青山学院大学陸上競技部と箱根駅伝【アオガクタイムトラベラー】
2022/02/11
2022年1月2・3日に行われた第98回東京箱根間往復大学駅伝競走(以下、箱根駅伝)。2年ぶり6度目の総合優勝を完全優勝(往路・復路優勝)で、さらに大会新記録で飾った青山学院大学。多くの青山学院関係者やファンの方々に感動を与えてくれた。選手、スタッフの皆さん、ありがとう。そして応援してくださった皆さま、ありがとう。
本学の選手の活躍だけではなく、出場校すべての選手たちの懸命な頑張りがあるからこそ、箱根駅伝に多くの人々が感動し、声援を送るのだろう。
この時期、出場大学の学生部や広報部門は正月休み返上である。法人や大学の執行部の先生方も一緒だ。コロナのせいで、現地に行けなくなってしまっているが、選手たちへの熱い思いは変わらない。
我がタイムトラベラー隊本部でも、正月明け早々の話題は箱根駅伝である。
「初出場の駿河台大学は総合19位だったけど、さわやなゴールで、まるでうちが33年ぶりに出場した時のようでしたね」とホワイト隊員が語った。
ちなみに、アオガクタイムトラベラーの隊員の名前は、全員カラー名である(懐かしいフレーズ……)。
そう、全く同じ印象を受けた。2代目“さわやか旋風”を起こした駿河台大学(勝手に2代目などと申して、すみません……)。今後の活躍が楽しみだ。
そういえば、原晋監督が就任した頃、「青山学報」の取材で町田寮に行って、監督や選手たちにインタビューをしたものだ。ホワイト隊員たち仲間と手分けして、箱根の各区間に行き、選手の走っている写真を撮った。下調べをしなくても、電車に乗っていわゆる“駅女”の方に付いて行けば、撮影ポイントに行けたものだ。
(今では、撮影に規制がかかり、出場校でさえも自校の選手の画像を特定の会社から買い取らなければならないシステムになっている)
そして2021年6月から我がタイムトラベラー隊の隊長に就任したレッド隊長は、1992年から今までの30年間にわたり、陸上競技部のコーチを務めている。
よし、箱根駅伝出場までの歴史を追ってみよう。
半年ぶりのタイムトラベラー隊の出動である。
これまでの青山学院大学の出場記録は表のとおりである。
46年前。
1976年1月の第52回箱根駅伝で、青山学院大学の襷はゴール直前で途絶えてしまった。公式記録は「途中棄権」。
『青山学院大学陸上競技部90周年史(以下、90年史)』の寄せ書きで、伊藤定良大学学長(当時)が、その時のことに触れている。「ラストランナーがゴール手前150メートルのところで意識を失い、それ以来タスキが途絶えることになるという悲劇です。(中略)テレビで繰り返し放映されるなかで、青学は箱根駅伝の悲劇を体現するものとなってしまいました。」
同誌に記されている当時陸上競技部1年生の熊谷さんの手記の描写が、その光景をまざまざと蘇らせてくれた。
この後、箱根駅伝への出場は遠ざかった。
そして、悲劇から33年。2009年の箱根駅伝への出場が決まった。
2008年10月18日、昭和記念公園で行われた予選会。「85回」という5年ごとの記念大会にあたるため、出場枠が3校増え、上位13校が出場できるという大会。
9時にレース開始。11時結果発表。
マネージャーのタイム集計によると、出場は叶わないという結果。
ところが、
「13位・・・・・・・・・・青山学院大学」
その瞬間、歓喜が爆発。
マネージャーの集計ミスだったようで、それだけに、思わぬ予選会通過に、驚きと喜びが入り交じり、大興奮に包まれた。
14位の法政大学とは、わずか6秒差。
33年ぶりの箱根駅伝出場という皆の夢が叶った瞬間であった。
原監督、半田正夫院長代行(当時)、選手らが胴上げされ、報道陣からインタビューが殺到した。急遽、立川駅の傍のレストランで祝勝会が行われた。
33年振りの出場に至るまでを振り返ってみた。
大きく動いたのが、2003年だろう。
