復興の祖 万代順四郎
2022/12/12
この人物たちがいなかったら今の青山学院は無かった、と思われるほど、青山学院史上、重要な人物たちである。
どのような功績を遺した人物か。
本多庸一(1848-1912)は、1900年前後に青山学院院長(当時、東京英和学校、のち青山学院)を務め、青山学院のみならず、日本のキリスト教界を牽引してきた人物である。(過去記事「キリスト教教育禁止令に立ち向かった院長、本多庸一」をご覧ください)
米山梅吉(1868-1946)は、本多院長時代に青山学院(当時、東京英和学校)に学び、本多の薫陶を受けた後、三井銀行に入行。三井信託銀行の取締役社長や貴族院議員を務めたほか、当時の青山学院財団の常任理事や校友会会長を務める。また、私財をなげうち、「青山学院緑岡小学校」「青山学院緑岡幼稚園」を開校。財政・教育両面で、青山学院を支えた人物である。日本のロータリー(世界を変える行動人)の祖でもある。
そして万代順四郎(1883-1959)は、青山学院中等科・高等科に学び、三井銀行に入行。取締役会長まで昇りつめ、帝国銀行を興す一方で、青山学院理事長を務める。戦後は、ソニーの前身、東京通信工業を助け、会長職に就いた。青山学院には多大な資金援助を行い、募金後援会会長や財務担当理事に就き、青山学院の健全財政化を図った人物である。そして、苦学生のために自らの財産をなげうち、万代奨学金を開設した。
各々の間には15~20年ほどの年齢差があるが、本多からはじまり、本多の意志を受け継ぎ、まさに3代にわたって青山学院のキリスト教に基づく教育を精神的にも財政的にも支えてきた、青山学院を守り、育てた人物たち。
青山学院を愛してやまなかった偉大な先人たちだ。
米山から「おれのあとを継ぐんだぞ」と言われ、米山のように、青山学院に知恵も私財もなげうち、青山学院を支えた万代。
現在、青山学院は、万代順四郎を敬慕する青山学院理事長・堀田宣彌が万代の意志を受け継ぐべく「万代基金」を創設し、学ぶ若者たちを支援するための給付型の奨学金および教育研究資金の充実のために、奔走している。
正直なところ、万代のことはあまり興味が無かった。
これまで歴代の院長の中で、活躍された方々は紹介してきたが、「理事長」という職は私の“守備範囲外”だった。健全財政をつかさどる、という立場にあまり見ごたえが無い、と思っていたのだ(失礼な言いぐさである)。
教育界においては、この大切な財政が見落とされがちな傾向にある気がする。
今回、万代順四郎を調べ、思い知らされることになった。
そしてこの万代順四郎が、途轍もない人物であることがわかった。
「自分から威張って自慢することを好まない」という青山学院の良き伝統なのだろうか、そんな性格を大代表する人物であるがゆえなのだろうか、戦前・戦中の日本の金融・経済界にいかに重きを成した人物だったか、まるで知らなかった。
そして戦後、ソニーの前身、東京通信工業を愛し、そして青山学院をいかに愛していたか、まるで知らなかった。
恥ずかしいかぎりである。
戦後の青山学院の復興に力を注ぎ、奨学金制度を興した「復興の祖」万代順四郎の業績と人となりを、少し長くなるがご紹介したい。
10月某日曇天。広報部長と私で、横須賀市津久井にある、万代が晩年を過ごし、今は横須賀市に寄贈され市民に開放されている「万代会館」を訪れた。
事前に建物の見学をさせていただくご許可をいただき訪ねると、横須賀市教育長の新倉聡氏と教育委員会事務局の職員の方々が出迎えてくださった。新倉氏は奇しくも本学の卒業生だった。
「万代会館」の生い立ちから、市民の皆さんに愛されている存在であることなどをお聞かせいただき、万代に関する貴重な資料をいただいた。
また、建物内もご案内いただき、万代が晩年をいかに過ごしたか、しばし思いを馳せた。
庭はきれいに手入れが施され、藁ぶき屋根も見事に維持されていた。
庭の向こうには、海が見えるという。
近所の方々がボランティアで敷地の周囲の清掃をしていらっしゃるそうだ。
ここ万代会館で、市民団体の方々が「万代まつり」「万代テラコヤ」などのイベントを開催していて、万代の死後60年以上が経った今でも、万代の遺徳が生きているという。
昨年、定年退職された杉浦勢之大学名誉教授も現役の時に「建物探訪 万代順四郎と『万代会館』」と題して記事を寄せていらした。
横須賀市からご提供いただいた貴重な資料や、青山学院の3年先輩で同じ寄宿舎で生活した佐々木邦氏が編集した『在りし日-人としての万代順四郎』、経済研究所の石川英夫氏が著した『種蒔く人-万代順四郎の生涯』、万代と25年来の付き合いがあった新島保雄氏の「覚書」、そのほか万代について記された書物などから、万代と関わりのあった人々の証言をご紹介することで、万代順四郎についてお伝えしていく。
目次
主な略歴を列記する。
1883年6月25日 岡山県津山市から12kmほど東に位置する勝田郡勝央町勝間田の農家の次男として生まれる
1901年 青山学院中等科(4年)に入学
1907年 青山学院高等科を卒業
三井銀行に入行(大阪支店)
1914年 広瀬トミと結婚
1923年 イギリス出張(英国支店開設準備)
1924年 三井銀行名古屋支店長
1927年 三井銀行大阪支店長
1933年 三井銀行常務取締役
1937年 三井銀行取締役会長
1939年 青山学院理事長(3月~1943年6月まで)
1943年 帝国銀行取締役頭取
1945年 帝国銀行取締役会長(3月~1946年12月まで)
青山学院理事長(4月~1947年5月まで)
1947年 東京通信工業(現・ソニー)相談役
公職追放令
1951年 東京通信工業顧問
1951年 日本経営者団体連盟顧問
1952年 青山学院財務理事
1952年 経済団体連合会顧問
1953年 東京通信工業取締役会長
1959年3月28日 逝去(享年76)
村の高等小学校(現在の中学2年まで)を卒業後、家業を手伝っていたが、19歳の時上京。青山学院中等科(5年間)4年級に入学。高等科(4年間)を卒業するまでの6年間を青山学院で学ぶ。ほかの人よりも遅い年齢で中等科に入学している。
青山学院を選んだ理由として、
・同郷の友人で青山学院に学んでいた阿部氏のすすめ(新島保雄氏)
・外国人宣教師との交遊を通じて英語の勉強ができ、卒業後に中学の英語教師になることが可能なこと(石川英夫氏)
・アルバイトの口が多いこと(石川英夫氏)
が挙げられている。
青山学院で3年先輩だった佐々木邦氏は、万代を“はじめから苦学生だった”と回顧する。郷里を旅経つときに父親から渡された学費としての30円以外、自身で学費と生活費を稼いでいた。
父親からの餞別30円は、初年度の学費でほぼ使い、残りは全て自分で働いて稼いでいたことになる。
寄宿舎(青山7丁目の市電停留所前にあった)で生活し、牛乳配達、家庭教師、学院食堂の給仕など、様々なアルバイトで学費・生活費を稼いでいた。
当時は“アルバイト”という言葉がまだ無く「苦学生」と呼ばれ、一段下に見られる時代だったそうだ。
三田教会に、日曜日と水曜日に通い、礼拝と祈祷会の準備をする仕事で月2円の報酬を得ていた。
このとき、万代はキリスト教に受洗した。
学院内では苦学生として知られ、苦学生の代表として学生仲間から尊敬されていたという。
