Interview インタビュー

美しき陰翳(いんえい)第3回 比類なきトランスレーター志筑忠雄・後編

“オランダ通詞たち”の密やかな美しさに満ちた足跡を辿るシリーズ“美しき陰翳”。
鎖国期只中の日本に生まれ、わずか47歳で亡くなった早逝の天才、志筑忠雄(しづき ただお:1760-1806)。お墓の場所すら分からないという謎に包まれた志筑忠雄について、大学文学部英米文学科教授田中深雪先生にお話を伺った。今回はその後編をお送りする。(前編はこちらから)

──深雪先生、もう少し詳しく志筑について教えてください。(前のめりになる)
前回、志筑忠雄について簡単にご紹介しましたが、彼がどのようにして多くのオランダ語の書物を日本語に訳し、さらには自分で注釈を加えることができるほどの高度な語学力を身に付けることができたのか、その点を少し探ってみましょう。
志筑忠雄は人生のほとんどを家に引きこもって過ごしましたが……

──ちょっと待ってください。志筑はどうして人生のほとんどを家に引きこもって過ごしたのですか。

身体が弱く、病気がちだったそうです。

──そういえば、病弱だったのでしたね。2020年、コロナ禍で家に引きこもるのって、地球の重力をより感じるものだと思ったものですが、志筑忠雄も何十倍もの重力を感じていたことでしょう。そんな隠居生活を送っていた志筑はどうやって外国語(オランダ語)を学んだのでしょうか。

子どもの頃からずっと家に引きこもっていたわけではありません。志筑も一時期は稽古通詞を務めていたので、当時のオランダ通詞たちと同じようにアルファベットの読み書き、単語(語彙)やそのスペル(綴り)などを学び基礎力を蓄えていったはずです。

──天才といえどもABCから始まるとは、意外とふつう……いえ普遍的な学習方法ですね!

そうですね。当時の通詞たちはオランダ語の日常会話や常套文句、表現の数々を習得しています。彼らが用いたオランダ語のテキストが残っていますが、文字だけでなく挿絵もあり、語学だけでなく文化も学ぶことができたようです。またオランダ通詞たちは海外からの書物だけでなく、出島に滞在していたオランダ人たちとの日々の接触を通して、異国の文化、習慣、服装、食物、それに“もの”の考え方など多くのものを吸収していきました。

オランダイメージ
オランダが教えてくれたもの(※イメージ)

 

志筑が活躍したこの時代、本格的な日蘭・蘭日辞書こそ編纂されてはいませんでしたが、通詞たちが代々受け継いできた語彙集はすでにかなりの分量になっていました。特にオランダとの交易に関する語彙は貿易官としての任務を背負った通詞たちにとっては欠かすことができないもので、詳細な語彙集が遺されています。志筑も長崎のオランダ通詞社会の一員として若いうちにこれらの語彙も身に付けていたのではないかと思います。

──挿絵付きのテキストに、先輩たちが遺してくれた語彙集、そしてネイティヴスピーカーからも直に学ぶ。なんだか志筑に限らず、他のオランダ通詞たちでも優れた業績を残せそうな気がしてしまいます。

ただ志筑が他の通詞たちと異なるのは、一般的な日常会話や交易に関わるオランダ語だけでなく、天文学、物理学、語学(文法など)、地理学、数学、兵学、医学、海外事情など幅広い学問分野について学んでいる点です。彼が生涯で執筆したとされる書は、彼が亡くなった後に弟子たちがまとめた書物も含めて実に多く、扱っている内容も多岐にわたっています。ここではその中から数点だけ、代表的なものをご紹介します。

志筑の著作物の中で一番多いのは、天文学や物理学の分野に関するものです。
数多くの著作物を遺していますが、最も力を入れていたとされるのは「歴象新書」です。原作はイギリスの天文学の教授だったジョン・ケイル(1671-1721)の物理学・天文学の講義録で、当時すでにオランダ語に訳されていました。志筑はこれを長い時間をかけて和訳しました。皆さんが良くご存じの「地動説」、「ニュートン力学」それに「真空の概念」などが紹介されています。彼は書を単に訳すのではなく自分で注釈も加えており、内容を深く理解していたことが窺われます。志筑は近世の日本において、天体力学を理解しえた数少ない科学者の一人だと、今でも称されています。

ニュートン力学
(左)本を見て注釈を加える忠雄さん
(右)りんごを見て引力を見つけるニュートンさん(※いずれもイメージ)

 

