Interview インタビュー

静謐の流儀【戦前の青山学院と日本の伝統的文化】第1回

プロローグ

「部屋を清め、床に軸を掛ける。花をいけ、そして一服の茶を点てる。全ては客をもてなすために」
茶道やいけ花は淑女の嗜みとされたこともあったが、かつては武士も茶を点て、花をいけたという。

その頃のわたしは、仕事で連歌の挿絵を探していた。
連歌とは五七五と七七の句を交互に詠みつぐ風流なもので、明治時代に入るまでは、さかんに行われていた。
けれども、なかなか良い挿絵が見つからない。

そんな折、一つの挿絵が目に入った。京都の愛宕山での連歌会の挿絵である。
明智光秀が「時は今~」と詠み、織田信長を本能寺に討つ決意をしたとされるあの場面だ。
はやる気持ちを抑え、その絵の詳細を知るためにコンタクトを取ったのが、京都芸術大学・大学院で連歌実作やいけ花の歴史を教えられている小林善帆(こばやし よしほ)先生だった。連歌について教えていただくと共に、先生の論文も読ませていただき、そこで初めて先生が連歌、そしていけ花や茶道、女子教育にも造詣が深いことを知った。

今から約130年前の青山学院。そこでは、いけ花や茶道も教えていたという。
開学当時からキリスト教に基づく教育を行ってきた本学において、日本の伝統文化ともいうべきいけ花や茶道はどう扱われてきたのか――。

2023年、春。
小林善帆先生にお話を伺った。

 

第1回 密やかなる胎動、麗しき萌芽

──唐突ですが、善帆先生はなぜ青山学院にご興味を持たれたのでしょうか?(面接官みたいな質問ですみません)
いけ花の歴史を調べていた時のことです。
いけ花と茶の湯(茶道)は江戸時代後期、「遊芸」としても行われていたため、明治時代に入り、学校教育には相応しくないとみなされていました。
そんな中、青山学院の前身のひとつである1891(明治24)年に開設した東京英和女学校職業部専門科(1899年青山女子手芸学校、1914年青山女学院手芸部に改組改称)は少し違っていました。
いけ花や茶の湯を学校教育に取り入れていたのです。1899(明治32)年2月に日本の女子中等教育を規定した高等女学校令(勅令第31号)が出されましたが、いけ花、茶の湯は学科目にはなりませんでした。

その際、青山女子手芸学校は「各種学校」であったため、高等女学校令に従う必要はなく、つまり学科目に縛り(規定)がないこともあり、いけ花や茶の湯を学科目としました。しかし各種学校であったとはいえ、これは当時としては大変珍しいことです。
キリスト教主義の女学校でありながら、西洋の作法や文化でもないものが、なぜ取り入れられたのか、興味をひかれました。

静謐の流儀

 

──うわぁ、なぜなのか気になります。
それには、いくつかの側面があります。
まず一つの側面として、アメリカのメソジスト教会派の伝道局の指示があったことです。彼らは日本女性が経済的、職業的に男子に従属せずに生きていくために職業、技芸を身につける職業教育を行う必要があると感じていたのです。
意外かもしれませんが、アメリカの伝道局はいけ花、茶の湯、礼儀作法を職業教育の一環としてとらえていました。その一方で日本側としても、自宅で教えることができる女子にふさわしい職業として、また日露戦争における未亡人の職業としてもとらえることがありました。それと本来、いけ花や茶の湯は遊芸、修養、花嫁修業、職業としてなど、取り入れの理由は一つではありませんでした。

職業訓練

「作法室」青山女学院代官山校舎手芸部 絵葉書より (1922(大正11)年9月11日ごろ撮影)
(青山学院資料センター所蔵)

 

──いろいろな理由があるのですね

青山学院の歴史の中で、いけ花、茶の湯は職業教育として扱われたり、課外で教えられたりと紆余曲折がありますが、歴史をひもとくと、青山学院がいけ花・茶の湯にとても関心の深い学校だったということがみえてきます。