青山学院高等科を卒業後、本多と間島弟彦(校友)の推薦を受け、三井銀行に入行。大阪支店長だった米山の世話を受ける。
実は、就職活動では思うようにいかなかったようである。
万代が教文館に就職しようと訪ねたところ、断られた。帰ってきた万代は、同室の村上精一に向って「だめだった。どこへ行っても断られる。おれはどうなるんだろう?」と嘆いていたという。
これを記した佐々木邦は、自分も同じように教文館に就職活動に行き、断られたという。
その時の教文館の支配人の堀田さんは次のように言ったそうだ。
「ご覧の通り、文房具や本を売るだけの仕事で、小学校出でも間に合うんですから、あなたなんかもったいない。あなたの将来のためにお断りします」。
万代も同じように断られたのだろうと、佐々木は記している。
大阪支店勤務の後、横浜支店長だった間島のもとでも働いている。
間島弟彦は、後に三井銀行の取締役となり、青山学院理事や青山学院校友会会長を務める。
そして母校の図書館建築のためにと寄付をし(死後意思を継いだ)、間島記念図書館(間島記念館)が完成する。
間島と米山という、二人の人物との運命の出会いがあった。
その後、名古屋支店長や大阪支店長を務め、池田成彬(三井財閥総帥、大蔵大臣他歴任)の信頼を得て、1937年には取締役会長まで昇りつめる。三井が慶應義塾と深い関わりがある中、青山学院の、しかも高等科までしか出ていない万代が最高位に就くなど、異例の出世と言える。
時局に鑑み、1943年3月、三井銀行と第一銀行が合併し、帝国銀行を興す。取締役頭取(後、会長)に就任する。
帝国銀行を興す際、賛否両論があったようである。
1938年に一度話が持ち上がったものの、その時は流れ、1942年に第一銀行の明石照男社長との間で、急転直下、合併話がまとまった。
このほかにも、経済、金融、国などのあらゆる委員等を兼職した。
当時、民間における金融界のトップの存在であったことが見てとれる。
そんな忙しい身でありながら、青山学院の理事長を1939年3月から1943年6月まで、そして1945年4月~1947年5月まで務めている。
1945年8月15日、終戦。
公職追放(1947年1月発令分)指令前から、財界から一切身を引き、横須賀市の津久井に隠棲し、自給自足の生活を送る。
その公職追放解除(1951年)後、数多くの企業等から要職への就任要請が万代のもとにやってきた。
そのような状況下、若い技術者たちの未来のためにと引き受けたのが東京通信工業という新しい会社の会長職だった。今のソニー株式会社である。
一方、1951年12月に青山学院募金後援会の会長に就き、復興のための募金活動の音頭をとり、そして1952年5月からは青山学院財務担当理事に就任する。十年計画委員会を発足させ、復興計画を立て、実行。
さらには青山学院の健全な財政化を図った。
そして、これまでに得た報酬をすべて投げ打ち、青山学院の在校生のための奨学金の基金を青山学院に寄付。奨学金制度を開始した。
日本の敗戦後、万代は「二つの成長」を楽しみにしていたという。
一つは、東京通信工業。
そしてもう一つが、青山学院。
ここまで、ざっと略歴をご紹介してきたが、それぞれのシーンで関わりのあった人々が残したエピソードを引用して、万代の人となりをもう少し深く掘り下げてご紹介したい。
【注記】
万代の幼少期から青山学院在学の頃のエピソードをご紹介する。
●新島保雄 氏(三井銀行当時の万代の秘書、戦争中万代と同居、25年の付き合い)
・小さい時から勉強が好きで、字も上手だった
・農事の手伝いは苦手だったようで、金毘羅山に登って昼寝をして、夕方帰ってきて手伝いをさぼっていた
・自分の一生に影響を与えた人は母と本多先生で、社会に出てからは米山氏と池田成彬氏だった、と語っていた。母と兄に感謝していた
・母からは「人に迷惑をかけるな」「相手の立場や気持ちを考えなさい」と言われた
・「兄は自分のために犠牲になってくれた」
→晩年津久井の土地に、病身となった兄を呼び、建屋を建て、一緒に住んでいる
・岡田哲蔵が戦地へ従軍していた際、家に届く新聞を毎日、戦地の岡田宛に送っていた
●浅田源一 氏(同郷先輩、正路喜社社長)
同郷、同じ上京者で、よく食事を共にした仲。家族の付き合いがあった。
・青山学院の図書館の本の整理のアルバイトをしていた
・岡田哲蔵が戦地に行っている間、先生に頼まれ、先生の家に住むことになった
●上村巌 氏(同級生で同じ寮生活)「青山学報」より
・我々は苦学生と称され、万代君は家庭教師や炊事部食堂の手伝いをして、食費は免除されていた
・メソジスト教会の機関紙『護教』の発送の手伝いをしていた
「万代君はついに三井銀行会長の名誉ある地位に昇進され、独り本人のみならず、家庭と青山にとってもこの上ない名誉であり光栄であった」
・上村氏は教師となり修身の授業では「立志伝中の偉人である万代順四郎君のことを手短かによく話して教訓とした」
●成田潔英 氏(同級生)
「一見おとなしいのかどうかサッパリわからず、何事にも控えめなたちで、腕白連とは決して与しなかった。そのためか先生方には至って受けがよく、ことに石坂(正信)先生には可愛がられていた」
「彼の制服ときたら、中等科時代から高等科時代を通して、ヨウカン色になった安物の学服を着ていた。おそらく彼は、学院を卒業するまで、それ1着で通したのであろう」
「教室で並ぶ順はABC順であった。万代の頭文字はMと、私のNとが続いているので、いつも二人は肘を突き合わせて並んでいた」【“まんだい”と呼んでいた】
「私は『おい万代、米山(梅吉)先生が万一の場合は、君、先生に代わって学校の面倒を見てくれ』と2・3度言ったことがある。そのつど万代は『おれがいる間は大丈夫だから安心しておれ』と、いつも牢固たる確信をもって洩らすのであった」
万代と机を並べて仕事をしていた仲間や上司、後輩、仕事上の付き合いがあった方々のエピソードをご紹介する。
三井に入った当初、自ら高くとまって、銀行の実務である記帳、計算などの仕事に興味をもたず、そろばん球を弾くなどは適した仕事ではないと言って豪語する人もいた中、銀行の実務である以上これを厭うべきではない、と自ら進んで全般の仕事にわたってこれを体得しようという研究的態度であった。同輩の間で異彩を放っていた、という。
●浅田源一 氏(同郷先輩、正路喜社社長)
・入社後、米山の家に出入りが許された。米山が静岡へ帰郷中、留守番をした
・日曜日は、遊びに行かず、諸家訪問をしていた
・戦後、上京する時は、必ず浅田氏宅を訪れ、鶴見と鎌倉を訪れた。鶴見には米山の長男が眠る墓所がある。その長男の勉強を見ていた時があった。鎌倉には間島が亡くなった後住んでいる妻の住居がある
●安倍四郎 氏(日本銀行第19代総裁)
当時、日本銀行名古屋支店次席。万代は三井銀行名古屋支店次席
「長身痩躯にして、色浅黒く、毫も辺幅を飾らざる。寡黙にして時に口を開くも言辞訥々、冗談にふけるがごときは絶えて無く、言うところに理にかなわざるはなく、時流に媚びることなく、信念に生き抜く不屈の魂を蔵していた。近づけば眼光炯炯のうちに慈悲慈愛の気をみなぎらせ、あたかも仏陀の像に接する思いあらしめた。資性が赤誠廉潔、安分知足、節倹力行、を旨とし、環境に従って流水のごとく動いた」
