Story ストーリー

キリスト教教育禁止令に立ち向かった院長、本多庸一

青山学院の150年近い歴史の中で、学院の存続が危ぶまれた時期がいくつかありました。
これまで2回に分け、太平洋戦争中の出来事から、國澤新兵衛院長事務取扱と、小野徳三郎院長のエピソードを紹介いたしました。
今回は、明治期の日本におけるキリスト教界の中心人物の一人として活躍し、『文部省訓令第十二号』という宗教教育の禁止令に立ち向かった、本多庸一(ほんだ よういつ)院長を紹介いたします。

 

第2代院長 本多 庸一(ほんだ よういつ)

 (院長在任期間 1890年7月~1907年6月)

1887年9月、東京英和学校校主に、本多庸一が就任しました。校長はRobert S. Maclayであり、外国人が学校経営者になれなかったため、法律上の学校代表者としての校主という立場でした。
時に本多39歳。

本多は、1848(嘉永3)年12月13日、津軽藩弘前城下の在府町に武士の子として生まれました。藩命により英語を学ぶために横浜に留学し、その時キリスト教に入信します。廃藩置県で青森県となった故郷の弘前市に新しく開校した東奥義塾という私立学校の塾頭を務めたほか、伝道活動を行い、自由民権運動を主導し、青森県議会議員・議長を務めたのち、青山学院に着任しました。

1890年7月、Maclay校長が帰米し、空席だった東洋英和学校校長の座に就任します。

1894年に東洋英和学校は青山学院と改称。青山学院では、初代青山学院院長をMaclayとし、本多は第2代の青山学院院長と位置付けています。

教授としては、神学部で牧会学と説教学を講義、高等学部と予備学部(中学部)では英語と聖書を教えました。

『学生に対して、コセコセと小過失までも挙げて叱責することをせず、ただ笑っているのみ。
日曜日に野球の練習をしていた学生に、微笑しながら「安息日です。球も休ませてあげてください」と言った。「規則を盾に叱られると反感を起こすが、このように言われては心服のほかない』と、岡田哲蔵著『本多庸一伝』に記されています。

高等科卒業記念写真 1907年3月 中央少し右に本多

 

本多については、青山学院の器にとどまらず、日本国内でのキリスト教伝道者としての活躍が大きく、ここでは語り尽くすことができません。そこで、創立25年にして襲った宗教教育の禁止令に対して、青山学院を、さらには日本のキリスト教主義学校を、どのように導き、救ったかをご紹介したいと思います。

 

文部省訓令第十二号 宗教教育の禁止

1890年の教育勅語発令後から、“文明開化”は終焉し、キリスト教に対する攻撃がはじまり、キリスト教主義学校にとって受難の時代となります。1891年の文科大学(現東京大学文学部)井上哲次郎教授による「宗教と教育との関係についての談話」をきっかけに大論争が展開され、内村鑑三らとともに論陣を張った一人が本多でした。

そのような折、1899年に文部省訓令第十二号が発令されます。それは宗教教育を禁止するものでした。この時同時に発令された私立学校令も、学校における宗教教育・活動の規制を意図したものでした。教育勅語中心の教育の推進を図る文部当局にとって、キリスト教主義学校の隆盛・拡大は危惧すべきものとされたのです。

以下は文部省訓令第十二号の原文です。
「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ」(文部科学省ホームページより引用)

訓令に従い、キリスト教教育を放棄し、高等学校入学や徴兵猶予の特典をもつ学校として存続させるか。それとも、キリスト教教育を保持し、特典をはく奪された「各種学校」として歩むか。
日本のキリスト教主義学校は、岐路に立たされたのです。

青山学院においても紛糾しました。
外国人理事たちは、キリスト教を護持し、各種学校となる道を選択し、日本人理事たちは、それでは衰退することが目に見えるため難色を示したようです。
当時の理事会記録が消失しているため、本多がどのような発言を行ったかは不明とされていますが、理事会としては、年度中は、一時宗教教育をやめ、中学校を維持して最上級生を卒業させ、翌年度からは、断然特典を返上し、各種学校となってもキリスト教教育を堅持することを決定しました。

キリスト教主義学校の代表者たちは、抗議活動を行います。その中心となったのが、明治学院総理の井深梶之助氏と、青山学院院長の本多庸一でした。二人は若かりし頃、横浜で共に学んだ同志でした。山縣有朋首相や樺山資紀文部大臣らに陳情・請願運動を行います。

しかし宗教教育の禁止が覆ることはなく(1945年の終戦まで続く)、上級学校への進学資格の無い、徴兵猶予の特典も無い学校に、学生・生徒は集まらず、退学者も出て、学校の存続さえも危ぶまれる事態となります。
キリスト教教育の中止の道を選ぶ学校もあり、対応は様々でした。

1901年卒業予定の中等科の学生と。前列右から3人目が本多。
この中からも訓令の影響で転校者が多く、卒業期には学生数はさらに減少した。

 

