美しき陰翳(いんえい)第1回 灰紫(オールドローズ)は黎明の刻を告げる(「オランダ通詞たちの足跡」)
2020/08/13
2020年、新型コロナウイルス感染症拡大のため、活動の自粛が叫ばれ、移動がままならなくなってきた今、ふたたび鎖国時代に思いを馳せてみた。
今から300年以上前――
江戸時代の長崎で活躍したオランダ語の通訳者(オランダ通詞)たちがいた。
世界に対し国を閉ざしていた日本で、オランダ通詞たちはどのように学問・研究をしたのだろうか?
断片的な記録しかない彼らの業績を知るのは、それこそ影を掴むような作業に近い。
表舞台を陰から支える、“オランダ通詞たち”の密やかな美しさに満ちた足跡を辿るべく大学文学部英米文学科教授田中深雪先生にお話を伺った。
──オランダ通詞たちは自分たちのことをほとんど記録に残していないというお話でしたが、それでも記録に残るような、すっごい人っていたのでしょうか?
“すっごい”と言えるかはわかりませんが、オランダ通詞たちは17世紀頃から江戸幕府が終わりを迎える世紀までの約300年間、途切れることなく活動を続けていました。なかでも江戸時代の中頃はオランダ通詞たちの活躍が最盛期を迎え、才能豊かな人物が次々と現れました。
──おおっ、やはりいるのですね!!(身を乗り出す)
そうですね、後世にも影響を与えた通詞たちもいます。
特に、比類なきトランスレーターとも言うべき志筑忠雄(しづき ただお:1760-1806)(中野 柳圃)。“鎖国”など今使っている多くの言葉は彼が作ったものです。志筑が登場する前と後では飛躍的に翻訳のレベルが向上しています。
──“鎖国”という言葉を生んだ人が“鎖国”時代の人だったなんて驚きです。
元来病弱だった志筑は家からほとんど出ずに、大量の本を訳しました。
──すごいっ、コロナ禍にあえぐ今、なんだか勇気をもらいました。でもどうして、そんな天才が唐突に生まれたのでしょうか?
志筑が誕生することになった背景には、偉大な翻訳家を生む土台を築いた人々がいました。
なかでも志筑を語る上で欠かせない、二人のオランダ通詞をご紹介しましょう。
まずは、吉雄幸左衛門(よしお こうざえもん:1724-1800)(耕牛<こうぎゅう>)です。
──わたしは昔から人の生年と没年を見てしまう癖があるのですが、没年が76歳とは! 当時としては珍しく長命だったのではないでしょうか? 勝手な印象ですが、遅咲きの天才だったのですか?
長命ではありましたが、彼は若くして大通詞という高い職階につき、その後、半世紀以上も通詞職を務めた人物です。卓越した語学力の持ち主で、その才能を生かして通弁(通訳)や和解(翻訳)の仕事を始めとして大通詞としての重責を果たしました。西洋医学にも深い関心を寄せ、出島(現在の長崎県)に滞在していたオランダ商館の医師たちから積極的に医術を学び続け、やがて蘭方医学の名手として広く知られるまでになります。
──なるほど、医学の知識があったから、長命だったのかもしれないですね。妙に納得です。
そこまではわかりませんが。彼のもとには、日本各地から弟子入りを望む人たちが多く集まるようになり、西洋医学や医術の伝播に大きく貢献したのは事実ですね。
またこの他にも、耕牛は地理学、歴史学、それに本草学(薬を研究する学問で主として植物を対象とした)など幅広い知識を有していました。
──すごいっ! 二刀流、いやそれ以上のマルチな才能はどうやって生まれたのでしょうか。
本人の才能もありますが、耕牛はオランダから取り寄せた洋書をたくさん所有していたことでも知られています。
そこから新しい知識をたくさん吸収したと思います。
──本を読むって大切ですね……それにしてもオランダから本を取り寄せるとは、莫大なお金がかかりそうですね。
ええ。現代においても、海外から取り寄せる書籍は和書よりも高価である場合が多いのですが、当時は現代とは比較にならないほどの値段でした。しかも誰もが自由に海外から取り寄せることができるものではありませんでした。将軍家や大名など権力や富がある者でないと、所有することは難しいような貴重なものだったのです。通詞は職業柄、特別に許されていたようです。
──権力や富がないと海外から取り寄せる本は所有すらできない……学生時代、積ん読(※本を積むだけで読まない)専門だったわたしとしては耳が痛いお話です。それにしても耕牛はどうしてそんな高価な本を、たくさん所有できたのでしょうか?
それは耕牛が実力を持った通詞であったこと、そしてかなりの資金力を持っていたことを意味します。しかも耕牛は、その書籍を独り占めするのではなく、他の通詞仲間や日本各地から集まってきた自分の門弟たちなどにも使わせており、多くの若者がその恩恵に授かることができるなど、その影響力は極めて大きかったと思われます。
──財力、知力そして才能、全てを持つ耕牛。その上、独り占めしないという性格の良さも伺えます。子供の頃、お菓子を独り占めにしようと全部口に放りこみ、喉につかえて叱られたわたしとは大違いです。まさに物語のヒーロー! 通詞界の絶対的エース!! 志筑忠雄が登場する以前にこんなすごい人がいたなんて、本当に驚きですが、深雪先生、もう一人いるとおっしゃっていましたよね?
本木良永(もとき よしなが/りょうえい 1735-1794)です。耕牛より少し後に生まれた良永は通詞家であった本木家の養子となり、54歳で大通詞に昇進します。
──ちょっと遅めに開花する。いいですね! でも没年が59歳ですから、本当に最晩年咲きという感じがします。
耕牛と比べると出世は遅かったのですが、良永は幕府の命令を受けてオランダ語の翻訳作業に打ち込みました。勤勉で大変な努力家として知られています。
──努力型の秀才ですね。
特筆すべきは、まともな蘭日辞書もまだ存在しないこの時代に、天文学や地理学などの分野において、数多くの翻訳書を残しています。そのなかでも「太陽窮理了解説(たいようきゅうりりょうかいせつ)」(1792-93)は有名で、太陽中心説について詳しい説明が行われています。
──さらにコペルニクスの地動説を紹介したのですね! 理科の時間を思い出します。(地動説というとガリレオ裁判の話とかケプラーが乱視で月が6個くらいに見えたとか、余談で聞いたことしか思い出せないのですが……)日本語でも難解なのに、それを辞書もなくオランダ語を訳す、恐らく参考文献もなく訳せる、やはり天才です!
天才というより努力家かもしれませんね。良永の手によるオランダ語の文書は今でも残されていて、その見事な筆跡は目を見張るものがあり、彼の語学レベルの高さを窺い知ることができるものです。
──耕牛に良永、まさに二大巨頭。同時期に天才が二人も出てくるとは、インパクト大です。さすがにこれ以上の天才は出てこないと思いきや!? ですね。
ええ。
耕牛と良永よりも少し時代を経て、志筑忠雄が登場します。
志筑は数多くの翻訳書を残しており、二人の偉大な通詞たちが切り開いた西洋からの学問をさらに発展させていくことになります。
──改めて没年が気になりました。46歳で亡くなっているのに、多くの翻訳書を残したのですか? 深雪先生、比類なきトランスレーター志筑忠雄について興味をひかれます。もっと詳しく教えてください。
≪参考文献≫
片桐一男『江戸の蘭方医学事始―阿蘭陀通詞・吉雄幸左衛門 耕牛』(丸善ライブラリー)、2000年
原口茂樹『長崎偉人伝 吉雄耕牛』(長崎文献社)、2017年