Column コラム

運河を行く小さな旅――リージェンツ・カナル【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第21回】

青山学院大学名誉教授

佐久間 康夫

 

ナローボートでゆったりと

 

今回はロンドン市内を巡る、ちょっと珍しい船の旅にお誘いします。まずは川岸の波止場へ。最寄りのパディントン駅で下車してみましょう。

パディントンは1838年の開業というターミナル駅。子どもの本の傑作『くまのパディントン』の主人公のクマは、この駅でスーツケースに座っているところを発見されます。ペルーから密航してやって来たクマは、駅名にちなんでパディントンと命名され、ユーモラスな騒動を次々に巻き起こします。駅の構内にはそのパディントンの像がありますが、渋谷のハチ公を思い出して、思わず笑いがこみ上げるところです。設置された場所の案配が悪いのか、ハチ公のようには待ち合わせ場所として活用されていないようです。

スーツケースに腰かけるパディントン像。パディントン駅の構内で

 

パディントン駅から外に出て、ロンドン市内にしては落ち着いた雰囲気の漂う閑静な街並みをぶらぶら歩いていると、10分たらずでリトル・ヴェニスという看板に出くわします。町名はイタリアの水の都ヴェニスにあやかったのでしょう。ここが1812年に着工し、1820年に完成した「リージェンツ・カナル」という運河の船着き場です。

リトル・ヴェニスの船着き場を示す看板

 

ロンドンの運河の旅ではナローボートと呼ばれる文字通り幅の狭い船に乗ります。乗船口の段々をデッキに降りていくと、気づくのは空気がずいぶんひんやりしていること。遊覧船の営業は、イギリスの観光施設が往々にしてそうであるように、大体4月から11月初めにかけて。冬は寒くてとても船旅を楽しむことなどできないでしょうね。

ナローボート同士がすれ違うのも大変そう。水位が道路に対してかなり低いのが分かります

 

水面をなめるようにスルスルっと出発した船は、清冽(せいれつ)な空気を切って静かに進みます。運河は陸地を深く掘って造られた人工的な水路です。木陰に入ると日差しが急にさえぎられ、一瞬、異界に迷い込んだような胸騒ぎを覚えます。運河の旅は目的地まで最短距離を行くわけではなく、時間がかかります。今の私たちの感覚からすれば、非効率で不便でもあるのですが、ナローボートにのんびりと身をゆだねていると、そうした時間の無駄がかえって贅沢に感じられます。

 

リージェンツ・カナルの成り立ち

 

運河には要所に「ロック」(lock)が設けられています。日本語では閘門(こうもん)と呼びます。なじみのない用語ですが、これは2か所の水門の間に船舶を停泊させて、水位を上下に調節することで船の通行を可能にする大掛かりな装置のことです。運河によって通行可能なボートの全長、全幅、喫水などが定められています。

カムデン・ロックの光景。奥と手前で水面の高さが違います

 

リージェンツ・カナルには、12地点にロックが設けられていて、ナローボートもこのロックを通れるように、全幅が約4メートル以下に制限されています。逆に船の全長は20メートルほどでも大丈夫なので、ひょろ長い見た目がまことにユーモラス。しかもどことなくエキゾチックな装飾や塗装が施されているせいで人目を惹きます。

リージェンツ・カナルの一コマ。ナローボートがたくさん係留されています

 

長さおよそ14キロメートルのリージェンツ・カナルは、リージェンツ・パークの北辺に沿って時計回りに進みます。リージェンツ・パークは元もとヘンリー八世が鹿狩りの猟場として囲い込んだ王領で、公園の多いロンドンの中でも最大の191ヘクタールという規模を誇っています。

広大なリージェンツ・パーク。ロンドン市民の憩いの場のひとつ

 

リージェンツ・パーク内の池。ボーティング・レイク(船遊びの池)と呼ばれています

 

園内には、その名の通り野外で芝居の公演を行う「オープン・エア劇場」があります。1826年設立という古い歴史を持つ「ロンドン動物園」を右手に見て、リージェンツ・カナルはカムデン・タウンへと続き、さらにキングズ・クロス駅近くを通って、ついにはテムズ川とつながります。

国土の四分の三を山が占める日本とは正反対に、イングランドは大部分が低地です。河床勾配がなだらかで、川の流れがゆったりしているため、川と川を結ぶ運河を張り巡らせれば、ロンドンと中部や北部イングランドの工業地帯を結びつけることができます。こうしてリージェンツ・カナルをはじめとする多くの運河が建設されたのです。

 

イギリスの運河の今昔

 

劇作家ウィリアム・シェイクスピアの生誕地は中部イングランドのウォリックシャーにあるストラットフォード・アポン・エイヴォンです。ずいぶん長たらしい地名と思われるでしょうが、これはストラットフォードという地名がイギリス中に多く存在することから、〈エイヴォン川のストラットフォード〉と称して、他の同名の地域と区別したためです。