「憂国の志士で、東京への往復時には、国家の前途を深く憂い、戦時中は軍部の横暴不見識を痛烈に罵り、これがためしばしば憲兵隊の追尾を警戒した」
●市川匡 氏(東京相互銀行専務取締役)
「銀行の部下からは甚だコワイ方だということだった。近寄りがたい存在。部下の面倒は他の人よりも数倍よく見てくれる人だった」
●別所豊次郎 氏(三井銀行)
・事業に融資した結果、失敗し、40万円の損害が出た時、「相談を受けた俺にも責任があるから」と言って、私財を提供、全額補填された。「持っていた株を全部売却して調達したよ」と
・青山に住んでいたころ、毎朝青山墓地に散歩に行っていた。先輩が眠るお墓があったから
●加藤武男 氏(三菱銀行頭取)
・真面目な、温厚な、万時控えめな人柄が真っ先に浮かぶ。面白い逸話がほとんどないくらい真面目。不言実行型の人
・終戦直後、大蔵省がGHQの言われたとおりにしか政策を行わず、混乱を極めている現状を二人でGHQの経済科学局長に言いに行ったことがある
・三井銀行を退いた時の退職金を青山学院に寄付
・自分の子どもがいなかったので、母校の若い学生一人一人を自分の子どものように考えていたのかもしれない
・公職追放で去った我々銀行の7人で頭取会を作った。月に一度会っていた
●酒井杏之助 氏(第一銀行頭取)
「(1945年)5月25日の大空襲で帝国銀行の本店で防護団の仕事をしていた。本店の地下室に集まり一同無事を喜んでいたら、外の薄暗がりから万代さんが入ってきた。『丸の内方面が真っ赤に見えたので心配してきたが、無事でよかった』と。聞くと万代さんの家が全焼したことを知った。万代さんは『なあに、ぼくの家は焼けてもしかたないよ』とこともなげに言われた。『これは口舌の人ではない。本物だ』と心を撃たれた」
「第一銀行頭取萩野正孝の葬儀を青山学院で行った際、第一銀行の創立者たち同様、葬儀の際にいっさいの供物をかたくお断りしていたところ、紙袋をもった万代さんが葬儀にいらっしゃった。紙袋に包まれていたのは、自宅で育てた水仙だった。遠路(津久井から)はるばる手作りの水仙を持参されたものの、受付で出すのをためらっていたのだ。私はただちに、『お心のこもったこの花を、何でお断り出来ましょう。故人も何にもまして喜ぶことでしょう』とお受けした。いまだにその時の万代さんのお顔が目に浮かぶ」
●美土路昌一 氏(朝日新聞社専務取締役、全日本空輸会長)
『重慶工作と万代先生』〈美土路氏も重慶工作に参画〉
「1944年の後半、宇垣一成による対中国和平工作を秘密裏に行った際、万代は当初から最後まで、条件の取り決めから、金策、随行の人選、重要な相談に参画しながら一度も表立って顔も出さなかった。ただ一途に国を思う至誠に、深く心を打たれた」
工作は陸軍部内の反対派による妨害により失敗に終わり、その報告を聞いた万代は、
「『あれほどの人が決死的の覚悟で働いても、内部からこんな結果を生み出すようでは、戦争の前途も日本の前途も全く闇だ』と憮然とされた。その時の様子が、今もなお鮮やかに私の眼底に残っている」
●安原米四郎 氏(全国銀行協会連合会事務局長)
「人間性善説を信用していたのか、どんな人でもその人を信用して応対しておられたように思います。自分が直接その人から痛い目に合うまでは、その人を善人と前提として応対する態度でおられた」
・自分がこうすべきだという結論を出したものについてはあくまでやり通す実行力を持っていた。他人が不正をするのを見ると激しく叱った
・終戦後の1946年、電車に乗るために長い列を待っていた。一つ空いている席に座ろうとしたら風呂敷が置いてあった。それは窓の外から学生が投げ入れていたもので、学生が後から悠々と入ってきてその風呂敷の席に座ろうとしたら、万代さんは激しく叱り、席から引きずりだした
●今井明 氏(富士製粉株式会社専務取締役)
大阪支店長時代の部下
・万代の意向で、係員に論題(「電力」「綿業」「人絹業」など)を割り当て、3か月で研究しまとめて発表せよ、というお達しが出た
「指名された者は大変である。平素仕事も相当忙しい中、それぞれ広い研究範囲で、資料の蒐集やそのとりまとめをせねばならぬことは、非常な努力を要することである。(中略)はたして3か月後に提出された論文は、いずれも立派な出来栄えであるということだった。いかに大変でも、やる気があれば、どんなことでもできるものであることをしみじみと感ぜしめ、少なくとも専心に研究・調査した事柄については、しっかりした自信を、若い者に持たせた効果は、十分あったと思う」
この研究論文発表がきっかけとなり、若い者の間に勉強会が作られ、総勢40名にのぼったという
●金子堅次郎 氏(三井銀行本店営業部長、三井物産取締役、東芝副社長・副会長ほか)
「取引先の立場を親切に考慮して、信頼のできる相手方の要望はぜひ通してやろう、そうすることがまた銀行のためにもなる、というやり方だった」
「世相や人心の動向にも常に注意を払い、銀行のこと、三井のこと、社会・国家のことに関しても、しばしば慷慨し警醒の言辞を耳にしたものだ」
・公正無私、熱心誠実
・門(津久井)を訪ねる者のあとが絶たなかった
●佐藤喜一郎 氏(三井銀行会長)
万代の後任
「帝国銀行の会長の座を退くまでの10年間は、わが国政治・経済の未曽有の激動の時代だった。金融機関の公共的性格と使命を認識して、健全経営の方針を貫いた。イギリスに行く途中、チフスに罹り、アメリカに立ち寄った際に、ニューヨーク支店にいた私が病院にお連れした。銀行家であったが、求道者のような面影を備えたお人だった」
●佐藤正男 氏(三井化学工業常務取締役)
・池袋支店長の時、アメリカ軍の爆撃で一帯が焼かれ、各銀行の店舗が焼失したとき、爆撃を受けなかった立教大学に校舎を借りて仮店舗を開こうと考え、ほかの4銀行と共同店舗を開設した。万代の即決のお陰で、三井がリーダーシップをとることができ、さらには一挙に5カ所の出張所も設け、繁盛するようになった。躊躇なく実践することで、業界をリードし、部下も活気づき、働きやすくもあった
・取引先に徹底的に親切を尽くし、今もその徳を慕うものが多い
●末村忠夫 氏(亜細亜浚渫株式会社常務取締役)
・三井と第一が合併し帝国銀行が発足して早々、三井側の行員は「三井だから就職したのに」と不本意な者や、他人のところへ同居した感じで溶け込むことができなかった。人事職制上の一案が役員会議にかけられようとしたとき、同僚間でこの案の阻止騒動が起きた。数日後、万代会長の自宅に呼ばれ、生意気な青二才にじゅんじゅんとお話を聞かせてくれた。大きな国家的事業を一人一人がよく理解し、分に応じて尽くすことが、単に新銀行としての義務にとどまらず、国民としての義務であることを痛感した。その話を仲間にも聞かせ、結局、円満に収まった
・三井系の心ある青年行員が一丸となり、新銀行の理想現実に邁進しようとする素地ができた。報国会という、経営者に青年行員が直結する組織が作られた
●竹内福蔵 氏(三井信託常務)
大阪支店長時代の部下
化粧品会社中山太陽堂が倒産に瀕しそうなとき、銀行本部からは新規貸し出し、商業手形の割引も一切禁止、貸金は早急に回収せよ、との指令が出たが……
「万代さんはなんとか更生させてやりたいと、ついに自分の持ち株を店主の中山氏に提供して、それを担保に他の銀行から借り入れさせ、自行の貸金に内入れさせたことがあった。感謝とともに、必死の努力を重ね、会社は立派に更生した。何でもない事のようであるが、ちょっと真似のできないことだと思う」
