Interview インタビュー あおやま すぴりっと

「命」に携わる開発型ベンチャー企業のプライド〈卒業生・河野 淳一さん〉

「微細加工技術」を活かして医療機器の開発製造に取り組んできた河野製作所。今や「クラウンジュン」ブランドは、医療業界では顕微鏡を用いる微小外科(マイクロサージャリー)分野における国内のパイオニアとして広く知られていますが、河野さんが代表に就任する頃の会社は、まさに風前の灯火でした。
 「家業は継がない」という思いがどう変化し、多くの賞を受賞されるほどの企業へと成長したのか。製品開発に徹底してこだわる姿勢はなぜ生まれたのか。高等部、大学と過ごした本学院での思い出も振り返りつつ、ニッチな分野(他社が進出していない市場分野)、小さなニーズに対応することで患者さんを救いたいという医療機器メーカーの信念を語っていただきました。

(2018年7月6日インタビュー)

 

創業60年を超えてもベンチャー魂を持ち続ける

あおやますぴりっと 河野淳一さん_マイクロサージャリー
世界最小直径0.03ミリの手術針(ゴマとの比較)。顕微鏡を用いて行われる血管や神経を縫合するマイクロサージャリーにて使用されている。針と糸が一体化された手術針

 

──河野さんが代表取締役を務められる河野製作所は、2004年に直径0.03ミリという極細の手術針を開発、実用化されました。これによって再生・移植手術などの分野で画期的な成果があったそうですね。
従来、顕微鏡を用いるマイクロサージャリーで使われる手術針は0.1ミリでした。それだと微細な毛細血管やリンパ管といった0.5ミリ以下の組織の手術をすることはできませんでしたが、「手術できるよう超微細針を作って欲しい」と、現場で働くひとりの医師からリクエストがあって生まれたのがこの製品です。ほかのメーカーにはすべて断られたと聞きました。さらに「不要」と唱える教授も少なくなかったのですが、この針を開発することで、もやもや病やリンパ浮腫などの病気を解決できるとわかっていたので、医療機器メーカーとして開発に挑戦すべきだと思いました。

この仕事をやっていてよかったと思うのは、今までなかったものを作ったことにより、医療技術の発展に寄与できたことを実感した時です。売れる売れないは関係なく、製品開発をすることで助かる命があるのならば、そしてそれによって社内にノウハウが蓄積されるのならば、医療機器メーカーはそれでいいのではないかとも思います。

──そのような精神は、代表に就任された時から育まれていたのでしょうか。
そうですね。当社のビジョンとして、毎年2つの新製品を市場投入すること、この10年で市場に投入した新製品で売上高の50%を占めること、そして、新製品を立ち上げられる人材を育成することの3点を、代表に就任した時から掲げています。このビジョンを達成するために進めている取り組みが「医工連携」です。医療関係者との共同開発によって、工学分野における研究成果を医療分野のニーズに対応させ、製品開発を行っています。

当社は「技術開発型ベンチャー企業」と称しているだけに、新製品の開発に対する思い入れは強いものがあります。創業60年以上になりますが、うちはあくまでも挑戦を続けるベンチャー企業でありたいのです。医療業界は保守的で、新しいことに対して慎重な業界です。そういった環境の中で新しい製品を作り、送り出し、受け入れられるためには、ベンチャー魂を持って新しいことに抵抗なく挑戦することが是であるという精神を、社員にも抱いてもらわなければなりません。そのためにはシンプルでわかりやすい会社のビジョンを示すことが大事だと考えました。

このビジョンが社員にも浸透したと実感できるようになったのは、本当に最近のことですね。実際に製品開発に挑戦し、それが実用化という成功体験として植え付けられたことで、社員も未知なる新しいことへの取り組みに対して拒否反応がなくなってきました。

あおやますぴりっと 河野淳一さん

──昔から家業を継ぐことは当然のこととして受け入れていらっしゃったのですか。
いいえ、むしろ「家業は継がない」と思っていました。祖父が創業したのですが、父は私が高校の時に亡くなり、事業の継承には少しややこしそうな事情もありました。それで自分の道は自分で切り開こうと……。大学卒業後はまったく関係のない業種で働いてみたいと思い、損保会社に就職しました。実は大学も、本当は金属材料などを学びたくて理系に進みたかったのです。しかし周囲から「いずれ家業を継ぐのならば経営に関わるのだから、経営学部で経営を学んだ方がいい」と勧められました。家は継がないと思いつつも経営学部に進むなど、高校・大学の頃は揺れ動く気持ちの中で自分の道を模索する、そんな時代でしたね。

 

