車通学を、規則を定めたうえで許可
  〈1984年4月10日から〉
 → 駐車場は1か所から最終的に4か所に増設。有料から無料へ

※田舎出の私には、車を持っている学生がうらやましかった…。


バス停「森の里青山」

バス停「森の里青山」とつなぐ階段【写真提供:本橋さん】

 

当時、大学厚木担当副学長だった貫達人先生が、「青山学報」114号(1983年7月)で次のように話しています。

『もっとも心を砕いたことは、言うまでもなく約6,000人の学生をいかにして輸送するかであった。水野(房一)部長は何度神奈中(神奈川中央交通)と交渉したか、数えきれないほどである。(中略)大量人員の短時間輸送については、開学当初から神奈中に何度も申し入れをしてきたわけだが、1年目は結局それほど積極的な反応はなかった。(中略)大木先生と厚木市長との直接交渉で旭公園が用意され、バス停も少し駅からはなれたところに定められた』

これは、駅に近いバス停だとバスが団子状態になってしまい、スムーズな発進が出来なくなるため、少し遠い場所にバス停を置いてでも、バスが複数台同時に発進できるように工夫したものでした。
また、森の里の宅地販売が1984年から1985年に行われる予定であったため、まだ周辺の道路が開通しておらず、バス路線の再編成がなされていなかった、という事情も語っています。
貫先生は、同文末に、創業の難しさと守成の難しさについて、中国の漢の高祖の話にたとえています。大学側にも相当な苦労があったことが窺えました。


「青山学報」127号(1986年3月)の表紙
奥には、宅地造成の様子が窺える

 

2.学生食堂の混雑 お昼を食べられない…

そして思い出すのが「学食の席数の不足」でしょう。

開学前に「青山学報」に掲載されていた『厚木開学ニュース』の2号には、建築中の建物紹介として、E館1階に学生食堂(約1,000席)、と書かれていました。

開学直後の5月には、早くも座席数の不足が判明したのでしょう。大木院長の緊急採決で300席増設されることになりました。

さらにその年の10月の「青山学報」には、貫副学長の話として「厨房の上のテラスを改築するなどして、現在の1,300席を、約3,300席とします」と書かれていました。翌1983年3月までにはおおむね完成したようです。


【写真提供:本橋さん】

 

また、1988年11月7日から、H館1階の学生控室を「軽食コーナー」に改装しアイビーホールと命名。101番教室も改修し、165席を確保した、と記されています。

1・2年生合わせて約6,000名が集うキャンパス。山を切り開いて作ったばかりのキャンパス周辺には当然、食事ができるお店が無く、コンビニは、高松山トンネルを下った所まで行かないと無い。学生のお腹を満たしてくれる場所が無い!

厚木キャンパスお別れ会(2002年11月30日)の中で、挨拶に立った内山義英先生(国際政治経済学部1期生、当時国際政治経済学部助教授)は、当時を振り返り「私の場合は、昼飯を抜くことがたびたびあった」と語っていました。

さらに食堂の座席を確保したいという思いのため、いつのまにかに部活やサークル団体の名義で席が決まってしまっていて、無法とも言える状態に…。不自由を感じた人は多かったと思います。

 

3.厚木返し

「青山学報」109号(1982年7月)に、学務部ニュース「厚木キャンパス開学に伴う学生の修学上の指導と教務事務の対応について」と題した記事を見つけました。
『原則として、厚木キャンパスの開講科目は、青山・世田谷キャンパスには置かないこと(後略)』。青山キャンパスでは、教養課程の授業が無いため、単位を落とすと、3年生以降も厚木に通ってその授業を履修する必要があったのです。
いわゆる「厚木返し」が発生する根拠が定められました。

 

厚木モノレール構想

さて、多くの卒業生や教職員の方々が耳にしたであろう噂、それが「本厚木から森の里までモノレールができる」というものでしょう。
あくまで噂でしかなかったのか? 実際はどうだったのか?
検索してみました。
すると下記の二つのウェブサイトが見つかりました。ご紹介します。

・『変容する研究学園都市と厚木業務核都市構想(厚木市)』(前厚木西高校教諭 豊 雅昭氏)
http://www.kana-chiri.org/chiiki/kawariyuku/Atugi2.html

『1980年代、本厚木駅から森の里方面への交通機関として「モノレール構想」があり、不便な交通アクセスを解消する切り札として期待された。だが、バブル経済の崩壊、神奈川中央交通の強い反対などで構想は消えていった。約20年前に移転してモノレール開通を期待していた青山学院大学(厚木キャンパス)は失望して前途に見切りをつけ、2002年の学園祭を最後に相模原市淵野辺へ移転した。』

