【最終回】美しき陰翳(いんえい)第5回天賦の異文化コミュニケーター森山栄之助・後編
2021/02/17
幕末の日本に生まれた森山栄之助(もりやま えいのすけ:1820-1872)。一介のオランダ通詞にすぎなかった森山が変革期のエネルギーに絡めとられるようにして表舞台に立ち、やがて自らの人生がそして運命が翻弄されていくことになる。桁外れの責務を負うことになる森山について、大学文学部英米文学科教授田中深雪先生にお話を伺った。今回はその後編をお送りする。(前編はこちらから)
──オランダ語のみならず、英語も習得した(しかもネイティブスピーカーから英語を習った)森山栄之助。トリリンガルなんて、今だってすごいのに当時は貴重な存在だったのではないでしょうか
そうですね。森山は次第にその語学力を生かし、ロシアやアメリカなど西洋諸国との外交の場で活躍することになります。
──あれれっ、一介のオランダ語の通訳者に過ぎなかったのに、なぜアメリカやロシアとの外交の場に躍り出ることになっちゃったのですか?
ちょっと驚いてしまいますよね。
もちろん森山の能力が高く評価されたこともありますが、日本を取り巻く世界情勢の変化も大きな理由だったと思われます。当時、日本各地の沿岸には西洋からの船が次々に現れ、幕府に対して港を開くよう要求してきました。
そしてついに1853年には、アメリカ大統領の命を受けたマシュー・ペリー(1794-1858)が巨大な艦隊を率いて浦賀まで侵入してきました。
実は、幕府は事前にオランダ通詞たちを通じてオランダ人から「アメリカから使節団がくる」と警告をされていたのですが、危険感を共有できずグズグズしているうちに巨大な軍艦が4隻もやってきたようなのです。
──幕府が事前に「黒船がくること」を知っていたなんて驚きです(わたしはそれを初めて知りました)!!
事前に知っていたのは、上層部だけでした。そのため、黒船の威圧的な姿を目の当たりにした一般の人々は大きな衝撃を受け、幕府は厳しい対応を迫られることになりました。
──圧がすごいですよね、確かに……実際にアメリカの人たちが来ちゃったら、乗組員と話せる人を探しますよね、幕府的には
そうですね。しかし浦賀にペリーがやってきていた頃、長崎の港にもロシアの皇帝の命を受けてエフィーミー・プチャーチン(1803-1883)がやってきていました。
そこで森山は、プチャーチンと日本側の代表との通訳を務めることになったのです。
──まっ、まさか森山はロシア語で通訳を!!(おそロシア~)
いえ、実際にはオランダ語で話し合いをしていたようです。
当時のロシアの記録に森山について書かれたものが残っています。
その記録の中で、森山は英語はごくわずかにしか話さないが、聞く方はほとんどわかること、フランス語も多少習っていることや、さらにオランダ語が達者なことなどが書かれています。今で言うならば、英語のリスニング能力は長けていたけれども、話す方はまだまだだったということになるでしょうか。
──才能と向学心に満ち満ちている森山栄之助ってペリーさんに会ってるんですか?(※唐突に話を変えてすみません。)浦賀にいるペリーさんと長崎でプチャーチンさんのお相手をしている森山。当時はリモート会議とかできないですし、同時期に日本にいながらお互い知らずじまいだったのでしょうか?
2人は会っています。“会う”と言っても、それは緊迫した場面に居合わせたという表現の方が近いかもしれません。
ロシアとの仕事を終えた森山は、次の年に再びやってきたペリーとの折衝の際の主任通訳に命ぜられます。
そこでは圧倒的な武力を誇示しながら開国を迫る米国と、なんとかそれを押しとどめたい幕府との緊迫した話し合いが続きました。
──うわわっ、聞いているだけで緊張してきました。緊張しすぎて十分に力が発揮できないってこともよくあると思うのですが、森山はどうだったのでしょうか?
