一つひとつ努力を積み重ね メジャーリーグへ〈校友・吉田正尚さん〉
2023/03/07
3月9日から始まるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)POOL Bに出場する侍ジャパンのメンバー、吉田正尚(よしだ まさたか)さん。2009年以来の優勝=世界一を目指し、活躍が期待されます。
皆様のあたたかい応援をお願いいたします。
三振が少ない、四死球が多い、長打率が高い、左打ちでも左投げピッチャーを苦にしない――。そう評される吉田選手は、青山学院大学在学中も数々の成績を残して、オリックス・バファローズに1位指名で入団。2022年度のパ・リーグ優勝、そして日本一となる原動力としての活躍を見せました。
今シーズンからは念願のメジャーリーグに挑戦。ボストン・レッドソックスに移籍しました。
新たな挑戦が始まる年に、野球への思いや青学での思い出など、お話を伺いました。
文末には、メッセージ動画も掲載しています。
ボストン・レッドソックスへの移籍、おめでとうございます。
ありがとうございます。所属球団には2~3年前からポスティング(※)をお願いしていたのですが、昨シーズンの日本シリーズで優勝できたことがメジャーの市場に出られる一因になりました。海外FA権が取れるのを待っていたら年齢的にも厳しくなってくると考えていたので、今回は球団が認めてくれたほか、さまざまな方のおかげでメジャーリーグへの移籍を実現することができたので、本当に感謝しています。
契約金が日本人野手として最高額(5年契約124億円)だったことが注目されましたが、自分としては小さな頃からやってきた野球が職業になり、そこでの価値が契約金という形で評価されているというのは、何だか不思議な気持ちにもなります。アメリカでは日本以上に契約金額が重視されているのでプレッシャーもありますが、期待に応えたいと思っています。
※海外FA権(1軍登録が累計9年経過で取得可能)を持たない選手がメジャーリーグに移籍する方法。所属している日本の球団の許可が必要。MLB球団から所属球団に譲渡金が支払われる。
──いつ頃からメジャーリーガーになろうと意識されましたか。
小さい頃はイチロー選手や松井秀喜選手がメジャーリーグで活躍しているのを、「すごいな」という思いだけで見ていました。バリー・ボンズ選手の場外弾やブライス・ハーパー選手のアグレッシブなプレーにも憧れていました。それが甲子園に出場したり日本代表に選ばれたりと一歩ずつステップアップしていくうちに、遠い存在だったものが「いずれは」と目標になっていった感じです。具体的に考えるようになったのはオリックス・バファローズに入団してからですね。メジャーに行くためには実績が必要だということで、143試合、一打席一打席、すべて大切にしてきました。その積み重ねを、今回評価していただけたのではと思います。
──メジャーリーグで楽しみにしていることはありますか。
ここ数年は、一塁が空いていると敬遠されるなど勝負を避けられることもありましたが、アメリカはパワーピッチングなので純粋に対決できることが楽しみですね。新しい環境、英語でのコミュニケーションなど大変なこともあるでしょうが、これまでと変わらない活躍ができるよう努力していきたいです。
──開幕前には日本代表としてWBCにも出場されます。
日の丸の重圧をひしひしと感じます。金メダルを獲得できた東京2020オリンピックでも、その場に立っている人にしかわからないであろう独特な空気がありました。メンバー全員が世界一という目標を掲げる中で自分がどう貢献できるかを考えつつ、チームジャパンで日本を盛り上げられたらいいなと思います。僕自身、小さい頃に第1回、第2回WBCでの日本代表の活躍に胸を躍らせた鮮明な記憶があるので、代表に選んでいただけたのはとても名誉なことだと感じています。
──栗山英樹監督からはどのようなことを言われていますか。
