マザーグースの唄——教会の鐘の音は天高く——【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第27回】
2024/05/07
英語圏に伝わる童謡は、楽曲こそ耳なじみがいいのですが、歌詞につかみどころが乏しく、不条理な感覚すら覚えることもあります。しかし唄に親しむうち、その不思議な味わいのとりこにされますよ。
英語の童謡はなぜマザーグースと呼ばれるのでしょうか。フランスの詩人ペローが1697年に発表した『昔話集』に「マ・メール・ロワ」(直訳すると「ガチョウおばさん」)という口絵が付いていました。1729年の英訳版『過ぎし日の物語』でも、フランス語を英語に直して「マザーグース」という副題が付けられました。それからしばらく経った18世紀後半に、イギリスの伝承童謡を編んだ本が新たに出版され、その際に「マザーグース」の名称をタイトルにちゃっかり拝借。以来、英語の童謡を表す呼び名として、人気を博すことになったのです。
童謡を指す呼称は、今日のイギリスではナーサリー・ライム(子ども部屋の詩歌の意)がもっぱら用いられています。一方、アメリカなどイギリス以外の英語圏の国々や、日本をはじめとする諸外国では、マザーグースの名で親しまれています。マザーグースという語自体の魅力的な響きや含意にひかれるからでしょう。
マザーグースの範疇にくくられる童謡は、作者不詳の場合が多く、その数たるや、数百編とも、あるいははるかにそれを超える数ともいわれます。マザーグースは英語圏で育った子どもたちの血となり肉となっています。どの唄をとっても口調がよく、覚えやすいため、実際、英語の言い回しにはマザーグースゆかりの表現も多く見られます。
マザーグースの一大特色は、大人も子どもも一緒に楽しめる童謡であることです。私どもがイギリスに滞在していた時、トニーとメアリーの大家さんご夫妻はうちの幼い子どもたちによくマザーグースを歌ってくれました。その生き生きした情景は目に焼きついています。私が本場のマザーグースに生で接した最初の経験でしたが、「本当に歌って遊ぶんだ」と妙に納得したものです。
一口にマザーグースといっても、その種類は多岐にわたり、なぞなぞあり、数え唄あり、言葉遊びあり、さらには殺人や暴力を描いた不気味な唄もあれば、どうにも意味の不明な唄もあるくらいです。
最初に、セント・ポール大聖堂を歌った唄を1編、ご紹介します(原文はコラムの最後に付します)。
セント・ポールの尖塔に
一本たわわに実るリンゴの木
ロンドン中の子どもたちが
フックを手にリンゴ取りにやってきて
垣根を飛び越え、一目散、ついに
ロンドン・ブリッジに行き着いた
セント・ポールは、ロンドンの、いやイギリスの歴史そのものといわれる大聖堂です。ロンドンの旧市街にあたるザ・シティに寺院が建築されたのは西暦600年頃にさかのぼります。その後、消失と再建が繰り返され、1240年には中世を代表するゴシック建築の壮麗な聖堂が建立されました。
1561年に落雷で尖塔が失われると、修復もままならないまま、1666年のロンドン大火で灰燼(かいじん)に帰しました。大火後の復興を託されたのが偉大な建築家クリストファー・レンで、35年の歳月をかけてバロック様式の傑作とされる大聖堂を築きました。今日まで、イギリスの国家的な行事はここで行われるのが慣例です。
この唄の文献への初出は1846年ですが、ずっと昔から、聖堂の高さは話の種となっていたといいます。見上げるばかりの尖塔にリンゴの木が植っている。この突拍子もないイメージは、ありそうにない話を表す古くからのジョークとして、民衆の間に脈々と伝えられてきたそうです。こうした民族の共通経験といえるものが、マザーグースの唄にはたっぷりと染み込んでいるのです。
もう1編、ロンドンの教会にまつわる、私のお気に入りをご紹介しましょう
オレンジとレモン
セント・クレメントの鐘がいう
5ファージング貸してるよ
セント・マーティンの鐘がいう
いつ支払ってくれるのさ
オールド・ベイリーの鐘がいう
お金持ちになったらね
ショーディッチの鐘がいう
そいつはいつの話だい
ステップニーの鐘がいう
そんなことは知らないよ
ボウの大きな鐘がいう
さあベッドでおやすみ、ろうそくで照らそう
さあきみの首をはねに、首切り役人が来るぞう
高くかかげた両腕の下をくぐりながら歌って、最後にちょうど腕の下に入った子どもを捕まえるお遊び唄です。首をはねるという歌詞に、子どもの唄らしからぬ薄気味の悪さが漂います。どことなく日本の「とおりゃんせ」に似た趣も感じられますね。斬首による公開処刑が行われていた時代の民衆の暗い記憶が潜んでいるとの説があるようです。
鐘が鳴り響くさまを想像すると、市民のにぎやかな日常を肌で感じる思いがします。ザ・シティは通りという通りに教会があふれんばかり。今も昔もたくさんの教会でひしめいています。キリスト教信仰が人々の生活に根ざしていることの証しでしょう。婚礼が挙行される時は、壮麗な鐘の響きが空いっぱいに満ちあふれます。