当時のことを記したアメリカの記録にも森山についての記述が残っています。
「彼はほかの通訳がいらなくなるほど英語が達者で、彼の教養の深さ育ちの良さが好感を与えた」
と書かれています。
傍から見れば、森山が難なく通訳をこなしているように見えたのかもしれませんが、外交交渉の場は、異文化が激突する場でもあります。
対峙する両国の間に入って通訳を行う森山にとっては、常に緊張を強いられるような日々だったのではないかと思います。
結局、日米和親条約(1854年)が締結され、日本はこれまでの政策を転換し、鎖国体制は終わりを迎えました。
──歴史の転換期、いえ、転換した正にその場面にいたなんて。しかも自らの語学力を使って……わたしが江戸時代の人だったら、森山から英語を習ってみたいです!
江戸時代にもそう思った人がいたようですよ。
実は、森山は一時期、江戸で英学塾を開いていました。森山は仕事が忙しく、なかなか教えることはできなかったようなのですが、それでもそこには日本各地から英語を学びたいという意志を持つ優秀な若者が集まってきていました。門下生の一人に、青山学院にもゆかりの深い津田仙(1837-1908)もいました。津田梅子の父として有名ですが、仙は日本の農業の近代化に大きな役割を果たします。本学の創設時に、外国人宣教師たちと共に困難な時代を切り開いた功労者でもあります。(詳しくはこちらをご参照ください津田梅子の父、津田仙と青山学院)
──日米和親条約(1854年)の締結に関わり、江戸でも英語の塾を開いていた森山。その後の人生を教えてください。
その後も、アメリカの総領事として来日したタウンゼント・ハリスの応接や日米修好通商条約(1858年)のための文書の翻訳業務、外交に伴う種々の通訳業務、交渉のまとめ役のような仕事までを精力的にこなしていきました。
幕末の外交の場で目覚ましい活躍をした森山ですが、限界がありました。
条約の締結に際して、可能な限り慎重に対応をしたにもかかわらず、訳語に誤りがあったことが後になって判明しました。しかも、この頃に締結された条約は日本にとっては不平等であったとの評価が下され、最前線で奮闘した森山の評価も下がることになります。現代では重要な条約の締結にあたっては、何人もの担当者で確認し、原文と訳語の齟齬がないか厳重に確認することができますが、当時は、森山以上に言葉に精通し、しかも外交事情に詳しい者は幕府にはおらず、ある意味どうしようもないことだったのかもしれません。
1868年、幕府は崩壊します。新しく成立した明治政府は、西洋からの技術や学問の積極的な導入をはかります。通詞たちのなかには、時代の波に乗り、新政府に雇われ新たな活路を見出し出世した者もいました。しかし森山は新政府に仕えることなく、明治4年にその生涯を閉じます。
──頑張ったのに、こてんぱんに責められる。しかも新時代にひっそりと亡くなるなんて、なんだか悲しいですね……最後に森山やオランダ通詞たちから何か学べることはありますか?
森山は生涯、言葉、文化、価値観の異なる人々と何とかコミュニケーションをはかるべく尽力し続けました。外交のように、両国の利害関係が生じる場では、激しい交渉と駆け引きが生じます。軍事力を盾に強引に話を進めようとする西洋諸国と幕府との間に立って、最大限の努力を続けたその姿勢は、評価されるべきだと思います。森山が当時直面したであろう困難さは、現代においても通訳者たちが直面しているものと相通じるものがあるように思えてなりません。
最後に、江戸時代には今回ご紹介した通詞たちの他にも多くの通詞たちがいました。なかには通詞という地位や外国語の知識を使って、悪事を働く者も少なからずいたようです。それだけが理由ではないのですが、総じて通詞に対する社会の評価は低く、取るに足らぬ舌人(ぜつじん。通訳者を示すが、読み書きができないという侮蔑的な意味を含んでいる)として貶められることもあります。しかし、通詞の存在そのものが影もなく忘れ去られてしまって良いとは思えません。現代のようにクリック一つで海外にアクセスすることができる時代からは想像もつかないほど不便な時代にあって、西洋からの難解な書物を読み解き、翻訳し、多くの人達に伝えようとした人々がいたこと、また異文化のコミュニケーターとして海外との折衝に尽力した人々がいたことは、もっと評価されても良いのではと思います。今回の連載を通じて少しでも多くの方に、通詞について関心を持って頂けたならばとても嬉しく思います。