・『市民かわら版』ウェブサイト 「青学移転」(市民かわら版編集長 山本耀暉氏)
https://www.kawara-ban.com/aogakuitena.html

当時の生々しい記録が残されていて興味深いサイトです。厚木から青山学院大学が撤退することがどれだけ衝撃だったかが伝わってきました。ここでは具体的な内容は紹介いたしませんが、ここでも青山学院大学が厚木から撤退した理由が『開校時に厚木市が打ち出した本厚木駅から森の里をモノレールでアクセスする新交通システム構想が頓挫したため』と記されています。

「青山学報」154号(1991年7月)では、当時、大学副学長であった日向寺純雄先生が『厚木キャンパス十年—さらなる発展のために-』と題した記事を寄せ、
『開学当初モノレール構想がありましたが、現時点では、県レベルでも市レベルでも、私の知るかぎり、具体的な進展はないようです。モノレール計画実現のためには、周辺自治体、学校、企業、住民等の協議会を結成し、強力な推進運動を展開する必要があると思われます。』と述べています。

モノレールができていたら、今も厚木キャンパスは残っていたのだろうか?

個人的な興味ですが、果たしてモノレールは、跨座式、懸垂式、どちらの構想だったのか……。

 

そのほか様々なこと


オリエンテーション

「青山学報」に掲載されていたそのほかのトピックスを時系列で列挙してみます。

1983年
●第2期完成献堂式挙行(4月16日)
パイプオルガンの聖別式も兼ねる
〈完成した施設〉
野球場兼多目的グラウンド、テニスコート、ゴルフ練習場、エア・ライフル射撃場、N館、食堂(E館)増改築、M館(購買会、研究室、課外活動室、器楽練習室)


「青山学報」111号(1982年12月)表紙
ライトアップされたチャペル。クリスマス・ツリーも見える

●学生用バイク等駐車場用地の確保
●第1回「厚木祭」を開催(5月28・29日)
・ナイトハイク(青山キャンパス正門→厚木キャンパス間50kmを歩く)
 参加者57名
・杏里コンサート(厚木市文化会館で開催)
・映画上映会 映画評論家・小森和子氏による解説・講演
→1992年は“諸般の事情”で厚木祭は行われず、
 教職員主催の「オープンキャンパス・イン・厚木」を開催
 翌年には地域との交流などに重点を置き、復活している。


第1回「厚木祭」

 

1985年
●所在地の表示が、厚木市森の里青山1番1号となる(3月1日)

開学当初、キャンパス周辺には本学以外の建物が無かったが、この3年間で、日本電信電話公社、東陽テクニカ、キヤノン中央研究所、栗田工業の研究所などが業務を開始し、松蔭女子短期大学も開設された

1987年
●夏休み中の工事の報告
・歩道新設 正門守衛所から大学バスターミナルへの歩道
・植栽工事
・屋外階段拡幅工事 バスターミナルから校舎に上がり下がりする階段
・F・G館からM館への通路の拡幅工事

●愛甲石田駅の橋上駅舎完成(10月5日)
・バス5便の増発要請

1988年
●毎年春・秋に交通安全講習会を開催
 経済学部2年生がオートバイで事故死。開学以来3件目の交通死亡事故。
 乗用車・二輪車通学の自粛と安全運転を訴える
 ※開学した1982年7月1日に、自動車事故で亡くなった学生の話も掲載されている

1990年
●大学厚木セミナーハウス献堂式挙行(12月8日)
〈建築概要〉
 鉄筋コンクリート3階建、延べ床面積約3,686平方メートル
 セミナー室、宿泊室(99名)、厨房、浴室などを備える


厚木セミナーハウス 【写真提供:本橋さん】

 

最後の年 2002年の出来事

ちょうど厚木キャンパスについて調査をしていた時、元青山学院職員の本橋由行さん(閉学時、厚木事務部庶務課長)が来校され、閉学直前の2002年から2003年までの1年間の厚木キャンパスで行われた行事などの写真や記録を提供していただきました。
本橋さんは、青山、世田谷、厚木、相模原の4キャンパスすべてに勤務したことがあるという方でした。

