個性を強みに世界の舞台に立つ〈大学3年・望月悠生さん〉
2024/12/21
右ひざ下の欠損と、腰の障がいと二分脊椎という先天性のハンディを持つ。それでも幼稚園のころから車いすを降り、サッカーをしていたという活発ぶり。小学4年のときに車いすテニスに、そして国枝慎吾さんというレジェンドと出会う。「オーラに圧倒されました。絶対にこうなりたいという気持ちになりました」と語る。その後、国枝さんと同じ中高一貫校に進学。中学2年からバドミントン、大学1年からバスケットボールと、様々なパラスポーツに挑戦し、世界の舞台にも立ってきた。「これまでどの競技も『世界で活躍したい』という思いで始めました」。将来は、テレビ制作ディレクターを目指し、パラスポーツの紹介をはじめ、アスリートにフォーカスし、障がいへの理解を深めてもらいたいと話す。
「『障がい』という言葉は好きではなく、一つの個性として見てほしいですね」。個性を持っているからこそパラスポーツを経験でき、世界の舞台にも立てたとポジティブに捉える。「相手から寄り添ってもらうのを待つのではなく、自分からも障がいのことを話していくことが大切だと思います」と語る。障がい者、健常者、そこに垣根を築く必要はなく、お互いに心を開くことで平和が生まれることに気づかせてくれた。
今も充実した人生を楽しんでいる。
青山学院大学総合文化政策学部3年
◆主な受賞歴
2021年(高校3年生)、バーレーン2021アジアユースパラ競技大会車いすバトミントン大会 銅メダル/2022年(大学1年生)、車いすバスケットボール社会人チーム埼玉ライオンズに入団/2023年度男子次世代カテゴリー 北九州チャンピオンズカップ国際車いすバスケットボール大会出場/2024年天皇杯第49回日本車いすバスケットボール選手権大会 準優勝
※インタビュー後の11月17日~22日にタイ・バンコクで開催された車いすバスケットボール2024 IWBF男子U23アジアオセアニアチャンピオンシップに日本代表選手として出場。日本チームの準優勝に貢献しました。
紙幅の関係で「青山学報」への掲載がかなわなかったインタビュー全文をご紹介いたします。
──どのようなハンディキャップをお持ちなのですか
先天性で3つ持っています。腰の障がいと、二分脊椎のためひざ下の感覚がありません。
そして右ひざ下の欠損。これが見える障がいです。
もともと小さいころから体を動かすことが好きで、幼稚園では、車いすから降りてハイハイでサッカーをやるなど、いろいろなスポーツに触れてきました。
──小学校4年生の時に車いすテニスを始めたそうですね
小学校高学年のとき、「スポーツに打ち込みたいな」と思うようになりました。母が、千葉県柏市に吉田記念テニス研修センターという、国枝慎吾さんが通っていたテニススクールがあることを調べて、車いすテニスの体験に行ってみました。そこには同世代の子がいっぱいいて、初日からのめりこみました。「スポーツをしているな」と感じて、すぐに車いすテニスを始めました。
──いい出会いでしたね
小学5・6年生の時は、栃木の実家から休みの日にそのテニススクールに通っていましたが、本格的にやりたいと思い、もともと地元での中学受験を考えていたのですが、そのテニススクールに近い千葉県の中学に入りたいと思い、麗澤中学・高等学校に入学しました。そして学校のそばで母親と一緒に二人で暮らすことになりました。父と姉は今も地元で暮らしています。
──国枝さんも麗澤中学・高等学校、大学のご出身ですよね。国枝さんはどのような存在でしたか
レジェンドです(笑)。初めて会ったのが小学4年生で、私が出場した関東の大会に見に来ていて、そこで一緒に写真を撮ってもらいました。初めて世界で活躍する選手と接する機会だったので、そのオーラに圧倒されました。「絶対こうなりたい」という気持ちになりました。中学で麗澤中学校に行ったのも、国枝さんのおかげです。一緒に練習や試合を行う直接的な機会はありませんでしたが、自分がパラスポーツをはじめるきっかけを与えてくださった方でした。
──今年のパリパラリンピックの車いすテニスで優勝した小田凱人選手も素晴らしい活躍でしたね
小田選手は、自分がテニスをやめたタイミングで、テニスに入ってきました。戦ったことはないのですが、すごいと思います。あのメンタルは見習いたいですね。