●横江嘉純 氏(彫刻家・彫塑家)
・万代氏が三井銀行で働いていた時、万代氏は丹治家に住んでいた。その丹治家に授業料を借りに行った時、お会いしたのが始まりで、生活の足しにと、達磨制作を発注してくれた
・名古屋、神戸、大阪と支店長を務められる際に自宅に立ち寄ったが、後援会まで作ってくれた
・「絶対にお偉方にペコペコ頭を下げるな。正しい自分の精神力で世のなかを切り抜けるようにしたまえ」と言われていた。自助主義を学んだ
●野呂慶三 氏(芝浦製作所会長)
・「金融業界は常にかくあるべし」との堅い信念のもとに行動されていたので、時には三井銀行に不利になることも、あえて断行するというやりかた。苦境に立った同業の銀行の救済を行った
「取引先などに対しても温かい指導を怠らず、あたかも自分の事業を育成するかのような気持ちで、その健全な発展を助けておられた」
●松田暢 氏(帝国銀行専務取締役)
・財界首脳者によって宮場前広場の土木工事の勤労奉仕が企てられ、万代さんが勤労奉仕に参加して帰店したとき「今日の参加者はぼくの仲間でぼく一人だった」と寂しそうだった。出征する行員や家族へ深い同情を寄せ、見舞い、慰問に気を配っていた
「熾烈な人道主義者でありながら銀行では片鱗をも見せず、この種の人にありがちな求道者的の言動を慎み、平素心でいられた」
●御手洗修 氏(三井不動産会長)
御手洗氏の三井銀行入社時、万代は人事担当常務
・「誠実が大切」「他人に迷惑をかけるな」「嘘は決して言うな」と言われた
●青木萃一 氏(三井銀行部長)
・30年以上悩まされたM事件(顧客による株主総会等でのいやがらせ)の解決は一大英断だった(複数の人が語っている。詳細は伏せる)
●渡辺牧太郎 氏(元三井銀行常務)
渡辺氏が短期現役兵として海軍主計課士官となって出征した際のエピソード。
「海軍航空本部総務部第二課に配属されたとき、当時の第二課長堤恭二主計大佐から『君は三井銀行だね。君のところの万代会長は、大変人格者で苦学力行の士を何人か書生にして社会貢献をしている奇特な方だね。尊敬に値する』と言われたが、海軍の人にも知られているその人柄は本当に敬服に値するものがあると衷心からそう思った」
●加藤義雄 氏(大東企業社長、青山学院校友会名誉会長)
加藤氏は戦時中陸軍に召集され、1945年7月、陸軍航空本部付けだった。
終戦直後、公務で帝国銀行の万代会長を訪れた時のエピソード。
「ドアを開けて先生のお顔を拝見する。私の目を見た先生は、からからと大粒の涙を流されました。そしてぼっつりと低い声で『加藤君、残念だった。これからの日本は大変だよ」と申された。戦争中、寺内元帥や山下大将をはじめ、多くの名将に仕えてきて、尊敬に値する立派な名将たちでした。しかしその時初めて、実業界における大いなる偉大なる偉丈夫を発見しました。日本の現実とその将来を憂うる憂国の士、たけだけしい姿を見出した、と申すべきでありましょう」
「『電気、水道、ガス、交通等の公共施設は直ちに復興されなければならない。資金はいくらでも出す』『自分が現職にある間は絶対インフレにはさせない』『これからは今までの三倍も四倍も働かねばならない。働かざる者食うべからずだ』と仰った。これが8月20日前後の先生の言葉でした」
亀嶋謙氏は著書『三井銀行を築いた異色の経営者たち』のなかで5人の歴代社長を挙げて紹介しているが、青山学院出身の米山梅吉、万代順四郎の両名を“異色の経営者”として取り上げている。
ここでの異色とは、明治末から昭和のはじめまでの40年間ほど、実力随一を誇った、三井銀行最盛期の時代を指している。
その著書から万代のみ抜粋する。
亀嶋氏は「万代は学業が特に優秀だったわけではなかったが、勤勉、篤実な人柄であったこと、そして米山梅吉との出会い、また、間島弟彦常務や、池田成彬からの厚い信頼を得ることで会長に昇りつめた」と記している。
また「出処進退が立派だった」と、公職追放後、夫婦で農耕に勤しみ、職にありつかず、どんな運命の下でも、どんな環境の中にあっても、運命に順応してそれを乗り越えていく姿を描いている。そして陰徳として、自分の名前を秘したまま、苦学生、美術家、学者に、そして母校青山学院に私財援助を行ったことを記している。
三井銀行での最初の赴任地、大阪では、支店長だった米山梅吉の自宅に居候していた。
米山の子どもたちの証言をご紹介する。
●高木愛子 氏(米山梅吉の長女)
・兄弟皆「ばんじゅんさん」と呼んで、まとわりついていた【“ばんだい”と呼ばれていた】
・高女入試準備の時、友達から借りてきた某高女入試問題集を一晩のうちに美しい筆跡で書き写してくれた
「地方在勤以外は戦火に焼かれるまで、数丁と離れていない場所に住んで、私たち娘が嫁ぎ、弟らが相次いで亡くなってしまった後の父(梅吉)を大いに力づけてくれました」
●米山桂三 氏(米山梅吉の三男、慶應義塾大学教授)
・初めての記憶が両親よりも万代さんだった。2・3歳の頃、万代さんに抱かれてあやされていた記憶。沼津の海岸で遊んでいて、波にさらわれた私を救い上げてくれた
・万代さんがイギリスに行ったときチフスに罹ってしまった。案じていた
・晩年の父(梅吉)は、なにごとも万代さんに計り、後事を託していたようだった
・空襲が激しくなると、万代さんに進められて郷里の三島に移った。貴族院議員だった父は、戦後最初の議会に登院するため上京したが、「万代さんに叱られた」と言ってしょげていた
・1946年に父が亡くなり、学院葬を営んでくれた。その時の万代さんは弔辞で、二言三言言うと嗚咽でほとんど聞き取れなくなってしまった。胸に迫る思いだった
・三島に残った母へも何度か足を運んでくださった。不便な行程を日帰りで
公職追放令が出される直前から、あらゆる職から退いた。
トミ夫人の病気療養のため、1937年に三浦半島の津久井に別荘を買い、夫人を住まわせていた。
万代は職を辞した後、この津久井の1,300坪の土地を畑とし、自給自足に近い生活を始めた。
1958年に三井銀行の退職者の親睦団体「三桜会」が発足し、万代は初代会長に推挙される。その就任のあいさつに立ったとき、津久井での1年間の収穫高を披露している。
※1斗=約18リットル、1升=約1.8リットル、1貫=3.75kg
昔お世話になった人々が津久井通いをして、懐旧談に花を咲かせた。
・野菜やシイタケの原木をお土産にいただいた
・奥様の手料理を味わった
・子どもを連れて行くと、相撲を取ってくれて、わざと負けてくれていた
・釣りに行った
・ミツバチを飼っていた
など、多くの方々のエピソードが語られていた。
万代は毎朝、馬糞拾いのために街道に出て、石油缶に入れて持ち帰り、落ち葉などを混ぜて堆肥作りをしていた。その数、累計でバケツ1,000杯以上になったという。
「肥料が無い、肥料が無い、と多くの人がこぼしているが、肥料が無いのではない。努力が足りないのである」と語ったという。
●竹中藤右衛門 氏(竹中工務店会長)
・公平無私、清潔、温情、真摯、高潔。名聞を求めず操守厳であった
・戦後、国家枢要の職を求められたことも多かったが一切受けられず、横須賀に引退されて悠々自適、晴耕雨読の時を過ごされた
●藤沼庄平 氏(警視総監)