5月17日に行われた陸上競技部「第1回強化委員会」の記録に『新監督の招聘について』という案件が記されている。当時の陸上競技部の部長は伊藤文雄先生(大学国際政治経済学部教授)だった。
伊藤先生は、1996年、陸上競技部の部長に就任した。安藤弘敏陸上競技部コーチからの3年にわたる懇請を受けた形だった。
そして2004年4月付で原晋氏を招聘した。
これまで陸上競技部OBの中で、本業の傍ら監督業を担っていただくことが多かったが、強くなるためには“常勤の専任の監督”が必要であり、これまで確固とした実績を作ってこられた伊藤先生の部長就任を是が非でも実現したい、という安藤コーチの強い思いがあった。そして新監督には、選手として勇名を馳せた方の招聘が一番良いものの、報酬費用もかかり、体育会のほかの部と差を出すこともできず、新監督候補として後輩OBの伝手で探してきたのが、原晋氏だった。
原氏のプレゼンを聞くに及び、サラリーマンとして管理職の経験があり、“10年で優勝させる”という目標を掲げ、さらに中国電力を退社し退路を断ったことで本気度の高さを評価し、伊藤先生を中心に、原氏の招聘を決めた。
この学外からの監督招聘に対し、内外からの反対意見も多く、OBらとの軋轢も生じたという。
伊藤先生は、特別強化部指定制度の指定獲得、町田寮の開寮、学内での調整などを進めていった。
法人も、当時の法人常務理事金山仁志郎氏(2021年12月8日ご逝去)が中心となり、寮の購入など、施設・資金面でバックアップした。
そして伊藤部長の前にその職にあった半田正夫先生が当時大学学長の職にあり、同じ思いが強く反映される形となった。
体育会の“部長”という役割として必要なこと、それは、人(指導者、選手)や資金(施設)の獲得、学内調整、体制作り、が求めらるのであろう。
これらを一手に引き受け、実現したのが、伊藤文雄先生であった。
こうして、新体制への舵がきられたのが、2003年であった。
先に、伊藤文雄先生のご功績について触れておきたい。
伊藤文雄先生は、青山学院大学の発展の歩みにおいて、重要なキーパーソンのお一人であろう。
1982年の国際政治経済学部の開設と厚木キャンパスの開学に携わり、国際政治経済学部長時代には、ゴルバチョフ夫妻を青山キャンパスに招き、本学の大学生との対話集会を開催した(1992年4月14日)。翌年にはカーネギー・メロン大学などとのテレビ会議システムを利用した国際合同授業を行っている(1993年11月19日、文部省、私大連、企業等に公開)。そして2001年4月、私立大学では初となる、専門大学院「国際マネジメント研究科国際マネジメント専攻修士課程」(現・専門職大学院国際マネジメント研究科)の設置に携わった。
これらの本業とは別に、90年史の中で伊藤先生は、「自身は学生時代に体育会活動に参加していなかったが、なぜか体育会活動に関心がある」と語っている。
バスケ部の話である。
伊藤先生は1979年に、大学バスケットボール部男子部門の部長に就任している。それまで、1部と2部を行き来するような戦績だったが、1983年から大学が導入したスポーツ推薦制度により、強い選手を獲得できるようになったのだろう、1985年には1部リーグに昇格し、1987年に全日本選手権で4位、翌1988年には同選手権で準優勝を果たしている。この年は、後に日本人プロ第1号となった外山英明選手や、後に社会人リーグで活躍する廣瀬昌也選手を擁していた。スタッフも変わり、監督に並木浩氏が、コーチには、2010年と2011年に大学バスケ界の4冠を達成した時の監督・長谷川健志氏が就任している。伊藤先生の時代に“少数精鋭チーム”という伝統が形作られたようだ。
1988年まで、部長を務めた。
次は、野球部の話である。
大学硬式野球部が東都大学リーグで初優勝したのは1988年の秋季リーグ。創部105年にしてようやくつかんだ優勝だった。