──車いすテニスは中学2年まで、と仰っていましたね
私は右利きなのですが、中学1年の時に指導してくれたコーチから「お前は左の方が筋肉がある」と言われ、左利きに転向しました。一から始めることになり、今までより下のクラスで試合にでるようになり、結果は出ていたものの、どうしても楽しくなくなってきてしまいました。そして「スポーツを楽しみたい」という気持ちが勝り、バドミントンに転向しました。
──いつからバドミントンを始めたのですか
中学2年生から高校卒業までやってきました。
──バドミントンを選んだきっかけは何だったのでしょうか
千葉県内にパラバドミントンのクラブがあって、テニス仲間と体験に行ったところ、「競技人口が少ないからパラリンピックに出られるよ」と言われ、「世界で活躍できるならやってみようかな」と思い、新鮮にも感じ、始めることにしました。
──「世界で活躍できるかも」という考えがすごいですね。バドミントン競技は、ご自身にとってどのような存在でしたか
始めた年から日本選手権で銅メダルをとったり結果が出て、うれしかったですね。やっと自分に合う競技に出会えたと思いました。
──テニスとバドミントンでは、どのような違いがあるのですか
テニスは、2バウンドまでOKという以外、健常者と同じルールやコートの広さで、そこでは縦横無尽に動くことができて楽しかったです。
バドミントンは、シングルスの場合、タテ半面になり、サービスラインより前がアウトゾーンです。かなり限られた枠の中で展開します。ですので展開が早くなります。その部分は自分にとっては楽しく感じました。
──パラスポーツ全体が、健常者の競技よりも難しいのではと、いつも見ていて感じているのですが
そうですね、腕の力が必要になってきます。
──どうやって鍛えているのですか
筋トレをしていますが、小さいころから車いすを動かしているので、腕の筋肉は元々発達してます。ただ、体が小さいほうだったので、シャトルをコートの奥まで飛ばすことに少し苦労しました。ライン際に落とすことは得意でした。今でも不思議ですが、見ないでもoutかinか判断できました。
──筋トレ以外のトレーニングがあれば教えてください
ほぼ筋トレだけですね。食トレをしようと思ったのですが、太れない体質のようで、食べても運動量の方が勝ってしまい、諦めました(笑)。
──学校ではクラブに入っていたのですか
中学でテニス部に、高校でもバドミントン部に入って練習していました。バドミントンは、中3までは千葉市のクラブチームに通っていましたが、高校生になってからは、学校のクラブで部員と練習していました。
──パラのルールで練習していたのですね
はい。いい友人たちに恵まれました。
──バドミントンといえば、長いラリーでも有名ですが……
長い場合50回くらい続くこともありますね。
──高3のアジアユースで銅メダルを取っていらっしゃいますね。しかしそのあと、大学に進学してバスケに転向しています。どういうきっかけがあったのでしょう
バスケを始めたのは、大学1年の9月からでした。
バドミントン競技のクラスは2種類しかなく、自分がそのちょうど中間の障がいの度合いだったため、どちらのクラスに入っても上位に入るのが難しく、限界を感じていました。
──バスケとの出会いを教えてください
実家の隣県の群馬県にバスケのクラブチームがあって、4歳のときに競技用の車いすに乗る体験をしました。憧れはあったのですが、バスケは車いす同士の接触が多く、「怖いな」と思い、挑戦することをためらっていました。大学に入学して、バドミントンに限界を感じた時に、「もう大学生だから大丈夫かな」と思って、「やりたいことをやってみよう」と思いました。またその時期に、東京パラリンピックで日本代表が銀メダルを取ったこともあり、MVPを取った選手がメディアで露出する機会が増え、「バスケをやったら有名になれるかも」と思って(笑)……。9月から思い切ってバスケを始め、社会人チームの埼玉ライオンズに入団しました。
──翌年の3月には、次世代カテゴリー強化指定選手に選ばれていますね。相当努力したのではないですか
ほかのスポーツをやっていたため、車いす操作に慣れていたこともあり、またスピードが得意分野でした。
──ポジションはどこですか
まだレギュラーになれず、これといったポジションはありませんが、なんでもこなせるオールラウンダーを目指しています。