「口数は少ないが結論ははっきりしていて同意できるのです。心中に敬服しました。このころは口ばかりで人柄のない、実行の伴わない言説ばかりが多い。そぞろに故人を懐う」
●長井村太 氏(日本恩友株式会社取締役)
戦後、政府が国策の電源開発会社の創立にあたり、最初の総裁就任の打診に津久井に訪れたが、万代は拒絶した
「(万代が就任を拒絶したことが)当時の新聞に大々的に報じられた。名利に淡かりし、敬服のほかなし」
●西村元吾 氏(三井信託銀行監査役、日本交通株式会社監査役)
大阪支店時代、公私ともにお世話になった
「津久井に行った時『百姓の仕事も、結局は書物をよく読み、自分で工夫しなければ、良い成果を収めることは困難なのですよ』と言われた」
●小泉信三 氏(慶應義塾塾長)
池田成彬氏の自伝の中から、公職追放後の万代氏の津久井での生活について池田が触れている一文を紹介している。
『夫婦二人で百姓をはじめ、自分で食べるものは自分でこしらえる。朝早く起きて大通りで馬糞を拾い、肥料にする。あれだけ長く銀行の生活をしていればどこへ行っても飯を食う種くらいはある。ところがいっさい、コソコソしたことをやらない。物欲しそうに東京へ出かけて行ったりしない。そういう簡単なことを実行している人はちょっと少ないように思う。公職追放になって、人間としての本当の値打ちを現してきたのだと思う。こちらも本当の値打ちがわかったような気がする。操守といったようなものを感じさせるですね。もっともそういうことを言うとあの男は嫌がると思うが……。あの人間には少しも宣伝的なところはないし、それは見上げたものですよ』
「池田氏は称賛の安売りをする人ではない。その池田氏にここまで言わせしめている。もう一人、田島道治氏から聞いた万代さんについて、晩年、あらためて新・旧約聖書を通読する心願をたてていた、という。また、母校の青山学院に巨額の資金を寄付したと知った。いずれも『できないことだ』と人を嘆息させるのみである」
60年以上も前に亡くなった万代が、なぜ今も津久井の人々に語り継がれ、慕われているのだろうか。
その理由がわかるエピソードをご紹介したい。
●田辺緑 氏(津久井在住)
・戦前は、週末に別荘で過ごされ、海釣りによく行っていた。その釣果を私たちも頂戴した
・漁業が盛んになるよう地元漁業会に献金をしていた
・地元の一部の人しか万代の社会的地位を知らなかった
・戦後は津久井の里人となり「百姓おじいさん」として誰にでも親しく接していた
・ある人が背負いかごいっぱいに収穫物を詰めて畑から帰っていた時、かごが軽くなったり重くなったりするので不思議に思いながら歩いていたところ、ふと後ろを見ると、万代がかごを後ろから持ち上げていてくれて、あふれ落ちた中身を拾っては入れて、拾っては入れてをしてくれていた
・庭の雑草や落ち葉、魚の内臓や台所の屑を無駄にせず、堆肥にしていた
「私どもでは、万代様から結構なお品をたびたび頂戴しても、何もお返しできませんでしたので、馬や牛がごちそう(糞)を落として行くと、大急ぎで駆けだして、箒と塵取りで集めて、万代様の裏庭に黙ってそっと置いて来るようになりました」
公職追放令(パージ)が解除になったと新聞で報道されて、家族一同で大喜びして挨拶に行った時、
「『いろいろご心配をおかけいたし、ありがとうございました。パージ以前も、パージの間も、同じようなお気持ちでお付き合いくださいましたことを、嬉しく思います。私は津久井の土になりますから、今後ともよろしくお願いいたします』とご丁寧なあいさつをいただき、感激しました」
●冨樫金作 氏(津久井在住)
「先生は他人の親切な行為に対し、極度に感謝されました。時には、郵便配達員に感謝の意を表されるばかりではなく、局長あてに配達員の善行をご報告なさったり、また暑い時には冷たい飲み物を出して、その労をねぎらうこともたびたびありました。先生のご昇天後、一人の配達員が、先生のご遺骨の前に拝礼しながら涙を流していました」
1947年 東京通信工業 相談役
1951年 東京通信工業 顧問
1953年 東京通信工業 取締役会長
万代と東京通信工業(ソニー)に関わるエピソードをご紹介する。
万代とソニーの関係について、週刊ダイヤモンド元編集長である深澤献氏は次のように語っている。
「東京通信工業は井深大と盛田昭夫が1946年に創業。この若い二人を支えたのが万代ら、財界の長老たちだった。初代社長は井深の義父、前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)で、前田は資金繰りなどの相談を田島道治(昭和銀行頭取から宮内庁長官ほか)や万代に寄せていたという。そうした縁で万代は若いベンチャー企業育成に晩年を捧げた。実は万代は盛田とも縁が深く、名古屋支店長時代に愛知県常滑市で造り酒屋を営んでいた盛田家と取り引きがあり、子ども時代の盛田と会ったこともあったのだという。
子どものいなかった万代にとって、井深や盛田、ソニー自体が子どものような存在だったのだろう。後進の育成には熱心で、母校である青山学院にソニーの全持ち株を含む個人資産のほとんどを寄付した。今も青山学院では、「万代奨学基金」として奨学金や教育研究資金に用いられている」
25年来の付き合いがあった新島保雄氏も次のように語っている。
「あれほどソニーに力を注がれたのは、若い人たちが前途に希望を持って、互いに心を合わせ、手を取り合って骨身を惜しまず、懸命に努力している姿に愛着を感じ、国家的見地から優秀な会社を育てたいとの念願からではないかと思うふしぶしがあった」
●清水雅 氏(東宝株式会社社長)
「重役会のあとで万代さんが、『東京で面白い会社ができた。東京通信工業というが、まだ若い人たちがやっているので成果がどうかわからないが、非常に優れた人ばかりでやっているので、将来とても面白いものになると思う。みなさん株を持たないか』と話された。私が阪急百貨店の社長の時、東京通信工業の前田社長と、専務の井深氏(38歳)、常務の盛田氏(33歳)が、テープレコーダーを売ってくれ、と会いに来た。大々的に開いたことを覚えている。万代さんはたびたび来ては、『今度はまた面白いものができた。トランジスターというもので、今に日本を、いや世界をひっくり返すかもしれないものができた』『若い二人が、ほんとにわたしの言うことをよく聞いてくれるので……』と満足らしい笑みをたたえられていた」
●前田多門 氏(ソニー社長、文部大臣)
「戦後、『あなたのような立派なご閲歴をもってる方が、貧乏会社の相談役では、大名から御家人ぐらいに転落したわけなんだが、それにもかかわらずお引き受けくださったことは、実にありがたいことです』と冗談半分に笑いながら言ったことがある」
「当時、社長室、重役室など雨漏りがして、雨の日は傘をささなければ重役会議ができない、というような時代だった」
「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す、という句があてはまる人物」
●田島道治 氏(初代ソニー会長、愛知銀行、昭和銀行、日本銀行、初代宮内庁長官、大日本育英会会長)
「ソニーの木造3階建ての一室で机を並べ、会社のこと以外で、池田成彬のことや敗戦のこと、国民の反省、日本の現状、世界の推移など憂国の至誠を発露する会話をすくなからず交わした」