茶の湯の稽古

女子専門部寄宿舎(北寮)におけるお茶のお稽古(1935(昭和10)年ごろ撮影)(青山学院資料センター所蔵)

 

──青山学院がいけ花・茶の湯に関心の深い学校だったとは! 青山学院といけ花・茶の湯の歴史を詳しく教えてください。
それでは、順を追って話してまいりましょう。
すでに先ほどからお話に出ている青山学院の前身のひとつ「東京英和女学校 職業部」、「青山女子手芸学校」では職業教育が行われ、「いけ花・茶の湯」は、花嫁修行程度ではないレベルの授業が行われていました。
茶室を用意し、著名な方を教員として招くなど本格的なものだったようです。

もちろん当初のアメリカ伝道局の意向もありましたが、明治中期の国粋主義の台頭も影響していたようです。

──国粋主義とは?
いわゆるジャパンファーストとでも申しましょうか、自国が一番だとする自国主義のことです。
この時期の国粋主義は押し寄せる欧米化の波に反発する形で起こりました。
聖書を教え、英語科目や英語による授業が多いことへの反発が学校内部からも出てきたようです。そのため日本語による授業や日本刺繍・和裁、琴、そして日本料理の授業を取り入れるなどの工夫が必要だったようです。いけ花や茶の湯の授業もそんな時代の流れの中、社会からの要求に合致した側面がみえますね。

──さきほど先生がさらりとおっしゃった英語科目や英語による授業が多いというのは、どういうことでしょうか?
英語科目では、英語の読み方・書き方・作文、さらに英語で地理・歴史・博物・音楽を教えていたようですよ。そして開学から聖書朗読や礼拝も守ってきています。
1895(明治28)年、先にお話しした職業教育のいっぽうで、「東京英和女学校」は「青山女学院」と改称しました。
しかし1899(明治32)年8月に文部省から「訓令第12号」が出され、状況が変わります。

訓令第12号イメージ

訓令第12号で衝撃が走った(イメージ)

 

──「訓令第12号」とは?(なんだか重々しいです)
「訓令第12号」の公布で、政府公認の学校において宗教上の教育・儀式が禁止されました。
つまり学校内において聖書の授業や礼拝などの宗教的儀式を行う場合は「各種学校」となり、以下のような不利益を被ることになったのです。
1.高等女学校と認めない。
2.上級学校への進学ができない(女子高等師範学校や女子専門学校の受験資格が得られない)。
3.教員検定が受けられない(文部省の中等教員検定試験の受験資格が得られない)。
4.就職に対し不利(伴任文官(戦前の軍事以外の行政事務の官吏)に任用される資格を得られない)。
それは生徒数の減少につながり、経営をもおびやかしました。
しかしながら「青山女学院」はキリスト教に基づく教育を貫くために、「各種学校」として生きる道を選びます。
後日、青山学院院長の本多庸一(ほんだ よういつ)氏や明治学院総理の井深梶之助(いぶか かじのすけ)氏等の尽力もあり、文部省から、「各種学校」に対して「専門学校入学者検定規程」による文部大臣の指定認可の機会が設けられたのです。
それは「高等女学校」卒業者と同等の資格が与えられるものでしたが、その認可を得るため、「青山女学院」は努力していくことになるのです。

参考文献
小林善帆『「花」の成立と展開』和泉書院 2007年
気賀健生『本多庸一 信仰と生涯』教文館 2012年
小林善帆「近代日本のキリスト教主義女学校と精神修養 ―いけ花・茶の湯・礼儀作法・武道との相関を通して」上村敏文・笠谷和比古編『日本の近代化とプロテスタンティズム』教文館 2013年
小林善帆「明治中期の女子教育といけ花、茶の湯、礼儀作法 ―遊芸との関わりを通して」『日本研究』第64集 国際日本文化研究センター紀要 2022年
小林善帆「満洲都市部の女性と文化教育 ―修養としてのいけ花、茶の湯、礼儀作法―」劉建輝編『満洲という遺産 その経験と教訓』ミネルヴァ書房 2022年
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