Interview インタビュー

【最終回】静謐の流儀【戦前の青山学院と日本の伝統的文化第3回】

今から約130年前の青山学院。そこでは、いけ花や茶の湯(茶道)を教えていたという。
開学当時からキリスト教に基づく教育を行ってきた本学において、日本文化の結晶とも言うべきいけ花や茶の湯(茶道)はどう扱われてきたのか――
静謐ともいうべき空間を彩る、いけ花と茶の湯。
青山学院でこの流儀を教えてくれた先達について、いけ花史や連歌を専門に研究されている小林善帆(こばやし よしほ)先生にお話を伺った。
(なぜ小林先生が青山学院に注目されたのかについては第1回第2回をご覧ください。)

第3回 師が見ているものを見よ!

──善帆先生、注目されている青山学院の先生方を教えてください
まずは、青山学院にとってなくてはならない方をご紹介しましょう。
1874(明治7)年11月に来日したスクーンメーカー(Dora E.Schoonmaker(1851~1934、ドーラ・E・スクーンメーカー))先生です。
彼女は津田仙*(1837~1908)氏の協力をうけて、東京麻布に青山学院の源流のひとつである女子小学校を開設します。翌1875(明治8)年6月、芝に移転。救世学校と改称するとともに、小学校以上の女子も教えるようになり、1877(明治10)年1月には、築地居留地に移転し、海岸女学校と改称しました。

*津田仙:青山学院設立の祖。本校最初の生徒は津田氏の妻と子どもたちであった。津田氏は明治初期における農学の祖としても知られる。日本最初の女子留学生津田梅子の父。妻とともに日本人初のメソジスト派のキリスト教徒となった。
静謐の流儀

Dora E.Schoonmaker(1851~1934、ドーラ・E・スクーンメーカー)(写真提供:青山学院資料センター)

 

──スクーンメーカー先生を初めて知った時、わずか23歳の女性が海を渡ってやってきて学校を開く、その志の高さに衝撃を受けた覚えがあります
そうですね。
スクーンメーカー先生は授業の初めと終わりに祈祷、讃美歌を欠かすことがなかったといいます。当初はアメリカの生活様式を採用していましたが、自らの精進も倦む(うむ)ことなく、日本語を熱心に学び、毎週2回の説教を苦心しながらも日本語で行えるまでになり、やがて日常会話や読み書きはもちろん、自分の考えや聖書の真理を伝えるのに、日本語を自由に使えるようになったといいます。

静謐の流儀

1876(明治9)年建設された最初の海岸女学校校舎と宣教師館(写真手前)(写真提供:青山学院資料センター)

 

──すごい努力家ですね。しかし、当時の児童・生徒にしたらカルチャーショックもあったでしょうね

そうですね。カルチャーショックは、あったと思います。
ちなみに、当時の授業は英語の読み方・書き方・作文、音楽、日本語の習字、漢字で、全員が寄宿舎に入寮し、そこで西洋式の風呂に入り、食事もナイフとフォークを使っていたそうです。

─スクーンメーカー先生の偉業が20代というのは衝撃的でした。善帆先生が注目されている先生は他にいらっしゃいますか?
三輪松琴(みわ しょうきん*)先生です。「東京英和女学校職業部」が招いた先生です。当時たいへん人気の高い有名な先生だったそうです。三輪先生は「茶道・活花・女礼式・日本料理等」を教えていたといわれています。

*通常、茶名などは音読み。
静謐の流儀

当時(1894(明治27)年11月28日)の讀賣新聞に三輪松琴先生の記載がある。
(『新聞集成明治編年史』国立国会図書館デジタルアーカイブより)

 

──人気のある先生を招くとは、力が入っていましたね
そうですね。三輪先生から時代を経ますが、中川とるい先生も注目すべき人物として挙げられます。
青山学院では昭和戦前期に、高等女学部上級生と女子専門部の有志を対象に、専任教員であった中川とるい先生が1週間に1回、放課後に指導していたそうです。

静謐の流儀

中川とるい先生(写真後列左から3人目)青山女子手芸学校教職員の集合写真 1900(明治33)年頃
(写真提供:青山学院資料センター)

 

──先生が放課後に教えてくれる。まさに部活動ですね
中川先生は、青山女子手芸学校専門部刺繍裁縫科を1900年に卒業。卒業直後から1940年の定年まで手芸、作法、いけ花を母校で教え、退職後は女子専門部の講師となったそうです。
中川先生は、いけ花は池坊と小原流、茶の湯は表千家、そして作法は小笠原礼法を修得されていましたので、中川先生が教えるいけ花は課外とはいえ本格的でした。池坊の生花(せいか)様式と小原流の盛花(もりばな)様式のいけ花を教えていたそうです。
大勢の生徒達は、習得程度に合わせてそれぞれの花材をいけるので、使用している作法室は大変な賑わいになったといいます。熱心な者は卒業後も引き続き中川先生の指導を受け、専門家になる者もいたといいます。
太平洋戦争が始まると、茶の湯は早い時期に廃止されましたが、いけ花は戦時中、花材が入手困難になるまで存続したそうです。