「戦後まもなくソニーが創立する時、若い人々の同志的結合で日本再建の意気に燃え、ただ頭と若さを頼りとして発足したものの資金は無く、規模は言うに足りず、金融上の支援をどこかに求めなくてはならない情勢で、その相談を受けた私は、一にも二もなく万代君に白羽の矢を立てた」
「真面目さ、誠実さ、簡素さ、謙虚さ、敬虔さ、不言実行、毅然たる主張と人に対する寛容、己を後にして公に奉ずる篤志等々、いちいち例証を挙げてこの人の高風を心から景仰したいとも思うが、当のご本人が天から「おい、もういい加減によせよ」と言われそうであるからここに筆をおく」
●井深大 氏(ソニー社長)
『だんだんわかるその真価』
「葬儀の後、1年経ち、2年経つとだんだん誰も口にしなくなる例は世の中にずいぶんたくさんあるが、その反対に、亡くなってからだんだんその良さが理解され、時間が経つとかえって光ってくる場合がある。万代さんはその典型的な例だろう。
会社でいろいろな問題がおこるたび、田島会長と「万代さんが生きておられたら、こんな場合どう言われるだろう、どう考えるだろう」といつも生き字引ではなく、死に字引にしている次第である。
ソニーは万代さんが亡くなられてからもどんどん伸びてきた。しかし万代さんが本当に望んでおられたソニーの姿に本当になっているだろうかと、いろいろ反省させられる。
万代さんがほんとうに愛されたソニーに少しでも舵を向けていくのが、残された私の仕事かもしれない。偉大な人のぽっかり残された大きな穴は、急にはふさがらないものだろう」
●盛田昭夫 氏(ソニー社長)
『四代にわたるご縁』
・父、祖父とも、名古屋支店時代からお世話になっていた。自分のこどもを連れて津久井を訪ねている。
「10余年間、仕事を通して教えられた万代さんの精神は、永久に受け継いでいかねばならない。『事業を通して社会に奉仕せよ。そして皆が力を合わせれば、いかなる困難をも乗り切れる』と言われた万代さんのお言葉をモットーとして、ソニーをもっと発展させることこそ、亡き万代さんへのはなむけであると、今でも信じている。」
ソニーのほかに、東邦瓦斯株式会社(1950年)と大日本セルロイド株式会社(1955年)の顧問に、トヨタ自動車工業の相談役(時期不明)に就任している。
●塚田実則 氏(東邦瓦斯株式会社会長)
・事業のこととなるとたいへん積極論者であり、常に鼓舞激励して力づけてくれた。社長学を教えていただいた
・伊勢湾台風(1959年)の被害時に、従業員用にと、トミ未亡人が衣料品を送ってくださった
●伊藤吉次郎 氏(大日本セルロイド株式会社社長)
・万代会を開催、万代はゴルフや酒宴は好まなかった
・新井石禅師(曹洞宗僧侶 1865-1927)の遺詠を詠んでくれた
心は大山の如く八風を受けて動せず
量は大海の如く衆流を容れて漏さす
人生は夢と観すれは苦も無く悲も無し
萬境は空と悟れは花も有れ實も有れ
●岩井雄二郎 氏(大日本セルロイド株式会社監査役)
・驚くべき鋭利な頭脳。虚言もごまかしも効かない、他人の頭の中をレントゲンで写すような頭脳
・終戦後の財閥解体で不利な立場に置かれたが、それがなければ、もちろん現代日本経済界の第一級のリーダーになるべきはずの人物と思う
●中川不器男 氏(トヨタ自動車工業社長)
名古屋支店長時代に、トヨタ自動車工業創業でお世話になった
「戦後、相談役に就任していただいた。報酬を差し上げる段になるとどうしても受け取らない。ほかの相談役との兼ね合いもあるからと言っても『そちらで勝手に定めたことは自分の知ったことでは無い』と申される。旧恩に報いたかったのだが、閉口してしまった」
「謹厳で寡黙、お世辞にも愛想がよい方とは申しかねるが、清廉潔白を絵にかいたようなお人柄で、強い信念と篤い誠実に生きられた方だった」
1939年3月~1943年6月 青山学院理事長を務める
1945年4月~1947年5月 青山学院理事長を務める
1951年12月 青山学院募金後援会会長に就任
1952年6月 青山学院財務理事に就任
戦後、青山学院は多くの困難に直面する。
空襲による被害を受け、総面積の約7割が被災。1946年に清水組(現・清水建設)が積算した被害総額は5,844万円ほどで、同年度の学院の復興予算は264万円ほどしかなかった。
復興計画と公職追放
豊田實院長(1946年2月就任)と万代順四郎理事長の二人三脚で、青山学院復興委員会を組織し復興事業計画を策定。大学開設計画の策定も行う。
しかし、1947年5月に、第二次公職追放で教育界の公職からも追われることになる。
その結果、学院に経営手腕をもつ適任者がいなくなり、院長直属の復興局を設け、その局長は理事の一員となり、財務理事と呼んだ。三井銀行・帝国銀行の万代の後輩、飯島剛二氏を招聘する。
戦後復興は、アメリカのメソジスト教会外国伝道局や婦人部からの援助資金を頼りに進められた。しかし、1950年に始まった朝鮮戦争の影響や、アメリカ主導による新制大学(国際基督教大学)が設置されることになり、アメリカからの資金援助が難しくなり、財政の健全化が急務となる。
募金後援会会長に就任
万代は、1951年6月に公職追放が解除されると、同年12月26日には、青山学院校友会(卒業生が組織する団体)の肝いりで組織された青山学院募金後援会の会長に請われ、就任。“総力結集団体”と呼称し、大々的な募金活動を展開した。
その募金委員会役員名簿を見て、驚愕した。
90数名の名が連なっているのだが、最初の人物(イロハ順で並んでいる)が「一万田尚登」と書かれていた。記憶にある名前だ。確かサンフランシスコ講和条約に同行した人物だったなあ、と思いつつ調べると、果たして、第18代日銀総裁であった。まさかと思い、連なる人物を順番に調べると、三井銀行をはじめとした三井グループ、三菱などの他行、様々な業種の大企業のトップの名ばかりである。見出しには「一万田氏ら一流財界人を網羅」と書かれている。おそらく二度とこのような委員の方々を組織することは不可能だろうと思われる錚々たる人物ばかりであった。
万代のこれまでの陰ひなたでの援助・協力、信頼関係の構築の賜物である人脈、そして全力を尽くすという精神が、ありありと見てとれる。
募金目標金額は、
PTA(在校生保護者)3,000万円
校友(卒業生) 500万円
一般財界 1,000万円
と掲げた。
当時の卒業生は、まだ35,000人ほどの時代であった(現在、約38万人)。
「青山学報」2号(1953年7月)に、募金の報告が掲載されている。
・寄付金申込額 1,675万円
・学院債申込額 2,667万円
万代は、ほかのメンバーとともに役員名簿に連なった企業などを精力的にまわり、寄付総額の半分は万代が集めたと言われている。
青山学院の卒業生でもなく、あまり関わりが無いと思われるような企業のトップたちから、復興資金を集めたのである。
これらの寄付によって、不十分ではあったようだが、収容力が充足するほど校舎等が新しく建築されるなどして、復興が進んだ。
翌年3月、当初の目的は達したとして、復興局は解散し、6月、万代は財務理事に就任した。
財務理事に就任 十年計画委員会発足