1883年、東京英和学校(青山学院の前身)に野球部が創設された。1951年に東都大学野球連盟に加盟している。今でこそ、数多くのプロ野球選手を輩出している名門であるが、初優勝まで100年以上かかっていたことに、少し驚く。
この初優勝した時、部長を務めていたのが、またしても伊藤文雄先生であった。
1987年から、野球部の部長をも務めていた伊藤先生のもとで、同年、河原井正雄氏を監督に招聘し、早くも翌年、初優勝を飾ったのだ。
この監督招聘の際にも、内外からの批判にさらされ、さぞかしご苦労されてきたのであろう。その歴史が長い分だけ、変化を起こすことが困難であることは、人類の歴史が証明している事象だ。
「バスケット部及び野球部を試合に勝てる部に育てるためにいろいろな苦労をしてきました。特に、優勝させるための監督問題で計り知れない辛苦を味わってきているだけに、二度と体育会の部長はしないという気持ちもあり(後略)」と90年史で伊藤先生は語っている。
また、伊藤先生は「青山学報」141号(1988年12月)で、野球部の初優勝について文を寄せていて、「学生の帰属意識」の重要性を語っている。
そして陸上競技部の話である。
野球部の部長を退き、1996年、陸上競技部の部長に就任。
その功績は、既に述べた通りである。
このように伊藤文雄先生は、青山学院大学の国際化推進という本業とともに、言わば「優勝請負人」といった存在でもあった。
伊藤先生が、安藤コーチの懇請を受けて部長を引き受ける際に、次のように語ったそうである。
「バスケットボールや野球だと、会場を観客でいっぱいにできるとしても数万人ですが、駅伝だと沿道やテレビなどで何十万人の在校生や卒業生が応援してくれますね」と。
箱根駅伝出場は、学生の帰属意識向上に加え、卒業生の帰属意識を高める結果となったと感じている。そしてステークホルダーも広がっていった。
現在、陸上競技部の部長を務める内山義英先生(大学国際政治経済学部教授)は、2000年に副部長に就任し、伊藤先生とともに歩み、2007年から部長職を引き継いでいる。本業の傍ら、休日も無いようなご活躍をされている。優勝をするようになったため、さらにご多忙である。
さて、話は戻り、
いよいよ町田寮が開寮、である。
2004年3月19日、陸上競技部中長距離ブロック専用の合宿所「町田寮」開寮式が、寮内地下1階食堂において開催される。
深町正信院長(当時)から、陸上競技部の歴史の紹介と激励の言葉があり、前年の12月から大学長に就任した武藤元昭学長からは、「ただ強いだけではない、本当の日本一のチームに育ててください」との挨拶があった。そして伊藤文雄部長からは、ぜひご協力をいただきたい旨のシンプルな挨拶があった。町田寮内の食堂という狭い場所ながら熱気にあふれていたことを、撮影に入った私も覚えている。
町田寮は、某企業の独身寮を買い取ったもので、地上3階、地下1階の建物で、一人一部屋だった。2004年4月1日の開寮時、26名の部員が入寮した。
開寮式では、「近い将来、本学陸上競技部の濃緑のユニフォームが、箱根路で見られることでしょう」と原監督は抱負を語った。
この町田寮で欠かせない存在が、寮母の原美穂さんだ。
開寮以来18年、夫婦で過ごしてきた。
選手たちにとって、監督に言えない悩み事などを相談できる、頼もしく、そして眩しい存在だ。
監督にとっても、助けられた部分がさぞ多いことだろう。
ちなみに現在の町田寮はかなり老朽化が進み、部員数も増え、全部員を収容できる収容能力もなくなっているようだ。
少し心配である。
原監督の新体制が始まった。
「青山学報」には、原監督の言葉が残っている。
●「第81回箱根駅伝」予選会報告
●2006年1月の箱根駅伝の学連選抜チームに仲村一孝選手が出場
仲村選手は、高校時代に全国大会出場経験もなく、スポーツ推薦選手として入学してきた選手でもなかった。身長も159cm。なぜ出場できたのかを原監督は以下のように分析している。
●2008年を振り返って、檜山雄一郎キャプテン、横田竜一選手と、原監督との対談