志筑の著作物の中で次に多いのが語学に関するものです。この分野は翻訳ではなく、彼が長いことオランダ語の書物の翻訳作業に取り組む中で知り得た文法や語法を、詳細に解説する書を何冊も執筆しています。この時代はまだオランダ語を日本語に訳す際は、漢文の訓読法を応用して、訳す順に語の横にレ点や番号をつけて読み下していました。しかし志筑は、それでは本当にオランダ語の文を理解したことにはならないとして、西洋の文法規範に基づいた新しい読み方を試みます。彼はラテン語やオランダ語の文法書などをもとに文法法則を次々と解明していきます。この分野における志筑の功績は大きく、彼の弟子や通詞たち、それに蘭学者たちも、その卓越した知見の恩恵に与かることができました。彼のおかげで我が国におけるオランダ語の理解が飛躍的に向上したと言い伝えられています。

辞書
(左)「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったかもしれないアントワネットさん
(右)「文法法則がなければ見つけ出せばいいじゃない」と思ったかもしれない忠雄さん
(※あくまでもイメージ)

 

そして三つ目の地理学や歴史の分野に関する著作物には、数は多くないのですが「万国管闚」(1782)や、誰もが一度は聞いたことがある「鎖国論」(1801)が含まれます。これは17世紀末に来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)が、日本での見聞をまとめ執筆した「日本誌」という書の一部を志筑が翻訳したものです。志筑はこの中から巻末の附録の一部を選んで訳し「鎖国論」と名付けています。本書の蘭文のタイトルが長いため、「国を鎖す」という表現が本文に何度か用いられていることを参考にして「鎖国」という言葉を生み出し、それをタイトルにしたと言われています。

鎖国
「タイトル買い」を意識した見事な戦略の忠雄さん

 

──これならわたしでも真似できるという志筑忠雄流儀ってありますか、もとい、志筑忠雄から何を学ぶことができますか。

そうですね、志筑は、現在でも使われ続けている「鎖国」、「地動説」、「重力」などの言葉を次々と編み出しました。彼は単に外国語に長けていただけではなく、日本語の力も知識も高いレベルの持ち主だと思います。豊かな母語の力という強力な味方があったからこそ、外国語に接した時、卓越した翻訳の力を発揮することができたのでしょう。母語は鍛えてありますか?

母語を鍛えなおす
外国語の学習を助ける豊かな母語の力。これは学びなおすしかない!

 

──卓越した外国語力を支える母語の力。改めて母語を鍛えなおします! そうすればいつか志筑忠雄の足下10センチ下くらいには近づけるかもしれないですよね。

志筑が病気がちで、そう長くはない人生の中で次々とこれまでとは次元が違う輝かしい業績を残すことができた背景には、彼自身の努力があったことは間違いありませんが、彼が生きた時代の長崎が海外から最新の情報が集まってくる最先端の町であったこと、また以前ご紹介した吉雄耕牛や本木良永をはじめとして、歴代の通詞たちが切り開いた蘭学の世界があり、海外の文献にアクセスすることができたことや、裕福な生い立ちなど恵まれていた点など色々な要素があったことも忘れてはならないと思います。

──天才は一日にしてならずという感じですね。それにしてもこんなにすごい人なのに、志筑について教科書で学んだ記憶がありません。

研究者の間では有名な志筑忠雄も一般にはあまり知られていないかもしれませんね。
病身で晩年は弟子に口述筆記まで頼んで書き続けた志筑ですが、彼が亡くなった後は、いつしか時代の流れの中で埋没し、長い間、光を見ることがなかったそうですよ。

忠雄さんイメージ
などと、忠雄さんがしたためたはずはないが……

 

とはいえ、当時、まだ日本では理解することもできなかった英国やヨーロッパ諸国の新しい科学や天文学を次々と紹介し、またオランダ語の文法法則を解説し、さらに当時の海外事情についても説いています。彼が日本の社会に与えた影響は計りしれません。
志筑の遺した著作物を通して、駆け足でその足跡をたどってみましたが、志筑のように生涯の大半を家に籠って翻訳や執筆作業に取り組んだ人物も異文化コミュニケーターと言えますし、時代を超えた比類なきトランスレーターと言っても過言ではないでしょう。

──これほどまでの傑物、オランダ通詞界ではもう出てこなかったのでしょうね。

実はそうとも言い切れないの。志筑が亡くなってから14年後、幕末の日本に……

──幕末の日本! 血が騒いできました。先生、詳しく教えてくださいっ。(つんのめる)
(次回「第4回天賦の異文化コミュニケーター森山栄之助・前編」に続く)

夜明け
Not knowing when the dawn will come, I open every door. ―Emily Dickinson
夜明けがいつ訪れるか分からない。だからわたしは全ての扉を開く(エミリー・ディキンソン)

 

≪参考文献≫
大島明秀『「鎖国」という言説-ケンペル著・志筑忠雄訳「鎖国論」の受容史-』(ミネルヴァ書房)2009年