まだ満足のいく復興を終えていないと判断していた万代は、一日も早く様々な困難から脱するため、総合的な計画を樹立する必要性を説き、万代主導で1954年から毎月開かれることになる十年計画委員会を発足させる。メンバーは、院長、理事長、学長、数名の理事から成った。
施設などの拡充を図る必要があったものの、授業料の値上げも限界に達していた。さらに「私学振興協会にも期待できず、アメリカにも期待できない」という状況で、施設の拡充は実行不能であり、「このままでは学校の信用は失墜する」という危機感があった。
十年計画委員会では、10年間で学院の木造校舎をすべて鉄筋コンクリートあるいは鉄骨不燃焼建築に改築すること。そのために必要な財政計画などが決められた。
この復興計画の実現のためには、寄付や援助に頼らず、学院の経営を健全化することが必要であり、その基盤となる入学者の増大が必要だと考えた。具体的に、学生・生徒・児童の数を12,000人まで増やすことが必要だとした。
この施策により、1958年の在校生数5,383名に対し、1959年の在校生数は10,911名となり、1964年には16,073名となった。59年にはすでにほぼ達成したことになる。
ソニーと連携した理工学部設置の提案
万代が会長を務めていた東京通信工業と青山学院が連携した産学共同の理工学部の設置が、万代の構想の一つであった。東京通信工業の連携が得られる確信があったからである。
当時の大学長・大木金次郎にその提案をしたところ、理工系の学部は長い間赤字が予想されるため、先ず文系学部を新設して、余剰収入ができてからが望ましい、と大木は答えたという。
万代は納得し、大木案である法学部設置のために尽力。1959年4月、法学部が設置された。
なお、万代が切望していた理工学部は、1965年4月、世田谷の地に設置された。
もし万代が存命であったら、ソニーと連携した理工学部として、画期的な学部になっていたかもしれない。
青山学院にまつわるエピソードをご紹介する。
●新島保雄 氏(三井銀行、ソニー)
・青山学院には、恩人の米山さんが生前非常に力を入れておられたので、同氏の意志を継いで、ご恩封じとし、また自分が育った母校への感謝の心の現われであったのではないかという節々がお話から察することができた
・青山学院の理事会にはほとんど欠かさず、泊りがけで出席した。できるだけ保護者の負担を多くしたくないという方針をとられていた
●小島貞彦 氏(総主事)
・戦時中の理事会は朝行われることが多く、校庭で獲れた材料で作った芋羊羹のようなお菓子やお汁粉を食べたりして、喜んで召し上がっていた
・理事会のあとは、よく私の家を宿に使っていた
●若林祐治郎 氏(三井信託監査役、のち青山学院財務室参与)
財務理事だった飯島剛二氏からの要請で、退職後青山学院に奉職
「(若林氏が参与として関わることになり)万代さんは大変喜び、古い歴史があり、家庭的な雰囲気が快く、よい学校だと、愛校心にあふれた話しぶりで熱心に尽力を求められた」
・翌年、万代さんに財務理事就任要請がされた時「私が残ってくれるなら」という条件を出されて、就任された。ソニーで忙しかった
・インフレ時だったので、資金面対策が急務で、学債募集計画、復興資金の寄付募集。これを実行に移した
●稲葉浅吉 氏(財務理事)
・人の話をよく傾聴していた。志が違うと一歩も譲らず、唇辺にかすかな痙攣をおこしていたことをしばしばお見受けした。冗費を省き、生徒父兄の負担を軽減するよう絶えず心がけておられた
●神子朝太郎 氏(大妻女子大学講師)
中等科で2年後輩
「校友で、財団理事長と、財務理事を兼ねた人は他にないでしょう。高等科出身で、理事長は誠に異数であります。のみならず、万代さんは母校愛の強い方で、青山学院を悪く言う者を、最も憎まれたようです」
●古坂嵓城 氏(第10代青山学院院長、元青山学院理事長ほか)
・銀行出勤前の早朝、学院構内に住んでいたアレキサンダー宣教師の家を訪れ、英語の勉強をしたり、朝食をともにしたりしていた
●真鍋頼一 氏(元青山学院理事長)
「若い人への教育に熱心であり、多くの人々に援助を与えた。その親切が徹底していたので、今もなおそれらの人々は、お宅に出入りしておられることである。冷たく見えた万代さんは、火を抱いた情熱の人であったのだ」
1954年12月、奨学金制度(貸与型、無利子)を発足させた。
翌1955年4月から貸与業務を開始。
万代が奨学金制度の確立を熱望していた理由を、石川英夫氏は次のように推測している。
・自身が苦学生として苦労してきた経験
・授業料が年々上がっていくこと
・アルバイトに時間がかかり十分な勉学の時間が取れず、才能を伸ばす時間がないこと
経済的に恵まれない英才を収容できるのが最善の道であると万代は考えた。
しかし、当てにできる財源があるわけではない。それには自分の財産を率先して供するしかほかに道がない、と万代は考えた。
これまでにも万代は、三井銀行の退職金全額を青山学院に寄付していた。
そして、奨学金制度のために、万代は以下の追加の寄付をする。
・1954年11月1日
東京通信工業株式会社 3万株
・1957年2月16日
東京芝浦電気(現・東芝) 6,750株
大日本セルロイド株式会社 2万株
東邦瓦斯株式会社 1万株
西部瓦斯株式会社 1万株 計48,750株
・1958年11月11日
ソニー株式会社 6万株
注)1958年1月、東京通信工業からソニー株式会社に社名変更
有価証券以外にも、準備金としての現金もあらたに寄付した。
万代が成長を楽しみにしていた東京通信工業の世話をして得た役員報酬や、自身で購入した東京通信工業の株式を全て青山学院へ注いだのである。
青山学院常務理事を務めた武石謙一氏は「青山学報」163号(1993.5・6月号)に、次の文を寄せている。
タイトル『創立120周年を前にして万代奨学基金を考える』
「『万代奨学基金』と命名しようとしたが、万代氏が固辞し、とりあえず「青山学院奨学基金」としたが、氏の逝去後あらためて「万代奨学基金」と改称した。
残されたトミ夫人は、生活で大変苦労したようで、そのことを知ったソニーからの援助で切り抜けることができたという。
トミ夫人は、寄贈した奨学基金について、世代が変わり責任者が変わり、主人の寄付の趣旨が理解されず、ほかの目的で流用されるのではないかと懸念され、別財団を設けて運用してほしいという強い希望があり、万代氏の当初の指示通り、一般会計とは別に特別会計として分離し、万代奨学基金委員会により管理されてきた。
この基金を守り育てていくことが、青山学院理事会に課せられた大きな責務であり、寄付者の意思を十分尊重しなければならない、と銘記すべきであろう」
2022年11月、関係部署に協力していただき、万代奨学金創設以来の実績を調査した。おそらく初めて公開する数字であろう。
累計貸与者数 16,076名
累計貸与金額 9,637,484,200円
※大学生、大学院生、留学生、女子短期大学生、高等部生、教職員に貸与
若い頃から晩年まで、とにかく健脚だった。自宅から会社まで1時間以上歩くことを苦にしなかったという。学生時代、三田教会まで片道2時間かけて通ったという。三井銀行などの要職に就いてからもなるべく社用車を使わず、歩く。健康体だった。
「80歳になったら一切の仕事から手を引き、夫婦で旅行を楽しむ」と周囲に語っていた万代であったが、1959年3月、前立腺肥大症の症状が急速に進み、3月4日に手術を受ける。無事手術が終わり、3月25日に退院予定であったが、3月22日に容体が急変。急性葡萄状球菌性肺炎と診断された。
