Interview インタビュー

静謐の流儀【戦前の青山学院と日本の伝統的文化】第2回

今から約130年前、現在の青山学院の前身の一つである学校では、いけ花や茶の湯(茶道)を教えていたという。
開学当時からキリスト教に基づく教育を行ってきた本学において、日本の伝統文化ともいうべきいけ花や茶の湯(茶道)はどう扱われてきたのか――
いけ花史や連歌を専門に研究されている小林善帆(こばやし よしほ)先生にお話を伺った。
(なぜ小林先生が青山学院に注目されたのかについては第1回をご覧ください。)

第2回 激動の潮流

──1899(明治32)年の文部省「訓令第12号」が出された中、「各種学校」としての道を選んだ青山女学院(現在の青山学院の前身の一つ)の授業について教えてください。
これまで通り、聖書を教え、礼拝を守り、日曜学校やデイ・スクールの手伝いや奉仕などの宗教活動を行い、英語の授業は週6時間と通常の高等女学校の2倍の量を行っていました。

──教育方針を貫く「青山女学院」ですが、高等女学校に準じた、文部省の認定を得るために具体的には、どのようなことをしたのでしょうか?
薙刀や弓術を授業や課外活動に取り入れたことです。
当時、青山女学院では武術は精神修養という面から学校教育に相応しいと考えられていたからです。

──てっきり「いけ花」や「茶の湯」を授業に取り入れたため、が答えかと思っていました!
青山女学院では直接的には「いけ花」や「茶の湯」で文部省の認可を得たということはないようです。
しかし1899(明治32)年~1903(明治36)年までのわずか4年間でしたが、「青山女学院」普通学部本科3年に「家事(女礼*を含む)」を、同科4年に「挿花(いけ花)」を各週1時間組み入れ、高等科(本科進学課程・2年制)では1年に「挿花(いけ花)」、2年に「茶道(茶の湯)」を、各週1時間組み入れています。普通学部本科4年や高等科に取り入れられたことから、この場合は花嫁修業としてであったかと思われます。しかし1904(明治37)年以後は、高等女学校の場合と同様に、随意科として、課外に置かれました。
明治期に「いけ花」や「茶の湯」を短期間でも学科目として設置したことは、「各種学校」としてではありましたが、非常に珍しいことで、ここからも「いけ花」や「茶の湯」の習得に関心の深い学校だったことがうかがえます。

女礼*:婦女諸礼の略で、いわゆる女子の「礼儀作法」のこと。
1892(明治25)年に女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)において教授内容が体系的に作られた。また1899(明治32)年の高等女学校令に伴って出された規則に「修身」という科目が規定され、その中で教えられた。
静謐の流儀

「学科教室と割烹教室」青山女学院代官山校舎手芸部 絵葉書より(1922(大正11)年9月11日ごろ撮影)
(青山学院資料センター所蔵)

 

──「いけ花」や「茶の湯」はまさに大和なでしこなイメージで、当時を知りませんが「青山女学院」にぴったりです。さっきの薙刀や弓術を授業や課外活動に取り入れたということを忘れてしまいそうです。

1904(明治37)年には体育会を設けて「薙刀体操」を開始。さらに弓術部も新設しました。1905(明治38)年からは青山女子手芸学校と合同で運動会を行い、そこでは、「薙刀体操」や「弓術」をはじめ兵式の種目が披露されました。

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青山女学院と手芸学校の総合秋季運動会の様子 (1907(明治40)年11月2日撮影)(写真提供:青山学院資料センター)

 

──「弓術」や「薙刀体操」ですか、体操と言いつつ、攻めてますね(大和なでしこは)

1904(明治37)年に勃発した日露戦争の影響もあったと思われます。
また、「専門学校入学者検定規程」の指定認可を得るため、「武道の精神を感得」する教育、ひいては日本人としての精神修養の教育を行っていることへのアピールでもあったと考えられます。
また、1907(明治40)年からは週1回の修身の授業に「高等女学校修身教科書」が用いられるようになりました。そして遂に1908(明治41)年5月、「専門学校入学者検定規程」の指定認可が得られたのです。

──苦節9年、「専門学校入学者検定規程」の指定認可を勝ち取ったのですね。
指定認可後、1909(明治42)年の創立35周年記念運動会を機に、運動会の規模は縮小され、その後は、武道云々ではなく、体育の成果発表に重点を置くものになりました。このことからも薙刀や弓術の披露が指定認可のためのアピールだったことがわかります。

──指定認可を受けるため、やむなしだったのでしょうね。
青山女学院が指定認可を受けたのは、キリスト教主義女学校において最初のことでした。
以後の青山女学院は、ふたたび英語の授業時間が多くなり、そのため裁縫の授業時間が他校に比べて少ないなど、多くの授業が元通りになり、認可以前の形態に戻されていきます。

──一件落着ですね。
そうとも言えません。
1937(昭和12)年には日中戦争が勃発し、
1942(昭和17)年、文部省の英語時間制限命令の通達を受け、英語の授業時間数を削ることを余儀なくされます。

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──「訓令12号」発令中でも英語の授業を守ってきた青山学院なのに、なぜ……はっ、1942年と言えば太平洋戦争勃発の翌年ですね。
その影響が大きいでしょう。
1941(昭和16)年4月には、家事専修科(本科進学課程)が新設されました。1年間で良き花嫁を育成するという時代の要請に応えての設置であったと言われています。いけ花(小原流)、茶の湯(表千家)は正課として置かれ、宣教師館ロビーに畳を敷き、4箇所に炉を切り、茶の湯の教室にしました。これは、日本人女性としての修養を行っているとのアピールであったと考えられます。しかし、1943年度の入学者を最後に、この科は廃止されました。戦況の悪化によるものと思われます。

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青山学院女子専門部学則(1941(昭和16)年2月改正)の中に家事専修科の項目が見られる。授業時間の中に茶道2時間、活花2時間の記載も(写真提供:青山学院資料センター)

 

──いけ花や茶の湯は戦争が影響していたり、法律が関係したりと、時代によって扱われ方が変わりますね。

もともとは、遊芸としてある一方で世間一般に、いけ花、茶の湯は嫁入り前の娘が嗜むものとしての支持があり、多くの学校では放課後、課外活動として希望者に教えるものでした。19世紀初期の東京、青山界隈では、いけ花が盛んに行われており、当時は、いけ花、茶の湯、礼儀作法、薙刀、弓術は、現代とは比べものにならないくらい多くの人が携わっているという状況でした。また女性だけでなく、男性の嗜み、修養としてもありました。

 

──教えてくれる先生もたくさんいたという事ですね?
その通りです。
次回は、青山学院の黎明期、いけ花や茶の湯の視点から注目すべき人達について取り上げてみましょう。

──お願いします!

参考文献
小林善帆『「花」の成立と展開』和泉書院 2007年
気賀健生『本多庸一 信仰と生涯』教文館 2012年
小林善帆「近代日本のキリスト教主義女学校と精神修養 ―いけ花・茶の湯・礼儀作法・武道との相関を通して」上村敏文・笠谷和比古編『日本の近代化とプロテスタンティズム』教文館 2013年
小林善帆「明治中期の女子教育といけ花、茶の湯、礼儀作法 ―遊芸との関わりを通して」『日本研究』第64集 国際日本文化研究センター紀要 2022年
小林善帆「満洲都市部の女性と文化教育 ―修養としてのいけ花、茶の湯、礼儀作法―」劉建輝編『満洲という遺産 その経験と教訓』ミネルヴァ書房 2022年
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