キリスト教の教えが反映された校風に惹かれて青山学院へ

──本学院には高等部から入学されました。受験の決め手になった点は何でしょう。
高校受験の際に学校見学で初めて青山学院高等部を訪れたのですが、その時に感じた自由な校風に惹かれました。当時の私立は校則が厳しいところが多く、「~してはいけない」という決まりが前面に出ているのが普通といった風潮だったのです。そのような中で高等部の自由な空気はかなり魅力的でしたし、在校生の通学している姿もすごく雰囲気がよくて、こういうところで学びたいと受験を決めました。市川生まれ、市川育ちの私にとって、青山という華やかな立地も大変まぶしかったですね。

高等部では本当に楽しい3年間を過ごしましたね。勉強は数学が得意でした。クラブ活動ではテニス部に所属し、日々テニスに明け暮れ、将来はプロテニスプレーヤーになりたいと思っていたほどです。すぐに無理だと気づきましたが(笑)。

──大学に進んでからはいかがでしたか。
ハーミッツテニス同好会というサークルでテニスを続け、相変わらずテニス漬けの日々でした。周囲の勧めで進学した経営学部ではマーケティング論の授業が非常に面白くて、それまであまり興味のなかった経営を面白いな、興味深いなと思わせてくれるきっかけとなりました。また、高等部で聖書を学び、更に大学の「キリスト教概論」の講義で学ぶことにより、キリスト教の教えが青山学院の校風にいかに深く関わっているかに気づきました。自由な校風に惹かれたと言いましたが、自由とは決して好き勝手してもいい、ということではないですよね。むしろ自由とは責任が伴うものです。自分で考えて行動し、それに対して責任を持つことができてこそ認められるものです。また、青山学院はマイノリティーも含め多様な人々に寛容、かつ公平で平等な扱いをすると高等部の頃から感じていたのですが、それもキリスト教の教えが反映されているのだと改めて気づかされました。

あおやますぴりっと 河野淳一さん_大学時代
ハーミッツテニス同好会の仲間と。後列左から3番目が河野さん

 

──本学で高校、大学時代を過ごされたことは、その後の河野さんの人生にどのような影響を与えましたか。
高等部と大学で出会い、今でも付き合いの続いている友人や培った人脈はかけがえのない宝で、大きな財産だと思っています。様々な分野で活躍している友人がたくさんいるおかげで、広く情報を集めて経営判断につなげることができます。人生の重要な岐路で決断を迫られた際も、これまでに培った人脈が決断に少なからず影響を与えました。

それから高等部と大学には元気でパワーのある女性がたくさんいました。そういう環境に慣れていましたし、女性の能力の高さもよく分かっていたので、当社でいかに女性に活躍していただくかを考えることは、私にとってごく当たり前のことです。これからますます人手不足が深刻な問題になる時代ですから、どのようにして女性の力を活用するかは当社にとって重要なテーマです。

 

アメリカ留学で培った英語力と友人という財産

──大学3年の終わりからアメリカに留学されましたね。現地での2年間はどのように過ごされたのでしょう。
高等部生の頃から大学在学中に留学しようと決めていました。昔からよく親に留学の話を聞かされていたので、留学はするものだという意識をもともと持っていました。

最初の半年間はロサンゼルスの英語学校に通ったのですが、せっかく異文化の国に来たのに思いのほか日本人社会が大きくて、少しでも日本人の少ない土地に行こうとボストンに移りました。たまたまボストンで2世経営者や次期経営者を集めたプログラムのあるサマースクールが開催されたので、それに参加するなどしていました。

あおやますぴりっと 河野淳一さん_留学時代
アメリカ留学中の様子。後列左から3番目が河野さん

 

そのまま2年間ボストンで過ごしたのですが、最初はやはり英語に苦労しましたね。「英語の青山」に在籍しながら英語が苦手だったのです(笑)。英語が第二外国語の人とは話せても、ネイティブの人の話すスピードについていくのは大変でした。英語力アップのために日本人以外の友人を積極的に作り、ルームシェアもかならず外国人とするようにしました。家探しをしたり外国人と一緒に暮らしたりしているうちに必然的に英語を話さざるを得ず、さらに学業でも英語漬けの日々を過ごしていく中で、次第に英語力がついていった感じですね。ボストンでは日本人との接点もあまりなかったので、おのずと英語に集中できる環境が整っていたのもよかったと思います。留学も終わりに近づく頃には「また来たい」と思えるほど、充実した日々でした。青山学院でも人に恵まれましたが、ボストンでもアメリカ人のみならずヨーロッパやアジアなど様々な国籍の友人ができ、彼らの背景にある文化や歴史にも触れることができました。この留学時代にできた友人も青山学院の友人同様、私にとって大切な財産です。

 

代表取締役に就任 社内に新しい風を起こす

あおやますぴりっと 河野淳一さん_河野製作所

──損保会社に3年勤めてから家業に関わる決心をされたそうですが、どのような心境の変化があったのでしょうか。
損保会社に勤務していた頃はちょうどバブルの時代で、お客様のニーズ云々よりも数字がすべて。自分のやっていることがお客様のためになっているのかが見えにくいというジレンマがありました。また、損保会社は保障を売る会社なので、「モノ」自体はありません。小さい頃から家の仕事を見ていたこともあり、家業を継ぐことに興味はなくても、ものづくりへの憧れや欲求は持っていました。さらに大学や留学先で経営を学んだことで「経営をやりたい」という思いも大きくなっていた時に「会社を継いで欲しい」と声がかかりました。実は、私に声をかけなければ立ち行かないほど、会社の未来が暗たんたるものになっていたのです。