最後の4日4晩、熱は高く、激しい苦しみが万代を襲った。
3月28日早暁。
「美しい朝の光が、ようやく窓に差し込む頃、いとも静かな天よりのお迎えを、主人は従容として受け、一瞬、私を優しく見つめながら、ついにその瞳は天を仰いで、安らかな眠りについて、逝ってしまいました」と、妻トミが回想している。
1959年3月28日7時58分、青山学院財務理事やソニー株式会社会長職在職のまま逝去。
享年76。
「ちょうどこの週は、主キリストの受難の週でありました。キリストのご受難を思いつつ、じっと我慢をされておられた、そうして痛みを訴えられなかった」と、真鍋頼一理事長が万代の葬儀之辞で述べている。
1959年3月31日、青山学院大講堂において、三井銀行、ソニー株式会社との合同葬をキリスト教形式で厳粛かつ簡素に執行した。会葬者は約2,000人を数えたという。
葬儀後の様子を、石川英夫氏は次のように記している。
「万代の遺骸は霊柩車に乗り青山学院を去り、途中、北品川のソニー本社前を通ったとき、歩道には、ソニーの全社員が整列して、静かに会長の冥福を祈りながら、永遠の訣別に目をはらしていた」
●山本恒男 氏(全国銀行協会連合会常務理事、横浜正金銀行監査役)
・銀行倶楽部の機関誌にて、戦後間もない頃の銀行協会のことについて座談会を行うことになっていて、下打ち合わせをしたが、その後まもなく、万代さんは帰らぬ人となってしまった
・逝去後、勲位追贈の記事を見た時、功績に見合わない評価と思い義憤を感じた
●森岡賢一 氏(甥)
・名誉欲についてきわめて淡白で「大臣にならぬか」と言われても「大臣は若い働き盛んな者にかぎる」と言って、一向にその地位を望まれなかった
・氏の病没後、正五位勲五等が追叙されたとき、妻トミは、故人の遺志に反するから返上しますと言ったそうだが「陛下の思し召しだから返上できない」と言うと、お受けした
万代会館には、書が掲げられている。
施諸己而不願亦勿施於人
これをおのれにほどこすことをねがわざればまたひとにほどこすなかれ
(自分の欲しないことは人にはしてはいけない)
儒教の『中庸』からの一節である。
本多庸一の手書きの書である。
朝夕仰いで処世の訓としたという。
これは、『聖書』マタイによる福音書第7章12節
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい
に通じる言葉である。
キリスト者である、という一事に留まらず、古今東西の真理と思われる言葉に通暁し、啓蒙の言葉として捉えていた。
教育者としての一面が垣間見える。
一見すると「怖い人であった」と振り返る人もいた。
努力をせずに、自分の利益のみを考え、漫然と生きている者には厳しかったのではなかろうか。
だからこそ、万代に見いだされた人物は一流の人物なのだ。
戦前・戦中・戦後と、厳しい世の中で、前を向いて他人のために、世の中のために努力する者に対する心強い味方。
自分の死後、妻トミの生活が困窮するほど、全財産を他人のために捧げた万代。
池田成彬が「操守の人」と語ったように、信念を堅く守って、心変わりしない人であった。その信念とは、初代宮内庁長官の田島道治が言うところの「真面目さ、誠実さ、簡素さ、謙虚さ、敬虔さ、不言実行、人に対する寛容、己を後にして公に奉ずる篤志」なのではないだろうか。それこそ、このように書くと、万代さんから怒られそうだ……。
それでもなお、記さずにはおられない。
我らの誇りとするサーバント・リーダーであり、偉大な人物であるのだから。
青山学院が掲げる教育方針の言葉「すべての人と社会とに対する責任を進んで果たす人間の形成を目的とする」の具現者がまさに万代自身であり、万代が求めていた人間像である。
万代が成長を楽しみにしていたもう一つの、東京通信工業。
その設立者である井深大は、その設立趣意書の中の「会社創立の目的」に、次の項目を掲げている(抜粋)。
一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
一、日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
一、戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活内への即時応用
一、国民科学知識の実際的啓蒙活動
“愉快なる”、ああ、楽しからずや。
国民のために、日本の発展のために、楽しく努力していこうとしている会社であることがわかろう。
万代が青山学院同様に、この会社に愛情を注いだ理由が、頷けよう。
最後に、青山学院で学んだ3年先輩の佐々木邦氏の言葉を紹介して、万代の章を閉じたい。
「私が徹底的に敬服するのは、(万代が)物の価値を正しく見ているということである。言い直せば、物に大した値打ちが無いという認識である。
まだ言い足らない。世間がもてはやすことに、本当は価値が無いと思っている事である。多くの人は、世の中の苦労をしたあとでそれを悟る。坊さんも悟りを開いてそれを知る。人爵や普通世間が名誉と思っていることも、実は大して値打ちのないものだ。これを万代君は、生まれながらに知っていたのである。
そういう人はその理を説いて、それを悟っている自分の偉さを主張するものだが、万代君は何とも言わない。ただ黙ってニコニコしている。
頭が下がる」
本多庸一、米山梅吉から引き継がれてきた青山学院を守るという使命。
本多はかつてこう語っている。
「ねがわくは神の恵により我輩の学校よりいわゆるManを出さしめよ。Manの資質多くあるべしといえどもSincerity、Simplicity最大切なるべし」
Sincerity 誠実、偽りのない
Simplicity 地味、純真、実直
本多が願ったManとなった不世出の人物、万代順四郎。
全身全霊を青山学院に捧げた、万代順四郎。
万代は、郷里、岡山県の連光寺に、そして東京都小平市にある青山学院関係者墓地に眠っている。
〈参考資料〉
『種蒔く人 -万代順四郎の生涯』石川英夫著 1984年 毎日新聞社
『在りし日 -人としての万代順四郎』佐々木邦編 1964年
『青山学院大学五十年史』青山学院大学 2010年
『青山学院一五〇年史』資料編Ⅱ 学校法人青山学院 2021年
『青山学院九十年史』青山学院 1965年
『青山学院八十五年史』青山学院 1959年
『米山梅吉氏 間島弟彦氏 万代順四郎氏 追憶集抄録』出版事項不明
『青山学院の歴史を支えた人々』気賀健生著 2014年 学校法人青山学院
横須賀市教育委員会提供資料
「新島保雄の覚え書」
『私の人生観』池田成彬著 1951年 文藝春秋社
『三井銀行を築いた異色の経営者たち』亀嶋謙著 1996年 青桐舎
『三井銀行 一〇〇年のあゆみ』日本経営史研究所編 1976年 三井銀行
『青山学報』各号 青山学院
『マンスリーレポート(校友会会報)』青山学院
『あなたと青山学院』18号(2015年7月)
〈協力〉
横須賀市教育委員会
資料センター
大学学生生活部
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