「定礎」の中身は? そして勝田館と大隈重信
2021/03/01
「定礎」というものをご存じだろうか。
上の写真のようなものを町で見かけたことがあるのではないだろうか。
『広辞苑 第5版』によると、
と書かれている。
『みんなの建設業Q&A50』によると、
と書かれている。明治時代以降、日本においても建物の建設時に定礎式が行われるようになったそうだ。
百科事典『マイペディア』によると、
と書かれていた。
定礎の板の裏側には金属の箱を入れている場合もあり、その箱の中には、建物の図面や工事関係者の名前、当日の新聞などを入れる習慣があり、まさにタイムカプセルのような存在なのだ。その建物を解体する時、資料として役立てるという。
青山学院でも、新しく建物を建てる際に定礎式を行っているが、近年は、基礎部分や地下部分などを最初に造るため、一般的に建物の完成時に定礎式が行われるようになっており、青山学院も完成時の献堂式や落成式の当日の冒頭に行っている。
以前、記念すべき「アオガクタイムトラベラー」シリーズ第1回『13号館が無い! 不吉な数字だから?』でご登場いただいた管理部の吉田茂担当部長(当時)に話を伺ったことがある。
「定礎の中には、何が入っているのですか?」
すると、通常と同じように入れているもののほかに、まさに青山学院らしい、特徴あるものを入れていることが分かった。
聖書
キリスト教教育を行っている本学ならではの大切なものである。
ひとつ、こぼれ話をご紹介したい。
青山キャンパスの大学礼拝堂を擁したガウチャー・メモリアル・ホールが完成した際にも定礎式を行った。時は2001年9月12日。今から20年前のことだ。
もし、この年月でピンときた方がいらっしゃったら脱帽だ。
当時の広報室の山村修室長(2006年に56歳で逝去)がガウチャー・メモリアル・ホールの定礎式参列後に話されたことを思い出した。
「定礎の中には今日の新聞が入っているんだよ」
そう、式当日の新聞を入れることになっている定礎。
この定礎式の前日は、2001年9月11日。
アメリカで同時多発テロ事件が発生。世界貿易センタービルに飛行機が突入するあの禍々しい写真が大きく掲載された痛ましい記事が、この定礎式の日の各紙の1面を埋め尽くしていた。その新聞が定礎に保存されたのだ。
※新聞1面記事の画像は、許諾期間が過ぎたため、削除しています。
痛ましい出来事である。
あの衝撃からもう20年も経つのかと、時の流れの早さに驚く。
青山学院にとってみると、ガウチャー・メモリアル・ホールという建物の定礎に、ビルが壊れる写真が入っていることに、少しばかり縁起が良くないのでは、と思ってしまったものだが……。
ガウチャー・メモリアル・ホールが解体される遠い将来、この定礎からは当時の資料として、これらの新聞が発掘されるのだ。
DEDICATED
青山学院の定礎には「DEDICATED」と記されていた。
辞書を調べると「献納する、捧げる、奉呈する」という意味であった。
その意味から、おそらくキリスト教に関わりがあるのだろうと思い、宗教センターの方に伺ってみたところ、
とご回答いただいた。
定礎のことを調べていると、「青山学報」52号(1965年12月1日)に『勝田館の定礎に入っていた文書を発見』という記事を発見した。
勝田館(かつたホール)。
1918年11月に完成。勝田銀次郎氏(校友)の全額寄付により建設された、勝田氏の名前を冠した当時の高等学部の校舎である。
現在の大学2号館が建っている場所に造られた。
一見して、まるで東京駅を思い起こさせる風貌。
それは当然だった。
東京駅を設計した辰野金吾が勝田館を設計していたのだ。
1965年、長年、青山学院資料センターに保管されていた謎の鉛製の箱を切り開いてみたところ、中に入っていた文書などから、1917年8月3日に行われた勝田館の定礎式で埋められたものだと判明し、その発見された中身が紹介されていた。
〈鉛の箱の中身〉
ここでも「聖書」が入っており、また「教育勅語」が入っているところがその時代を象徴しているものであろう。
勝田館を調べていたら、興味深い事実を掘り当てた。
1918年11月16日に行われた勝田館の落成式で、前々年まで日本国の首相の座にあった大隈重信侯爵が挨拶に立った旨が、「青山学報」9号(1918年12月20日発行)に記録されていたのだ。
ほかにも阪谷芳郎(貴族院男爵議員、元東京市長)、澤柳政太郎(成城学園創立者)、井深梶之助(明治学院第2代総理)の挨拶があり、「学院ありてより未曽有の盛会だった」と記されていた。
大隈重信侯、当時80歳。
大隈侯が青山学院の教職員や在校生、来会者の前で語った言葉が記録されており、一部ご紹介したい。
時あたかも、落成式の5日前の1918年11月11日に第一次世界大戦の休戦協定が締結されたばかりで、大隈侯は、第一次世界大戦がはじまった時の日本の首相であり、感慨深いものがあったのだろう。この「青山学報」には、大隈侯が、民主主義の勝利について、そして世界情勢について聴衆に語った言葉も記録されている。
大隈重信侯爵の来校。
未曽有の盛会、さもありなん、だ。
さて、勝田館だが、残念なことにその歴史は想定外の短命に終わる。
完成からわずか5年後の1923年9月1日に発生した関東大震災で倒壊してしまった。
しかしながら、定礎の”タイムカプセル”としての役割の意味では、1965年にようやく中身を切り開き、日の目を見たことから、歴史的な役割を大いに担ったと言えるだろう。さらには今年2021年、この「アオガクプラス」なるもので広く紹介されることになったのだから。
煉瓦造2階建、総床面積約2000平方m、ひとつの建物をまるごと寄付する。
院長館の建設費用も寄付。
寄付総額31万円。
現在の金額に換算するといくらになるのだろうか?
こんなにも桁外れに気宇壮大な人物とはあまりお目にかかる機会はないだろう。
勝田銀次郎。
1873年、愛媛県松山市に生まれ、松山中学校卒業後、当時の新天地、北海道を目指した。
その北海道へ向かう汽車の中で、本多庸一と隣り合わせたという。
運命の出会いであった。
その時本多は、学問の基礎を修めること、世界に雄飛するためには英語を身につける大切さを説き、東京英和学校への紹介状を銀次郎に渡したという。
それに感激した銀次郎は東京に戻り、青山学院と改称する直前の東京英和学校に学んだ(1891~94年)。
勝田銀次郎については、ここで語るには大人物すぎるため、ぜひ別の機会にご紹介したい。
さて、
次に定礎式が行われるのは、大学の新図書館棟だろう。
いよいよ2021年4月から建築工事が始まる。
〈参考文献〉
・『青山学院の歴史を支えた人々』氣賀健生著 2014年 学校法人青山学院
・『みんなの建設業Q&A50』2013年 東京建設業協会
・『大隈重信(下)巨人が築いたもの』伊藤之雄著 2019年 中公新書
・「高等学部校舎新築落成記念 私立青山学院写真帳」1918年
・『靑山學院五十年史』1932年 青山学院
・『青山学院九十年史』1965年 学校法人青山学院
・『青山学院120年』1996年 学校法人青山学院
・「青山学報」9号 1918年12月20日発行
・「青山学報」52号 1965年12月1日発行
・「AGU NEWS」vol.9(2001年10・11月号)
〈協力・資料提供〉
・青山学院資料センター
・宗教センター