路上で見つけた面白いイギリス【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第26回】
2024/02/16
イギリスのクルマは右ハンドルの左側通行ですので、多少の法規の違いはあれ、日本とほぼ同じ感覚で運転することができます。のどかな田園や風格ある街並みを走り抜ける喜びは、何ものにも代えがたい経験になりました。
イギリスにはいわゆる自動車教習所が存在しません。新規に免許を取る際は、教官から個人指導で教わる形です。約18cm四方のL字マークをクルマに貼って、いきなり路上教習に出ます。
日本の常識からは、信じられないでしょう。Lは“learner”の略語。仮免許で運転を習っているクルマを示すサインです。
日本の運転免許を持っていた私は、DVLA (運転免許証交付局)に申請すると、簡単な手続きでイギリスの免許に切り替えてもらえました。驚いたのは、免許に記された“valid until”に続く数字が30年以上も先の自分の誕生日になっていたこと。つまり有効期間が30年を超えているのです。もしかしたら自分の寿命が記入されているんじゃないか、と冷や汗が出ました。
専門としている演劇を観るため、私はロンドンによく出かけました。ソワレ(夜の公演)観劇後に自宅のあるケンブリッジまで電車で帰ろうとすると、終電ギリギリになってしまうので、どうにかクルマで行けないものかと思案。ケンブリッジとロンドンの距離は100km程ですので、高速道路M11を利用して通うことにしました。
40軒以上の劇場が密集するウェスト・エンドの演劇街は大都会ロンドンのど真ん中です。劇場周辺に駐車するのは容易ではなかろうと、はなから観念していました。そこで目をつけたのが、旧市街のザ・シティ内に1982年に完成したバービカン・センターという文化施設でした。ここは高層住宅群からコンサート・ホール、美術館、劇場にいたるまで、まるで一つのコミュニティを造成したような再開発区域です。
バービカン劇場は名にし負うロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのロンドンでの本拠地である上、コンサート・ホールの方ではロンドン交響楽団などの名門オーケストラが盛んに演奏会を開くので、大の音楽好きの私にはなおさら好都合でした。24時間営業の地下駐車場にクルマを停めて、後は地下鉄を使えば、ウェスト・エンドの劇場街にくりだすにも便利なことこの上なし、と一人悦に入ったものでした。
初めてロンドンにクルマで乗り入れた時は、不案内な土地ゆえ、方向を見失い、肝心のバービカン・センターの駐車場に入れず、周囲をぐるぐる回ってしまう有り様でした。今であれば、カーナビという文明の利器がありますから、ずっと楽に運転できたかもしれません。しかし、最初に苦労したおかげで、迷路のようなロンドンの街路もスイスイ運転できるようになった、と負けおしみしきりです。
交通標識については、常識に照らせば類推が利きますが、それでも戸惑いを隠せない時があります。一例をあげるなら、“subway”という語は、イギリスでは歩行者用の地下横断通路を指す言葉です。アメリカ英語でいう地下鉄のことではありません。地下鉄の駅と勘違いして、降りて行っても、道路の反対側に出てしまうだけです。
つい笑いを禁じえない標識に出会うことも多々あります。描かれた動物の佇まいはどれもうまいなあと感じます。馬の絵はよく見ると、人が乗っているではないですか! 公道で人が騎乗した馬に遭遇する場面があるわけですね。さすがに狩猟民族の末裔が住まう国です。鹿の標識はいかにも勢いよく鹿が飛び出してきそうな躍動感が見事。とはいえ、そんな危険に出くわした日には、絵柄をほめている場合ではありません。急ブレーキに注意です。
最高傑作は、なんといってもカエルの絵。よくよくご覧ください。こんな巨大なカエルのご面相が突如路上に現れて、ギョッとしない人はいないでしょう。まるで蝦蟇(がま)の妖術使い、自来也(じらいや)がドロドロドロ〜と出てきそうで、かえってハンドルを握る両の手がふるえてしまいそうです。