──バスケの魅力を教えてください
コートが広いので、自分が好きな走りを満足するまで縦横無尽にできるところですね。もう一つは、ダブルドリブル以外は、ほぼ健常者のバスケのルールと同じ点です。これまでのラケットを使う競技から、球技ができることもうれしいですね。
──以前、初等部に車いすバスケの日本代表選手の方々がいらっしゃって実戦を披露していただいた機会があったのですが、初等部生がシュートしてみたら、ゴールに届かないことが多かったです
車いすに日常的に乗っているので自然と筋力がついていて、シュートは苦労しないですね。3ポイントシュートになると、狙いが難しくなってきます。
──埼玉ライオンズは歴史があるクラブだと聞いています。どのような練習状況なのですか
週4回通い、1回2時間くらい練習しています。ほかのチームメイトはみな社会人です。今年高校生の後輩が入りました。
──年齢が違う人たちと交わる世界はいかがですか
チーム競技も初めてでしたので、体育会系、という雰囲気も初めて。最初は圧倒されました。強く言われることも初めてだったので委縮しました。最近は、慣れてきたというよりもアジャストしてきました。
──きっと、成長してほしい、上達してほしいという先輩方の願いの表れなのでしょうね。今は言われなくなってきているのでは
いや、言われはします(笑)。バスケをはじめて3年目ですが、自分のために言ってくれているんだなと、少しずつ理解できてきた感じです。
──世界を目指す以上、極めるためには必要なのでしょうね。頑張ってください。その世界で戦うために必要なことは何だと感じていますか
まずは自分に自信を持つことが大事だと思っています。これまでどの競技を始めるにあたっても、「世界で活躍したい」という思いで始めてきました。気持ちが大事だと思っています。試合では、メンタルを強く保つことが大事で、ネガティブになると、どうしてもミスが出てしまったり、全力で力を出すことができなくなってしまいます。
──メンタルを強く保つ秘訣はありますか
自分は小さいころから活発で常にポジティブでしたね(笑)。ミスしても気にしない、気にしないというよりも、心への影響が出ない程度に気にする、「次に同じミスをしなければよし」というスタンスです。
──パラスポーツ界であこがれる選手はいますか
イギリスのバスケの選手で、グレッグ・ワ―バートンとう選手です。体は決して大きくなく、指が欠損しているのですが、細かい動きやスピードが一流で、ミドルシュートの成功率が高い選手です。オールラウンダーといった選手で、自分も体が小さいほうなので、そういう選手になりたい、という憧れがあります。
──大学はなぜ青学を選んだのですか
高校生の時、パラスポーツの知名度の低さを感じて、テレビなどのメディアで露出して、知名度が上がってほしいな、という願いがありました。そのために自分が動いてテレビ番組をつくりたい、という思いが湧きあがりました。
総合文化政策学部(以下、総文)はメディアなどを学べる学部で、そういう学部は青学にしかなく、そして東京の渋谷にあるという点も魅力的で、選びました。
──どの先生のゼミに所属していますか
飯笹佐代子先生のゼミです。宗教や国際情勢、政治に関する分野を学んでいます。そこでパラスポーツを扱えればいいなと思って入りました。生きていくうえでためになることを学んでいます。とても新鮮で、楽しく学んでいます。
──世界で戦うには世界を知ることも大事ですね。総文には、映画監督になった先輩や、現役で映画を作っている人が多いですよね
ちょうど友人の田辺洸成君が映画を作っていて、今年、大きな大会「ぴあフェスティバル」で入選しています。
──青学で学んでいてよかったと感じることはありますか
今年の前期に履修した浦田先生の「映像メディア論」の授業は、メディアの構成などもわかり、自分自身メディア系に進みたいという気持ちを後押ししてくれて、自分の将来のためになっているなと感じています。浦田先生とお話しする機会も多く、ご指導いただいています。
──メディアといっても具体的にどういう方向を考えているのですか
テレビ番組制作です。テレビ局のディレクター志望です。高校生の時からぶれていないですね。
──どんな番組を目指しているのですか
