Column コラム

ブリテン島の1000年の砦【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第31回】

青山学院大学名誉教授

佐久間 康夫

 

城塞余話

「イギリス人にとって家は城に等しいもの」(An Englishman’s house is his castle.)。この含蓄に富んだ名言に私が初めて触れたのは、50年も前になりますが、青山学院創立100周年の頃。学生時代に受講した倫理学の講義の折でした。個人の生活や信念は誰にも侵されない神聖な領分である、といった意味にも取れます。この言葉は干天の慈雨さながら、若い私の心に染みこんでいきました。

教えてくださったのは講師の加藤将之先生。ドイツ観念論が専門の哲学者で、実存短歌を旗印とする歌人としても知られていました。ご高齢で温顔の先生の滋味豊かな名調子を一言も聞き逃すまいと、毎週楽しみにしていたほど。私の教わった翌年に先生は他界され、心に穴のあいたような寂しさを覚えました。

さて、上のフレーズをOEDで調べてみると、文献初出は1868年と出ています。ただし類似した表現は16世紀にさかのぼってさまざまな書物に見られるので、ある程度一般に広まっていた発想が、ことわざのように流布していったのでしょう。ちなみにイギリス英語の“castle” の発音は「カースル」と聞こえ、アメリカ英語の「キャッスル」とは異なります。

カースルは便宜上「城」と訳しましたが、ラテン語から英語への借入語で、西暦1000年頃に「村」という意味で用いられるようになりました。同じ頃、「(敵から守るための)大きな建物」というフランス語由来の意味も生まれています。そのため今でも豪邸やカントリーハウスを指して、この語が使われることがあるわけです。

イギリスの城は一体に防御と攻撃という機能重視で、実用本位の精神がはっきり看取できます。写真を載せたウィンザー・カースルが好例ですが、戦いという目的に専念している雰囲気も感じられます。

ウィンザー・カースル。ウィリアム征服王が築いてから、1000年の歴史を誇る王室の離宮

 

工業製品に備わる機能美に通じるといえるかもしれません。もっとも芸術的・美的な装飾性という点では、私たちになじみの深い日本の名城の方に軍配を上げたくもなりますね。

多くの国王が居室とした建物は庭園を囲んで建っています

 

よみがえる中世−マウントフィチェット

ロンドンのリヴァプール・ストリート・ステーションからケンブリッジ方面へ北上、7つ目のスタンステッド・マウントフィチェットという長い名前の駅まで、40分ほど電車で揺られて行きましょう。実は、この地には紀元前から集落があったといいます。後にブリテン島へ侵攻してきたローマ人やヴァイキングも居留地としたそうです。交通面でも軍事面でも要衝といえる土地だったのでしょう。

マウントフィチェットが歴史の表舞台へ登場するのは、1066年にノルマンディー公ウィリアムが王位継承権を主張して、イングランド本国へ侵入し、国王に即位した《ノルマン人の征服》という歴史的事件を待ってからです。征服王とも称されるウィリアム一世の一族が建てたのが、マウントフィチェット・カースルでした。

マウントフィチェット・カースル

 

17世紀半ばにピューリタン革命が起きた際には、王党派の根城となるも、クロムウェルの率いる議会軍を相手にあえなく敗北。その後は300年にわたり荒れ果てたままでした。考古学的な知見を結集して復元作業が始まったのは1970年代になってのこと。ようやく公開されたのは1985年でした。

城郭と中庭を備えた典型的なノルマン様式です。カースルと呼ばれてはいますが、木造の塀のような外囲いを見る限り、私たちの目には城という大げさな訳語よりも、砦の方が語感的にしっくりくるようです。

築山(つきやま)の周囲に、外囲いが作られた城郭

 

広々とした敷地内には、武器、生活用品、刑罰の道具、さらには処刑された罪人の人形まで展示されています。また羊やアヒルや孔雀などの動物も放し飼いにされ、ノルマン人の村の暮らしぶりをまるでタイムカプセルのように見せてくれます。1000年も昔の世界へと誘われる思いです。

中庭の物見櫓(ものみやぐら)

 

中庭に陳列された投石機。城のような建築物へ向かって石などを投てきする攻城兵器

 

猛々しいノルマン人の城も今や子どもたちにとって格好の遊び場に

 

天然の要害−ドーバー

紀元前55年にブリテン島へ侵攻したジュリアス・シーザーが、切り立った絶壁を見てドーバーへの上陸をあきらめた、という逸話があります。ドーバーといえばシーザーをも拒んだ自然の要害(ようがい)、その白い崖で有名です。そもそもラテン語で白い土地を意味するブリテン島の古称「アルビオン」とは、ここドーバーの白亜質の崖に由来しています。

ドーバーの白い崖。崖の高さはところにより100mにも達します

 

シェイクスピアの悲劇『リア王』は紀元前のブリテン王国を舞台にした伝説が物語の骨格をなしています。第4幕では、両の目をつぶされたグロスター伯がドーバーの断崖から身を投じようとする衝撃的な場面が描かれます。海側から見て左側の崖が現地では「シェイクスピアの断崖」と呼ばれているそうです。

グロスター伯の息子エドガーは父への背信を疑われ、今や狂人に身をやつして流浪の身の上。身投げしようとする無惨な姿の父に出会った彼は、自殺を手助けするふりをします。それは父親に生きる気力を回復させようというエドガーなりの試みでした。あくまで芝居の話とはいえ、残酷な仕打ちを受けたグロスター伯が飛び降りようとした絶壁はどのあたりなのかなあ、と思わず見渡してしまいます。

ケント州のドーバー海峡に面して。白亜の絶壁が数kmにわたり連なります

 

ドーバー・カースルの城内には、ローマ帝国によって建てられた、世界的にも珍しい灯台が残存しています。

右手に見えるのがローマ時代に作られた灯台。左奥にドーバー・カースルのキープ(天守)

 

イングランドに残るローマ時代の遺跡の中で最も保存状態がいいのだそうです。1066年、イングランドに上陸してヘイスティングスの戦いで勝利をおさめたウィリアム征服王は、戴冠式を挙行すべくウェストミンスター寺院へ向かう途上、ドーバーに立ち寄ったとされます。

キープから城内を見下ろして

 

ドーバーに今日見るような城が作られたのは12世紀のヘンリー二世の時代。続くジョン王、ヘンリー三世の治世にかけて、戦いが繰り返されるたびに城は増築を重ね、どんどん大きくなりました。時代が下って18世紀には、ナポレオン戦争に対処するため、大規模に守りを固め、地下に巨大なトンネルまで作られました。

第2次世界大戦の開戦後も、この地下トンネルは有効に活用されました。1940年、英仏連合軍がフランス北部の町ダンケルクから、ドイツ軍の猛攻を受けながら決死の撤退を遂行したダイナモ作戦。その大作戦の指令はこのトンネルから出されました。

危機にあっても不屈の精神で立ち向かうという意味で、イギリス人が好んで使うダンケルク魂(Dunkirk spirit)という表現は、ドーバー・カースルと切っても切れない縁で結ばれています。ドーバーの白い崖はイギリスの戦争の歴史の中で、常に最前線に屹立(きつりつ)していたのです。

ドーバーとフランスのカレーの間にあるドーバー海峡。対岸までの距離はわずか34km。
好天に恵まれれば、フランスの海岸線が見えるはずなのに(涙)


 

[Photo: 佐久間康夫]

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