窮するところ即ち通ずるの理

本多は、息の長い対政府交渉を根気よく続けました。

1900年4月、キリスト教教育を続ける道を選んだ青山学院は、訓令に従い、尋常中学校を廃止し「中等科」に、高等普通学部を「高等科」と改称します。「各種学校」となりましたが、中学校の名義は無くても、それと同等の特典「上級学校入学資格」「徴兵猶予」を実質的に獲得する運動を展開していくのです。

5月には、文部次官、文部大臣を訪ね、特典回復のための請願を行い、個々の具体的条件について、文部当局の妥協と了解を取り付けていきます。「隠忍を守りつつ、一歩一歩と特典を回復」と記録されている本多の努力により、翌年1901年5月には、青山学院中等科は、キリスト教教育を保持したまま、中学校同等以上、と認定され、徴兵猶予の特典を回復。高等科も9月に徴兵猶予の特典を回復しました。上級学校への進学も、段階を経て、3年で元の特典を回復します。同様に、明治学院などのほかの学校も回復していきます。
また、青山学院はキリスト教主義学校の中で初めて、高等科の卒業生に対し、英語科中等教員無試験検定の認可がおりました。

訓令公布後、3~4年で骨抜きにしてしまったのです。
そして1903年には、専門学校令により、正式に旧制専門学校として認められるのです。

これらの動きは、井深氏の日記から紐解かれています。本多の記録は、1901年の自宅火災で残念ながら焼失してしまったそうです。

当時、同問題にあたっていた青山学院の岡田哲蔵教授は、「大局的効果を読んで手を打つ行動派」と本多を評しています。本多の持ち味、忍耐強い漸進的、現実的政治力をいかんなく示した事例であると、著書『本多庸一』に書かれています。

また、青山学院の教育方針の中に、キリスト教教育を中心に据える一方、日本社会の現実の秩序を重んじることも明記し、法令遵守を学生らに命じています。教育勅語とキリスト教道徳を、学校の根本方針として掲げました。
本多は、基本的な筋を通しながら、現実とのバランスを考慮し、ことの軽重を推し量る行動と性格とされ、「偉大なる調和者」と同時代人に評されています。

『このときの各学校の協力を契機に1910年4月、男子校10校(注1)が「基督教教育同盟会」を組織し、第1回総会を同志社で開催した』と、キリスト教学校教育同盟のホームページの沿革に記されています。

この時本多は、日本で布教活動をしていたメソジスト3派(アメリカ・メソジスト監督教会、アメリカ・南部メソジスト監督教会、カナダ・メソジスト教会)の合同が成り、1907年、投票の結果、初代日本メソジスト教会監督に就任します。規則上、青山学院院長との兼任が許されなかったため、本多は青山学院院長の職を辞すこととなりました。

メソジスト3派の全権団 後列右から2番目が本多

 

 

「我輩の学校よりManを出さしめよ」

青山学院としては大いなる損失であり、本多の引き留めを図りますが、本多の意志は固かったといいます(1909年、青山学院は本多に名誉院長の称号を贈った)。

送別会で本多は次の言葉を青山学院に残しています。
「希(ねが)わくは神の恵により我輩の学校よりManを出さしめよ。Manの資質多くあるべしといえどもSincerity、Simplicity最大切なるべし…」と。

 

永眠の時

1912(明治45)年3月26日午前10時30分、日本メソジスト教会の西部年会が行われた長崎の地で、病気のため亡くなります。
本多庸一、63歳の生涯でした。

当時、徳富蘇峰が『国民新聞』で「本多庸一君の長逝は東北をして其一人物を喪わしめ、基督教をして其一元老を少なからしめたり。而して日本国民の立場より見るも一損失たるを得ず、是れ真に惜しみても余あり」と、本多の死を悼んでいます。

本多の訃報が青山学院に伝わった時の様子が、「青山学院校友会会報」16号(1913年)に掲載されています。

『本多が生涯を終えたその日、青山学院では午後2時から卒業式が行われていた。
式が終わろうとしていたその時、本多名誉院長永眠の電報が届き、壇上にいた小方仙之助院長に手渡された。小方は立ち上がったが涙余って読むことができない。傍らの石坂正信高等科長に手渡した。「科長突として屹立す。手わななき足震ひ、涙先ず降る。容易に口する能わず、漸くにして『ホンダ』と云ふや、会衆は『アッ!』と叫び、電気に打たれる如く泣き崩る。ああ何たる悲哀ぞや…。』

いかに本多が青山学院の慈父として親しまれていたかが伝わってきます。

青山学院構内を出発する本多の葬列 1912年4月6日

 

青山キャンパスの間島記念館の左横に本多の胸像が立ち、とこしえに青山学院を見守っています。「Manを出さしめよ」と。

 

〈参考文献〉
・『青山学院九十年史』学校法人青山学院 1965年
・『本多庸一』学校法人青山学院 1968年
・『本多庸一 信仰と生涯』気賀健生著 2012年 教文館
・『青山学院100年』学校法人青山学院 1975年
・『キリスト教学校教育同盟百年史 資料編』キリスト教学校教育同盟 2012年 教文館
・「青山学報」
・「青山学院校友会会報」

注1)明治学院、東京学院、青山学院、桃山中学校、大阪三一神学校、関西学院、神戸神学校、東山学院、福岡神学校、同志社