Column コラム

インバウンド・ツーリズム〈3〉観光の語源と初期のインバウンド政策

青山学院大学社会情報学部教授

長橋 透

観光の語源

観光という言葉には、平和で明るく楽しいイメージがあります。しかし、この観光の語源をひも解くと、正反対の意味をもっていたことが知られています。1856(安政3)年、長崎奉行の永井尚志は中国の『易経』の中の「觀國之光、利用賓于王」から観光という言葉をとり洋式軍艦に名付けた、と言われています。軍艦「観光丸」の誕生です(写真1)。この言葉の前段は「国の光を観る」と読みますが、ここでいう国の光とはその国の「優れたところ」を意味しており、これを観たり観せたりするという意味になります。当時、列強によるアジア進出が盛んであり、日本にも1853(嘉永6)年にペリーが浦賀に来航します。日本は開国を迫られ、他のアジア諸国のように列強の勢力下におかれる恐れがありました。そこで日本は、唯一交易のあったオランダから寄贈された西洋式の軍艦に「観光」の名を付け、「日本には西洋と同じ優れた軍艦があるぞ。攻められるものなら攻めてみろ」と国威をこの観光という言葉に託したのです。もちろんいまでは国の光は国威ではなく、その国や地域に存在する優れた観光資源を指すものと理解されています。

観光丸
写真1 観光丸(復元船) 長崎のハウステンボスにて著者撮影

 

日本初のパスポート

1854(安政元)年の日米和親条約や1858(安政5)年の日米修好通商条約によって横浜などに港が開かれ、多くの外国人が日本に入ってきました。これと同時に、1866(慶応2)年には幕府の許可を得た者の海外渡航が認められるようになります。さっそく海外に飛び出して行った、いや正確には外国のプロモーターに連れ出されて行った民間人は曲芸団の一座でした。外務省の外交史料館には当時のパスポートが3枚残されています。隅田川浪五郎という人物の人相の特徴が書かれていることや滞在国に旅行者の身の安全を依頼するなど、現在のパスポートとほぼ同じ内容であることがわかります。

 

インバウンドをめぐるできごと

1868(慶応4)年には築地の外国人居留地に、外国人専用の初めての洋式ホテル「築地ホテル館」が建設されました。建設を請け負ったのは二代清水喜助。後の清水建設です。客室は103室で、欧米の最上級ホテルに匹敵すると言われていたようです。その後、日光の金谷カテッジインや箱根の富士屋ホテルなどが開業し始め、1890(明治23)年には帝国ホテルが開業しました。

明治時代から昭和の戦前までは、大きく括ると、政府によるインバウンド環境整備の時代と言えるでしょう。明治初期には上海やサンフランシスコとの間に定期航路が開設され、日本に居留する外国人も増えてきました。また1869(明治2)年にはアメリカ横断鉄道とスエズ運河が開通したことによって、世界一周旅行が可能になり、1872(明治5)年にはイギリスのトーマス・クックが企画した初の世界一周旅行のコロラド号が横浜に寄港します。トーマス・クックは近代旅行業の創始者と言われていますが、瀬戸内海を「ヨーロッパの湖のよいところを一つに集めたように美しい景観」と褒めたたえ、日本の牛肉に満足し、さらに土産として人力車を2台購入したそうです。産業革命の国から来たトーマス・クックにとって、人間が人を運んでいるというのがよほど珍しかったのかもしれませんね。

さて外国からの賓客も多く来日するようになり、1879(明治12)年にはアメリカ南北戦争の北軍将軍でその後、第18代大統領にもなったユリシーズ・S・グラント氏が来日します。上野公園には、そのときの植樹碑があります。このような賓客に対する接遇の向上を図るために、1893(明治26)年に喜賓会が設立されます。その目的は、1.旅行斡旋、2.外客接遇、そして3.対外宣伝(海外への日本の紹介)でした。この喜賓会は、1912(明治45)年に鉄道院を中心に設立されたジャパン・ツーリスト・ビューローへと引き継がれます。このジャパン・ツーリスト・ビューローはその頭文字からもわかるように、現在の旅行会社JTBの前身です。

 

インバウンド政策への期待

1916(大正5)年には、大隈内閣のもと国際観光事業を初めて政策として取り上げる答申が出されました。外客の誘致(インバウンド促進)のための官民による調査機関の設立、ホテルや観光関連施設の整備、さらに国立公園の制定が必要という内容でしたが、内閣が倒れたため実現しませんでした。しかし1930(昭和5)年には、ついに国際観光を専門に扱う初めての行政機関として国際観光局が設置されるまでになりました。その後、太平洋戦争に入り観光どころではなくなってしまいましたが、終戦後の1946(昭和21)年には戦後復興のための外貨獲得にはインバウンド促進が必要との建議が帝国議会に出されます。このように、インバウンドの経済効果に対する期待は常に存在していましたが、それが陽の目を見るのはこの連載の第1回に出てきた小泉内閣まで待たなければならないのです。

最後に余談ですが、グラント氏が来日した1879年は、青山学院の源流となる三つの学校の一つ、「美會神学校」が創立された年です。

「青山学報」262号(2017年12月発行)より転載

 

【次回へ続く】