原文では、2行ごとに行末で韻を踏んでいます。例えば、「リッチ」(rich)と「ショーディッチ」(Shoreditch)、「ノウ」(know)と「ボウ」(Bow)という具合です。それぞれの教会は韻を踏むための選択で、特別に深い意味はないのかもしれません。とはいえ、モデル探しをしたくなるのが人情。セント・クレメントの鐘については、ロンドンにあるセント・クレメント・イーストチープとセント・クレメント・デーンズという、同じ聖人を祀った教会同士で、われこそが唄のモデルなりと、本家争いをしているのも微笑ましい限りです。
ファージングはかつて使われていた4分の1ペニー相当の通貨。ほんの小銭を貸し借りしているという、たわいもない歌詞です。テムズ川沿いにはオレンジやレモン(北国のイギリスでは貴重品!)を荷揚げする波止場がありました。船頭さんたちがこんな会話を交わしていたのでは、と想像をたくましくしてしまいますね。
セント・マーティンの候補にも諸説ありますが、有名どころでは、トラファルガー・スクエアのナショナル・ギャラリーの斜向かいに建つセント・マーティン・イン・ザ・フィールズという大変長い名前の教会が思い浮かびます。地下(クリプト)のカフェは、旅の途中の休憩に、私のイチオシです。
音楽ファンであれば、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズという室内オーケストラをきっとご存じでしょう。これまた長い名前なので、しばしばASMFと略記されます。結成当時この教会で定期公演を催した縁で命名された、現代イギリスを代表する楽団のひとつです。
次のオールド・ベイリーとは中央刑事裁判所の通称です。裁判所に鐘楼はないので、これはニューゲート・ストリートの反対側にあるセント・セパルカー・ウィズアウト・ニューゲイト教会の鐘ではないかと推測されています。「ウィズアウト」は、この教会の立地が中世の頃はロンドン市の壁の外であったことを示しています。ともあれ、借金の支払い請求をする文脈に裁判所の名前が出るのは、一種のブラック・ジョークでしょうか。
4番目の鐘は、ショーディッチ地区にあるためショーディッチ教会という通り名で知られるセント・レナーズ教会で間違いないでしょう。
このエリアは、最近でこそファッショナブルな街並みに変貌しましたが、かつては治安の悪い地域でした。1576年にイギリス最初の劇場〈シアター座〉が建てられています。ここを本拠にした劇団へ、後に参加することになるのが劇作家シェイクスピアで、芝居好きには思い入れもひとしお。今は劇場の跡地であると教える記念銘板がひっそりと飾られているのみですが。
ステップニーの鐘は、正式名セント・ダンスタン教会を指すようです。運河のリージェンツ・カナルとテムズ川の連結航路も近く、やはり船乗りにとって縁の深い、下町情緒いっぱいの場所にある教会です。
最後のボウ教会はセント・メアリー・ル・ボウ教会のこと。
ミュージカル『マイ・フェア・レディ』は、コヴェント・ガーデンの花売り娘イライザが訛(なま)りを矯正して貴婦人へ変身する物語ですが、イライザのしゃべるロンドンの下町言葉、およびロンドン子のことをコクニー(cockney)といいます。ただし生粋のロンドン子を名乗る資格があるのは、このボウ教会の鐘の音の聞こえる範囲に生まれた人だけ、というのだから奮っていますね。
Upon Paul’s steeple stands a tree
As full of apples as may be;
The little boys of London Town
They run with hooks to pull them down:
And then they go from hedge to hedge
Until they come to London Bridge.
Oranges and lemons,
Say the bells of St. Clement’s.
You owe me five farthings,
Say the bells of St. Martin’s.
When will you pay me?
Say the bells of Old Bailey.
When I grow rich,
Say the bells of Shoreditch.
When will that be?
Say the bells of Stepney.
I’m sure I don’t know,
Says the great bell at Bow.
Here comes a candle to light you to bed,
Here comes a chopper to chop off your head.
[Photo: 佐久間康夫、本屋敷佳那]
卒業生の方から佐久間先生の元に素敵なお写真が届きましたので、ご紹介いたします!(アオガクプラス編集部)