Column コラム

フィンランド 〜1年間暮らして考えたこと〜 【第3回】

青山学院大学教育人間科学部教育学科教授

杉本 卓

ロシアのウクライナ侵攻から1年以上が経ち、ロシアと隣接しているフィンランドのNATO加盟が決まりました。フィンランドは約1,300キロメートルの国境でロシアと接しており、1917年に独立するまでの約100年間、ロシアの一部でした。そして独立後は、1939年から1940年にかけての冬戦争と1941年から1944年の継続戦争で、ロシア(旧ソ連)と戦いました。そのような歴史があるので、ロシアに対する警戒感はフィンランド社会の随所に見られます。

 

例えば、タンペレで在外研究中に住んでいたアパートの地下には普段使わない荷物などを保管しておける部屋がありましたが、その入り口のドアの分厚さには驚きました。何のための場所なのかは見てすぐ察知できましたが、案内してくれたアパートの貸主の娘さんに「なんでこんなにドアが分厚いの?」と尋ねてみたら、「万一何かあった時のため」とだけ答えてくれましたが、言おうとしていることは暗黙の了解です。タンペレ駅前から繁華街にかけての地下には広大な駐車場がありますが、それも同じことです。有事の際に爆撃から市民を守るために、一定の大きさ以上の建物・施設の地下にはシェルターの設置が義務付けられており、また公共の大きなシェルターも市内の主要なところに設置されているのです。

 

ロシア・ソ連と接しながら、日本とほぼ同じ広さの国の独立をたった550万人の人口で保っていかなければならないという地政学的状況は、フィンランドの社会・教育・福祉のあり方に大きな影響を与えてきました。男女平等が進んでいるのも、「男性の多くが戦争に行ってしまっていたから、女性が働いたり社会の中で様々な役割を果たしたりするのは当然だった」と多くのフィンランド人が言います。1970年代からの教育改革も、一人ひとりが自立することや産業を発展させることが、ソ連の隣で強い国を作っていくために必要だったからという背景もあります。ただ、そのようにソ連・ロシアを警戒しながらも、西側諸国の一員になることはロシア・ソ連に敵対する姿勢を明確にすることになってしまうため、フィンランドは微妙な立場を取ってきました。そんなこともあるので、フィンランドに1年間住んでいて、フィンランド国内のあちこちでロシア・ソ連との関わりを示すものを目にして、とても興味深く感じました。

 

ヘルシンキのロシア皇帝像と双頭の鷲

例えば、ヘルシンキ中心部の有名な観光地であるヘルシンキ大聖堂を背にして元老院広場に立っている立派な像は、かつてのロシア皇帝、アレクサンドル2世のものです。フィンランドはロシアから独立したのに、そのロシアの皇帝の像が首都の中心部にあるというのは、アレクサンドル2世がフィンランドの自治を大幅に認めていたということがあるとはいえ、なんだか奇妙な感じもします。

 

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ヘルシンキ元老院広場のアレクサンドル2世像

 

アレクサンドル2世の像から海に面したマーケット広場までは、歩いて1分もかかりません。その広場には、石碑が立っています。見上げると、オベリスクの上に、帝政ロシアのシンボルである双頭の鷲があります。これは、ニコライ1世の皇后アレクサンドラが1833年にヘルシンキを訪れたことを記念して建てられたものです。ロシア統治下のフィンランド大公国の新しい首都ヘルシンキを視察に訪れたロシア皇帝夫妻にちなんだ碑が観光客や地元の人々で賑わう数々の露店に紛れるようにして立っているということに、やはり少し驚きを感じます。

 

 

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ヘルシンキのマーケット広場の双頭の鷲

 

 

タンペレの鷲の像とレーニン博物館

私が住んでいたタンペレにも、ロシアに関係するものがいくつかありました。街の中心部から北に10分ほど歩くと、タンペレの産業の中心だったフィンレイソンの工場跡地の裏手の湖から川に水が流れ込むところの近くに、鷲の像があります。これは、アレクサンドル1世がこの地を訪れた記念に建てられたものです。後にアレクサンドル2世も同じ場所を訪れたので、アレクサンドル1世の時と同様の銘板が並べて設置されています。

 

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タンペレの鷲像

 

こうした帝政ロシアのロマノフ王朝の皇帝・皇后を記念したものだけでなく、ソビエト連邦に関係するものもあります。タンペレ駅から西に伸びるメインストリートを15分ほど歩くと、正面に教会が見えます。そこを左に曲がってすぐ右手の建物の2階に、レーニン博物館があります。ロシア革命の指導者で、ソビエト連邦建国の中心人物である、あのウラジーミル・レーニンに関する博物館です。レーニン博物館の入っている労働者会館には、タンペレ労働者劇場(Tampereen Työväen Teatteri)も併設されています。タンペレは工場労働者の街として発展してきましたが、演劇をはじめとする文化的な活動を楽しんだり、様々な種類の集会で人が集まったりしていたところなのです。レーニンはロシア革命前の一時期、この場所に滞在していました。1905年にレーニンがスターリンと初めて出会ったのもこの場所です。

 

私が訪れた2019年は、レーニン博物館の展示の半分ほどがレーニンやロシア革命についてのもので、残りの半分はロシア・ソ連とフィンランドの関係にまつわる展示でした。

 

 

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タンペレのレーニン博物館

 

 

トゥルクのレーニン像

ヘルシンキから西に180キロメートルほどのところに、トゥルクという街があります。ここは、ロシア支配前のスウェーデン統治時代にフィンランドの中心地だったところです。街の中心部から小高い丘を登っていくとトゥルク美術館があります。その美術館に向かって歩いていた時、正面すぐ手前の歩道にあった像がふと目に留まりました。レーニンの像だったのです。この像は、1907年にここをレーニンが訪れたことを記念して、トゥルクと姉妹都市だったレニングラード(当時)から1977年に贈られて設置されたものだそうです。

 

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トゥルクのレーニン像

 

このレーニン像は、2022年4月末に屋外からは撤去され、博物館内に保存されることとなりました。この時点でフィンランド国内に残っていたレーニン像は、フィンランド南東部でロシアとの国境まで約20キロメートルのコトカという街のものだけになりましたが、それも2022年10月に撤去されたそうです。

 

2019年から2020年の滞在中の私の印象では、こうしたロシア・ソ連に関連する像や博物館などの存在について、フィンランド人は特に気にしているようには思えませんでした。反発している様子も見られなければ、特に強く関心を持っているようでもなく、淡々と「そこにあるもの」と思っているように感じられました。タンペレのレーニン博物館について、フィンランド人の大学教授(教育学)に話を聞いたことがありますが、彼の考えは「歴史として捉えている」「歴史をきちんと理解しておくことは大事だと考えている人が多いだろう」というものでした。警戒すべき隣国として刺激をせずにうまく付き合いながら、歴史はきちんと学んでそれを踏まえて現在・未来のことを考えようという考えが基本にあるのだと思います。しかし、そのような微妙なバランスと関わり方が、ロシアのウクライナ侵攻で一変しました。ロシアとの国境に壁が設けられるなどといった現在の状況が、早く落ち着くことを願うばかりです。