何が面白いといって、標識に巧まざるユーモアが漂っていることです。このカエルの標識を見て私が想起するのは、風変わりなおかしさに満ちたケネス・グレアムの『たのしい川べ』(1908)です。イギリスの牧歌的世界を背景に、モグラ、ネズミ、アナグマ、ヒキガエルといった動物が擬人化されて登場するファンタジー文学の名作です。
立派なお屋敷に住む、おしゃべりなヒキガエルは、わがままですが憎めないキャラクターの持ち主。ヒキガエルは、ある時、初めて見たクルマに夢中になり、思わず盗んで乗り回したため、捕まって獄につながれます。女性に変装してまんまと脱け出すも、性懲りもなくクルマを暴走させたあげく、空中に放り出されてしまいます。この愉快な冒険のくだりなど、何度読んでも引き込まれます。
ちなみに『クマのプーさん』で有名な作家A・A・ミルンはこの物語を愛するあまり、ヒキガエルを主役にしてミュージカル風の舞台版『ヒキガエル館のヒキガエル』(1929)を作りました。今日まで人気を博してきた演目ですが、以前に観た上演でも、俳優がリアルな着ぐるみを着て演じたヒキガエル役は、客席に笑いを生んでいました。
登場する動物たちの住みかはどれも、テムズ川上流の地域で多感な幼少期を送ったグレアムの心象風景の表れといわれます。こうした自然の情景は、作者にとって「心の平和のよりどころ」(児童文学者・石井桃子氏の解説より)だったそうです。読者のみなさんにも、きっとそんな心のふるさとがあることと思います。だからこそ、『たのしい川べ』を読むと、どこか懐かしい気持ちに誘われるのでしょう。
イギリスの街角を彩るものというと、ハンギング・フラワー・バスケットにまず指を折ります。そこかしこに花籠が飾られている光景には、心打たれるものがあります。どうやって水やりをするのか心配になるところですが、大きなタンクを背負った管理人が回ってきて、長いホースでうまいこと水をあげています。イギリスはガーデニングの国といわれますが、こんなところにもその美点が生かされているのですね。
また、街でタクシーを見かけると、ロンドンに来たな、という実感が湧いてきます。2023年の夏にはULEZ(超低排出ゾーン)がロンドン全域に拡大され、排出ガス規制がますます厳しくなりました。タクシー業界にもEVシフトの波は押し寄せています。
とはいえ、後ろ向きにも座れ、5名乗車が可能な車室のロンドン・タクシーは、半世紀以上も黒い箱型のデザインを踏襲して、首都のアイコンとなりおおせています。通称ブラックキャブと呼ばれますが、中にはボディ全体を広告でラッピングした派手な車両もあって、目を奪われます。このように個性的なタクシーが街中をたくさん走ることで、人々の心に都市の風貌が刻まれていくのです。
さらに街歩きの楽しみを作ってくれるのはブルー・プラークです。これは歴史的人物の住居など、さまざまな史跡の在りかを教えてくれる案内板のことです。元々19世紀半ばに始まった制度だそうですが、現在ではイングリッシュ・ヘリテージという組織が運営して、イギリス全土に広がる勢いです。ぼんやりと歩いていても、壁に掛かっている直径50cmほどの青い円板が目に留まることがあります。おや、この人がこんな所に住んでいたのか、と驚くこともしばしば。刻印された長い歴史がふと身近に感じられる一瞬です。
さてご紹介してきた面白いイギリス。真打はテレフォン・ボックスです。ここ2、30年で公衆電話は一気に廃れました。公共物や芸術品などを破壊する犯罪––英語でヴァンダリズム(vandalism)といいます––のせいで、設置されていても使えない電話機が目立って増えました。
そこで古い物好きのイギリス人らしさが発揮されたのが、掲載の写真です。
ここまでやるか、と呆れる一歩手前くらい(笑)。現代美術でいうインスタレーション、つまりオブジェを屋外に置いて、空間自体を芸術作品として鑑賞してもらおうという発想ですね。転んでもただでは起きない、あるいはもったいないから何かに再利用できないか……。どう思ったのか定かではありませんが、赤いテレフォン・ボックスがイギリス名物であることを逆手にとった妙案です。
[Photo: 佐久間康夫、本屋敷佳那]
卒業生の方から佐久間先生の元に素敵なお写真が届きましたので、ご紹介いたします!(アオガクプラス編集部)