90年史で原監督は、4代目主将檜山雄一郎さんへの感謝の言葉を記している。
先述の通り、2008年10月18日の予選会で最後の13校目の枠に入り、念願の本戦出場を果たす。
本戦の記録は、23校出場中22位(うち1校は棄権)でのゴールだったが、襷を最後まで笑顔で繋ぎ、見る人々にさわやかな印象を与えた。
久しぶりの出場だったため、撮影・取材の勝手がわからず四苦八苦したが、楽しかった。
のぼりの配置などで校友などの多くの方々のご協力をいただきながら、数多くの青山学院関係者が沿道で応援できるという喜びを味わった。
大会終了後、「青山学報」で原監督が語っている。
翌年、再び予選会からのスタート。
出場枠が通常に戻り、11校が選ばれる。
8位で通過。本戦への出場が決まった。
そして本戦では、8位に入り、早くもシード権を獲得。
昨年の22位からのまさかのシード入りを実現した。
以降、今日まで、シード権を堅持している。
2015年、往路・復路ともに優勝の総合優勝を果たす。原監督が就任してから11回目の箱根駅伝。
「青山学報」に掲載された原監督のコメントをご紹介したい。
監督に就任して最初の3年間は、種をまくためにひたすら畑を耕していた時期です。優秀な人材を確保し、部の体制を箱根駅伝出場に向けてしっかりとした土壌にするため、避けて通れない道でした。4年目を迎える前には廃部の危機もありましたが、2004年に私と同時に入った「強化部1期生」たちが最上級生となった時、私とやりたいと言ってくれました。思えば、そこがチームとして真のスイッチが入った瞬間でした。
練習には、これは良いと思ったことをどんどん採り入れました。例えば会社員時代のビジネス手法もそうです。選手に目標達成率と今後の目標、その理由を書かせます。書き出すことで思考を整理でき、寮の廊下に貼って人の目に触れることで、目標を達成しなければという責任感も生まれます。この方法で選手たちの自主性が育ち、怪我も減りました。
青山学院の執行部、教職員、在学生、校友の方を含め、多くの皆様からの応援ありがとうございました。今回の箱根駅伝は、応援してくださる皆様がワクワクできるようなレースをしたいという思いで挑みました。優勝という結果が、青山学院のさらなる団結力、結束力の一端を担えれば幸いです。
卒業生で組織する青山学院校友会に「箱根駅伝を応援する会」という団体がある。長らく同会の会長を務め、応援してくださったのが、学生時代に応援団に所属していた長谷川裕晃氏であった。長谷川氏は、33年ぶりの出場を決めた予選会で、「13位……青山学院大学」とのアナウンスがあった時、思わず隣にいた半田正夫院長代行に抱きついた、と90年史で語っている。
その後、本戦の応援の仕方を他校の関係者に尋ね、青山学院大学が恥をかかないよう、応援に万全を期したと語っている。同じ応援団出身の野崎武夫氏に依頼し、箱根にある野崎氏所有の駐車場を箱根の応援拠点として提供していただいた旨も記されている。
2017年の箱根駅伝の際に、その応援拠点「フィッシングショップノザキ駐車場」に伺い、野崎氏の取材をさせていただいた。奥様やお兄様など家族総出で、夜明け前から300人分の豚汁を仕込み、応援者やレース後の選手たちにふるまってくださっていた。長年のご奉仕・ご厚意に対し、感謝の念に堪えません。
そして長谷川氏は、奇しくも初優勝したこの年、2015年5月12日にご逝去された。
ご功労に感謝するとともに、優勝を味わえたことが何よりのプレゼントだったのではと、その御霊を慰めずにはいられない。
長谷川氏が勤められていた会社の製品「コンソメスープ」を手土産に、広報部にもよくお立ち寄りいただいたことをホワイト隊員が思い出し、皆で懐旧談に花を咲かせた。
2004年からの原監督新体制スタートの立役者は、伊藤文雄先生と安藤弘敏コーチであろう。本学の卒業生でもなく、実績も全く無い人物の新監督招聘である。そこには当然、様々な軋轢が生じ、伊藤先生、安藤コーチがその矢面に立った。