ストラットフォードの「フォード」は元来「川の浅瀬」という意味で、「ストラット」は語源をたどると「ストリート」と同じで「道路」を意味します。要するに「川を渡る道」といった意味ですので、ならば国中に同様の地名があることもうなずけます。中世以来の大学町オクスフォードの地名も、上の伝で「川を渡る牛」を表すことになります。実際、オクスフォード市の紋章には、川の浅瀬と思しき3本の描線の上に牛の絵が描かれています。

イギリスに運河が初めて造られたのは18世紀後半で、荷馬車による運送に比べて輸送費がはるかに安上がりで済むという理由から、水運業が盛んになりました。道路事情が劣悪だった時代には、木材、石炭、建設資材、食料など、船は荷馬車の50倍もの重さの積み荷を運ぶことができたそうです。運河の建設は数千キロメートルに及んだといいます。

産業革命がイギリスに起こった際、大きな役割を果たしたのが、この運河の建設であったといわれます。しかし皮肉なことに、産業革命が生み出した蒸気機関が鉄道に利用されたことで、やがて運河は運搬の足としての機能を、急速に広がった鉄道網に奪われてしまいます。イギリスが鉄道発祥の国とたたえられる一方で、運河は衰退の一途をたどったのです。

往時は、1頭の馬で1艘の船を引いていました。乗船員が馬を引くための専用道路が川沿いに造られていて、これは「トウパス」(引き船道)と呼ばれます。20世紀に入ると、ナローボートの動力も蒸気機関やディーゼル機関に取って代わられましたが、馬が貨物船をのんびりと引いていた昔日に思いをはせると、なんとものどかな風景が目に浮かんできます。今日、そのトウパスも市民の格別な散歩道になっています。

かつて馬が船を引いていたトウパスでは、サイクリングを楽しむ市民の姿も

 

船を降りてぶらぶら歩き

 

現在でもイギリスには3万艘を超えるナローボートが存在するといわれます。観光客には遊覧船やレストランの用途の方がなじみ深いですが、船を住居にして生活する例も多いようです。住居も仕事も暮らしのすべての拠点をクルマにする「バンライフ」という発想が、近年世界的に流行しています。イギリス流ナローボートにも、一つの場所に縛られない自由なライフスタイルへの憧れを掻き立てるものがあるのかもしれません。

さあ、そろそろカムデン・ロックで下船してみましょう。

カムデン・タウンの道路標識

 

カムデン・タウンという地域は、1830年代に起こった鉄道の敷設ブームのあおりを受けて、景色が激変、以前の田園地帯の面影を失ったようです。小説家のチャールズ・ディケンズが靴墨工場で働かされるなど不幸な少年時代を過ごしたのが、ちょうどこの町です。ディケンズは『デイヴィッド・コパーフィールド』などの小説で、当時のロンドンの甚だしい変貌ぶりを活写しています。中でもこのあたりは最も貧しい地域になり果てていたのです。

19世紀後半から20世紀にかけては、次第にヨーロッパの各地から移民や若い芸術家が集まってきました。1970年代以降には、建ち並んでいた倉庫が改修され、カムデン・ロックという名前で露天市が立つようになり、これがまた評判を呼んで、一気に若者や観光客を引き寄せる町へとのし上がったのです。下町風の味わいは今も色濃く残っていて、マーケット巡りが大好きな私にはこたえられない町です。

若者に人気のカムデン・タウンはいたるところにマーケットが

 

カムデン・ロック付近の露天市

 

テムズ川の上流に位置するウィンザーまで足を延ばしてみても、同じような型のナローボートに何艘も出会います。ウィンザーといえばイギリス王室の居住邸宅のひとつ、ウィンザー城のある町です。ウィンザーは鉄道駅から少し歩くだけで、巨大な城壁が目に留まるほど、こじんまりした城下町です。ところが高台にある城から眺めると、地平線が見渡せるほど緑地が一帯に広がっているので、町の醸し出す親密な雰囲気との落差に驚かされます。

テムズ川上流のウィンザーにもナローボートが

 

ウィンザー城内の聖ジョージ礼拝堂には、2022年に他界されたエリザベス女王が永眠しています。エリザベス女王は亡くなる直前の在位70周年のお祝い動画でパディントンと共演する(!)というお茶目な一面を持ち合わせておられましたね。ハンドバッグからマーマレード・サンドイッチを取り出す女王の笑顔が忘れられません。

[Photo:佐久間康夫]

 

紹介した本
マイケル・ボンド著、松岡享子訳『くまのパディントン』(福音館書店 1967)
チャールズ・ディケンズ著、石塚裕子訳『デイヴィッド・コパーフィールド』全5冊(岩波文庫 2002-03)

 

 

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