時系列で2002~2003年の出来事を並べてみます。

〈2002年〉
 3月12日 厚木キャンパスを日産自動車に売却することがテレビで放送される
 4月 9日 日産自動車のカルロス・ゴーン社長(当時)が厚木キャンパスに来校
      ※その時の写真もありましたが、肖像権の問題で掲載は…
 10月 8日 関係者を訪問し「厚木キャンパスお別れ会」招待状を手渡す
 10月12日~13日 厚木祭


最後の厚木祭 【写真提供:本橋さん】

なんと、私が乗っています! 【写真提供:本橋さん】

 11月30日 厚木キャンパスお別れ会


厚木キャンパスお別れ会

貫達人元副学長による挨拶(右)

 12月14日 第38回オルガンコンサート(ウェスレーチャペル)

〈2003年〉
 3月27日 厚木キャンパス降納式 西澤宗英副学長、古畑悦男事務部長立会い
 3月28日 鍵引き渡し、警備引き渡し

本橋さんエピソード
・開学前に人事部に所属しており、厚木キャンパスのアルバイト(事務、受付、学食スタッフなど)を募集した。新聞記事の広告欄に掲載したところ、ものすごい数の電話がかかってきた。
・閉学時に歩道の補修用の煉瓦が余っていたため、記念に持ち帰っていい、というアナウンスがあり、自宅に3回に分けて持ち帰った。

 

居住地区アンケート

「青山学報」139号(1988年7月)には、学生の居住地区の調査をした結果が載っていました。

1年生居住地区別ベスト10(1988年)
 1位 厚木市 690人(うち自宅27人)
 2位 横浜市 394人(うち自宅340人)
 3位 相模原市 318人(うち自宅65人)
 4位 世田谷区 253人(うち自宅100人)
 5位 川崎市 184人(うち自宅110人)
 6位 座間市 153人(うち自宅10人)
 7位 町田市 129人(うち自宅43人)
 8位 渋谷区 86人(うち自宅40人)
 9位 杉並区 81人(うち自宅56人)
 10位 大田区 68人(うち自宅64人)

私も厚木市愛名のコーポ山本というアパートに住んでいました。
(先日厚木を探訪したところ、2棟のうち1棟が今も残っていました!)

 

SNSに記録されていた話題

とあるSNSに2005~2007年に投稿されていた「厚木キャンパスの思い出」を語り合うページを発見しました。

・お隣の松蔭短大のバス停から乗ると、男子なので目立った
・1998年1月8日の大雪
・高松山のトンネルの幽霊話
・愛甲石田駅前にいた整列を促す神奈中のおばさんが亡くなった話 等々

ほかにも授業やアド・グル(※2)を回想する話などが載っていました。

※2…ゼミでもサークルでもクラブでもない、教員と学生が交流の輪を広げられる、本学独自の制度。

「青山学報」に掲載された厚木キャンパスのニュースの中には、大自然に囲まれたその地に、野うさぎやたぬきがたびたび訪れていた様子も報告されていました。

 

次回 旧厚木キャンパスを探訪!

厚木から撤退する経緯については、ここでは触れないことにしておきます。

思い出に浸る形で、長々と綴ってまいりました。

いろいろな苦労があったと思いますが、
なんと言っても、卒業生にとっては青春時代の思い出の地。
多くの方々が、様々な思い出を持っていることでしょう。
その地に今はキャンパスが無い、という事実は少し寂しいものです。

ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。

ところがこれで終わりではありません!

厚木から撤退して約20年を経た今、跡地はどうなっているのかを知りたくて、“外から撮影しに行こう”と考えました。
卒業生の方が撤退後の厚木キャンパス跡地を訪れて紹介されているサイトもいくつか拝見しました。

私も、卒業生の方々に、今、どうなっているのかをお伝えしたい……。

よし!
跡地に入ったのが日産自動車。
日産自動車先進技術開発センターを訪問してみよう!
タイムトラベラー隊の本領発揮です。

次回、リーダーのレッドと私ブルーが、5月24日に日産自動車に潜入した(正式に取材の許可を得てご案内いただきました)記事を公開します。
もう少々お待ちください。
お楽しみに。

 

厚木キャンパス フォトアルバム

 

【参考文献】
「青山学報」各号
『青山学院大学五十年史』青山学院大学 2010年
『青山学院大学五十年史 資料編』青山学院大学 2003年
「THE BUILDER」1982/NO.1/VOL.22 池田建設
「2002年 青山学院大学厚木キャンパス四季の風景」1~3 本橋由行
ほか多数

【協力】
・本橋由行さん
・資料センター
・本部総務部法務課
・本部総務部総務課
・本部財務部補助金課