二つあって、一つ目はパラスポーツの知名度を上げるために、パラスポーツのルール説明や試合映像を流して、魅力を伝えたいと思っています。
もう一つは、一人ひとりのアスリートにフォーカスしたコーナーを作り、障がいにもいろいろあることを伝えたいですね。例えば、見た目でわかる障がいのほかにも、見た目ではわからない内部疾患など、接してみないとわからないことがあるので、どういう生活を送っているのか、困りごとは何か、障がいによって一人ひとり違うので、密着した取材を通じて視聴者の皆さんに理解してもらいたいと思っています。
──ご家族の、特にお母様の支えや愛情を強く感じます
車いすテニスと出会えたスクールを探してくれたり、麗澤中学・高等学校のそばに一緒に住んでくれたり、今でも埼玉ライオンズの土日の練習に行く際、車で送ってもらうなど、小さい頃から自由にいろいろやらせてくれて、感謝しています。
本当は危なくて心配なのだろうけれど、小さいころから車いすを降りて動くこと、校庭で遊ぶことや、小学校の校舎の3階までハイハイで上がるのを止めずに、見守ってくれました。
──健常者と同じように接していたのでしょうね。その姿勢が正しいなと思いました。素晴らしい親御さんですね
そうですね。すごくありがたいと思っています。
──ご自身の目標を教えてください
「多様性」や「ダイバーシティ」という言葉が世の中に出てきていますが、「障がい」という言葉があまり好きではなく、「一つの個性としてみてほしいな」という思いがあります。障がいという言葉がなくなったらいいなと思っています。
──同感です。健常者でも、見た目は普通だったとしても、心に抱えているものは人それぞれあって、障がいを持っている方と全く変わらないと思っています。小さいころから、そのような区別しない心を持てる教育ができればいいなと感じています。小さい子の方が、見た目で正直に言葉に出してしまうという、ある意味残酷な面があります。それが残酷でないと思える教育が必要なんだろうなと思いますね
相手から寄り添ってもらうのを待つだけではなくて、障がいを持っている人からも自分の障がいのことを話していくことも大事だと思っています。自分は結構ブラックジョークを言うことがあり、「お母さんのおなかに足を置いてきちゃった」って(笑)。本当はそれで笑ってほしくて言っているのですが、逆に引かれてしまうことがあります。
──一時は引かれても「勇気があるな」と思われ、そして垣根がないことに気づかされて、親しみを持たれると思いますよ
お互いに心を開くきっかけになればと思っています。
──個性をもってよかったなと思うことはありますか
例えばジェットコースターは乗れないなど、障がいをもっているためにできないこともあります。しかし、障がいがあるからこそできることがあります。車いすバスケは、健常者も参加できますが、国際大会では、障がいを持っていないと出場できません。
そして、健常者だったら世界の舞台に立てなかったと思います。どんなスポーツでもほんの一握りの人しか世界の舞台に立てません。でも自分は「障がい」という個性を持っていたからこそ、世界で活躍できている、その点は個性を持っていてよかったなと思います。
──最後にメッセージをお願いします
小さい子どもからジロジロみられることがあり、小さい頃はそれが「嫌だな」という気持ちもありました。ですが高校生の頃から何も気にしなくなって「自分は自分だからいいじゃん」と思うようになりました。障がいを持っているのも個性だし、だれでも欠点があって、障がいは「目に見える欠点」だと思っているのですが、障がいだとは思っていなくて、欠点をもつことは悪いことではなく、自分の良さを見つけてほしいなと思っています。
自分には「明るい性格」という良い面があると思うので、自分に自信がつき、好きなスポーツを追求して、幸い良い成績を収めることもできました。自分の好きなことを追求できれば、嫌な気持もどんどんなくなっていくのでは、と思います。
人の欠点を見つけようとするとどうしても悪い気持ちに、悪い性格になっていってしまうと思います。人の良いところを見つけようとすれば、心が優しくなってきます。そういった意味で多様性が広がっていけばいいな、と思っています。
──充実していて、人生を楽しんでいることが伝わってきました。望月さんご自身が、後輩たちにとってのレジェンドになるのでは、と願っています。
ありがとうございました。