静謐の流儀

中川とるい先生の現況を伝える記事。「今でも週一回短大にお花を教えにいらっしゃいます」との記述がある。
(「青山学報」51号 1965(昭和40)年6月7日)

 

──他に注目すべき先生はいらっしゃいますか?
教員ではないのですが、大正末~昭和初期に青山学院で学び、小説家となった北村謙次郎(1904~1982)氏がいます。
北村氏は東京に生まれ、旧制中学校時代は大連(中国東北部)で過ごしました。進学のため東京に戻り、青山学院、國學院に学び、日本文壇にデビューしました。その後1937年に「満洲国首都新京」(現在、吉林省長春市)に移住し、「満洲文学」の第一人者となりました。

──北村謙次郎先生の注目ポイントはどこでしょうか?

1942年1月、「満洲国」建国十周年を記念して『藝文』が創刊。その創刊号の文芸欄筆頭に北村謙次郎氏の中編小説「東北」が掲載されました。「東北」とは日本の東北地方のことです。
注目すべきことは、この小説に、いけ花に関する描写が数多く見られることです。

静謐の流儀

『藝文』の創刊号(写真提供:古書店モズブックス)1942(康徳9、昭和17)年1月1日刊行

 

──いけ花が出てくる小説を書いたのですね
そうです。
この中編小説について、日中文学研究者の劉建輝(りゅう けんき)国際日本文化研究センター教授は、
「青島在住の中年女性が久しぶりに故郷の東北のY市を訪ね、かつての恋人と再会する前後に感じた一種の淡い郷愁」
を描いた秀作と評しています。
その「淡い郷愁」を、いけ花をモチーフに描いているのがこの作品の特徴といえます。

──いけ花がモチーフとは粋ですね
そこには深い理由があります。
何故、いけ花をモチーフに書いたのか。その理由の一つには掲載誌『藝文』(「満洲国」の文化総合雑誌)の位置づけが関係しています。
1941年3月、「満洲国」の文学や芸術を統制する重要な政策(日本の軍国精神を文化をもって浸透させ「満洲国」を日本と同化させる政策)が打ち出されました。それゆえこの政策に準じた『藝文』では、模範的な日本人女性が、「内地」(日本)の東北地方よりも、日本人としてより心豊かな生活ができる「外地」を選ぶ、という小説を書く必要があったのです。
北村氏はこの小説で、いけ花が当時、日本人女性の修養として不可欠な日本の伝統的文化であったこと、そして日本人の生活にいけ花が欠かせないものであったことを描いています。それは北村氏ご自身の当時の生活であり、いけ花が青山学院で積極的に取り入れられ、教えられていたことを見聞きしたことがあったのかもしれません。

──結果的にいけ花が文芸統制に使われる。複雑な側面を感じます
職業教育としての取り入れであったり、宗教的教育継続のためや戦時下、日本人としての教育を行っていることの証としての取り入れであったりと、歴史の変遷の中で、青山学院でのいけ花や茶の湯の取り入れは、様々な側面をみせています。

とはいえ、青山学院の草創期において日本の伝統文化は、キリスト教とともに人格形成のよりどころになっていたといえるのではないでしょうか。

 

エピローグ

「部屋を清め、床に軸を掛け、花をいけ、そして一服の茶を点てる。全ては客をもてなすために」
そこには正しく「決して驕ることのない、また決して誇ることのない」精神が感じられる。
またその心は、不思議とキリスト教精神にも通じ、キリスト教信仰に基づき愛と奉仕の精神をもつ人間を育ててきた「青山学院」の教育方針にも通じるようだ。
来年2024年、青山学院は創立から150周年を迎えるが、先達が守り抜いたこの精神は今後も連綿と継承されていくことだろう。いけ花や茶の湯の精神が今後も続いていくように。

(了)

 

参考文献
小林善帆『「花」の成立と展開』和泉書院 2007年
気賀健生『本多庸一 信仰と生涯』教文館 2012年
小林善帆「近代日本のキリスト教主義女学校と精神修養 ―いけ花・茶の湯・礼儀作法・武道との相関を通して」上村敏文・笠谷和比古編『日本の近代化とプロテスタンティズム』教文館 2013年
小林善帆「明治中期の女子教育といけ花、茶の湯、礼儀作法 ―遊芸との関わりを通して」『日本研究』第64集 国際日本文化研究センター紀要 2022年
小林善帆「満洲都市部の女性と文化教育 ―修養としてのいけ花、茶の湯、礼儀作法―」劉建輝編『満洲という遺産 その経験と教訓』ミネルヴァ書房 2022年
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