新体制へと舵を取り、以来18年、原監督と安藤コーチは二人三脚で走り続け、14年連続出場、6度の総合優勝を果たしている。
安藤コーチは、33年ぶりの出場を果たした直後に発行した「青山学報」227号(2009年3月)で、次の話を寄せている。
安藤コーチによると、2009年の大会で使用した襷のデザインは「白地」であったが、駅伝界では白地は「繰り上げスタート」の際に着用する襷の色であったことから、2011年から緑地に変更になった、とのことだった。
またユニフォームも、2009年の出場の際はMizuno(美津濃株式会社)製で、胸に「青学大」と書いていたが、その後adidas(アディダス ジャパン株式会社)製となり、書体も明朝体に変更された。そして“オール青山で応援”する意味を込めて「青山学院」と変えたそうである。
襷やユニフォームにも、思わぬ秘話を発見した。
この襷をデザインした趙慶姫先生は、女子短期大学の副学長を務め、女子短期大学の閉学にあたって、青短の栄光ある歴史を残すべく、メモリアルサイトの作成や、記念碑製作などに奔走され、現在は大学コミュニティ人間科学部に所属している。デザイナーとして活躍され、先生が制作された作品が横浜市営地下鉄線や臨海副都心線の駅構内などの様々な場所に展示されている。
趙先生で印象に残っていることがある。岩手県宮古市の宮古港フェリーターミナルビルに壁画を設置する「アートでつながる壁画プロジェクト」で、当時の女子短期大学宗教主任の吉岡康子先生とともに精力的に活動されていたことだ。小さな体で縦横無尽に疲れ知らずで活動される姿に感銘を覚えたものだ。
また、安藤コーチは次の話も紹介している。
箱根駅伝出場への道。
それぞれの大学にそれぞれのエピソードが、宝のごとく、表に出ることもあれば、埋まっているものもあるのだろう。
お正月の風物詩として定着し、多くの人々が、その真剣勝負に固唾を呑んで見守る。優勝しようがしまいが、感動を与えてくれる、一つの生ドラマだ。
実は、この「アオガクプラス」は、“駅伝の青学”という、新たに作られたブランドイメージを払しょくすることを目的に立ち上げたオウンドメディアだ。駅伝はテレビ中継されるだけに目立つ存在であるが、ほかのスポーツでも活躍している本学の学生・生徒は多く、彼ら彼女らにも脚光を浴びてもらいたいし、青学にはほかにも誇れるものがあるのだ、という気持ちがある。
しかしだからと言って、やはり駅伝を避けて通ることは、公平ではない。
そこで今回、箱根駅伝に関して調査したところ、面白いことが続々と発見できた。そして多くの人々がこの新たな挑戦に関わってきたことがわかった。その挑戦のためのエネルギーは計り知れないものだった。
今回のタイムトラベラーの旅も、とても有意義な旅となった。
選手たちの立ち振る舞いが、青学の良いイメージを作ってくれている。まさに青山学院大学の広告塔だ。ありがたい。
「原監督がテレビに出すぎ」というご意見のお電話をいただくこともあった。確かにバラエティ番組への出演が多い時期もあり、“天狗”になっていないか危惧したものだ。
しかし監督の、“指示待ちではなく自分で考えて行動できる人物”を育てる教育、そして学生たちへの感謝の思いは、年を追うごとに強くなっているように感じる。
そして日本のスポーツ界へメッセージを発信し続けていることは、うれしいことだ。
これからも力強く歩んでほしい。
ほかの数多くのスポーツ活動とともに、これからも多くの人々に、勇気と感動を与え続けてくれることに願いを込めて。
【参考文献】
『青山学院大学体育会陸上競技部90周年史』青山学院大学陸上競技部OB会 2009年11月
「青山学報」各号
「あなたと青山学院」各号
「青山スポーツ」1~3号
「青山学院大学体育会誌」14~22号
【資料提供】
・大学学生生活部スポーツ支援課
・資料センター