当時は医療改革などの時期と重なっていて医療費は抑制傾向にあり、医療機器メーカーも変わらなければいけない岐路にありました。ところが過去に様々な規格の糸つき手術針の開発・製造による成功体験がある上に、社員の平均年齢が50歳を超えていたので、社内には変化を嫌う空気が蔓延していました。営業をしなくても相手から買いに来てくれた時代を知る人たちにとっては、変わらないこと、何もしないことこそがよいことだったのです。しかしそれではもう会社の未来はないということで、まずは平社員として入社し、約7年後に代表取締役となりました。

──代表取締役に就任後、最初に手を付けたのはどんなことでしたか。
名前だけで実質は働いていない役員を全員解雇し、その代わり私は社長といえども給料は最低限しかもらわないことにしました。そうやって浮いたお金は新たな人材の投入に注ぎました。なかなかの荒療治でしたが、会社経営が厳しくなってきて、思い切った変化が必要な時期だったからこそできた改革ですね。また、50代の社員の定年退職後は若い人材を採用したので、社員の平均年齢も30代まで下がりました。

とはいえ、社員からの反発は大きかったですよ。みんなそれぞれ自分のテリトリーがあって、その空間の中で私物がたっぷり入った机で仕事していましたからね。それを全員配置替えして机の中のものを処分しましたから、そりゃあ恨まれますよ(笑)。「自分のシマで気持ちよく仕事していたのに何するんだ」という気持ちだったと思います。それでも会社のビジョンを掲げて実際に成果が出て業績もアップすると、納得してくれるようになっていきました。

──河野製作所ならではの「強み」とはなんでしょう。
製品開発のシーズ(技術の種)を見据えるところから実際にものを販売するところまで、一貫して自社で行えることです。また、製品を作るための工具や設備類を自社で開発できることも、大きな強みと言えます。われわれのスローガンは「GNT100(Technologies for 100 Global Niches)」、つまりグローバルニッチマーケットでトップを目指すというものです。具体的に言うと、微細加工技術を活かしたものづくりで新規市場を創造し、大手企業ではカバーしにくいニッチな分野、小さなニーズに対応する「多品種少量生産の高付加価値製品」の開発・製造を行うことです。製品開発に必要な機器を自社で作らず外注しているとスピード感が鈍るのは否めませんし、ちょっとした変更や改善活動をするためにもまた時間がかかります。「GNT100」達成のためには製品を作る機器自体も自分たちで作り出すのがベストですし、それを実現できていることには自信を持っています。このようなメーカーはあまりないと思いますし、マーケットの60~70%を占める大手メーカーから当社の製品に乗り換えてくださる病院や医師の存在は、当社の製品のクオリティを何よりもよく証明してくださっていると自負しています。

今後は手術用の針・糸にとどまらず、医工連携のもと、より幅広くいろいろなコラボが実現するよう、医療ヘルスケア全体の製品開発を手掛けていきたいと考えています。

あおやますぴりっと 河野淳一さん_河野製作所

本社内のクリーンルーム。製品の組立てパッケージングを行う

 

──最後に在校生へのメッセージをお願いします。
高等部、大学と学んだ青山学院では様々な経験をし、かけがえのない友人もできました。その中で自分の将来を模索しながら決断し、現在の私があります。今振り返っても、実に素晴らしい時間を過ごせたと思います。在校生の皆さんもぜひ大きな志を持ち、勉学に遊びに励み、将来は社会に必要とされると同時に、貢献できる人材になって欲しいです。それが目指せる学校ですから、ぜひ頑張ってください。

 

河野さんからのメッセージ

 

河野 淳一さん KONO Junichi

1963年生まれ、千葉県出身。青山学院高等部を経て1988年青山学院大学経営学部経営学科卒業。千代田火災海上保険株式会社勤務を経て、1991年株式会社河野製作所入社、1998年に河野製作所代表取締役に就任。1999年株式会社クラウンジュン・コウノ代表取締役就任。代表取締役就任後、経済産業省中小企業庁主催「元気なモノ作り中小企業300社2008年版」選出、第14回千葉元気印企業大賞優秀製品・サービス賞、第3回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞、日本クリエイション大賞2010マイクロ・メディカル賞共同受賞、第20回千葉元気印企業大賞千葉県知事賞など、河野製作所としての受賞歴多数。

 

あおやますぴりっと 河野淳一さん

 

[Photo:加藤 麻希] https://www.katomaki.com

「青山学報」265号(2018年10月発行)より転載