僕がメジャーに移籍して開幕直前の日程でWBCが開催されることから、「新しいことにチャレンジする大事な時期だから、無理はしてほしくない」と言ってくださいました。僕自身はメジャー行きが決まった後もWBCに出場したいという気持ちをこれまでと変わらず持っていたことと、栗山監督とは日本代表に対する考え方が同じだったことからも、ますます出場したいという思いが強まりました。選手ファーストで選手の人生を優先して考えてくださっている栗山監督の下でベストを尽くします。そして僕が幼い頃にWBCを見て感動したり勇気をもらったりしたように、今度は自分が応援してくれる方々へ何か届けられればいいなと思っています。自分も、皆さんも〝しびれる〟試合をしたいと思います。
──野球をはじめたきっかけを教えてください。
3つ上の兄が野球をしていたので、ごく自然に自分もグラウンドに入るようになりました。中学生になると福井県の鯖江ボーイズというクラブチームで硬式野球を始め、敦賀気比高校時代も野球漬けの毎日でした。小・中学校時代の練習休みは週1日、高校では休みなしでしたから、今振り返るとちょっとやりすぎかなと思うほどです。
最初はキャッチャーをしていましたが肩を痛め、高校1年生の途中から外野手になりました。1年生の夏で早々に甲子園に出場できグラウンドに足を踏み入れたときは、「広いな」と感動しました。プロになってからは何度も入っている球場ですが、最初の感動は今でもよく覚えています。
──高校生の頃からプロ野球選手になることは意識されていたのでしょうか。
そうですね。ただ、今の自分の実力のままではだめだと自分でわかっていました。誘っていただいた実業団もありましたが、実業団でも無理だろうと。一方、青学は高校2年生の冬と早い段階から声をかけてくださっていました。何人ものプロ野球選手を輩出していることや、少人数で切磋琢磨するといった方針がいいなと感じ、青学で4年間しっかり野球に打ち込んでからプロを目指そうと思いました。
──大学在学中の思い出をお聞かせください。
前年に優勝しても、その年は入れ替え戦に回ることもあるような、まさに「戦国東都」と言われるだけある厳しさでした。3年生の秋季リーグで1部から2部への降格も経験しましたが、2部だからレベルが低いかと言えばまったくそんなことはなく、常に全力でプレーしていました。プロ野球の道に進むという明確な目標があったため、僕にとって試合はスカウトの人にアピールする場でもありましたから、1部でも2部でもモチベーションは変わりませんでしたね。一打席一打席に全力を尽くしました。
──勉強はいかがでしたか。
大学でも野球一色だったので、勉強はついていくのが大変でした。もう授業が難しくて(笑)。グループディスカッションで自分の役割がうまく果たせず、歯がゆい思いをしたこともありました。ゼミにも入らず、もちろんバイトをする時間などあるはずもなく、周囲からは「青学に通っているなんていいね」とうらやましがられましたが、結局野球しかしていません。もう少し学生ならではというか、キャンパスライフを楽しみたかったなという思いはありますが、これも自分で選んだ道ですね。野球に専念できる環境が整っているという点では、とても恵まれていたと思います。
箱根駅伝の「山の神」こと神野大地君とは友達になって、今も食事をする仲です。そういえば相模原キャンパスの構内を練習でよく走っていたのですが、ちょうど陸上競技部も走っていたので並走してみたら、とんでもない速さでした(笑)。
──今もシーズンオフには野球部を訪れたり、後輩たちに差し入れされたりしているそうですね。
僕自身も井口資仁さんをはじめ先輩方から差し入れしていただいていたので、自分にもできることがあればといつも思っています。とはいえ、部員へ積極的にアドバイスするといったことはしていません。聞かれたことには必ず答えますが、そもそも知りたい、学びたいという思いを持っていなければだめだと思うからです。その点、青学の野球部員はいい意味で上下関係がなく物怖じせず貪欲なので、自分から聞きに来る選手が多いですね。
──青学での4年間は現在にどう生きていると思われますか。
大学では自分で選択する場面が多々あったことが、自分の成長につながったように思います。自分で考え自分で判断するという力は、大学4年間で身についたと感じますし、大人の階段を上ったという気がしますね。高校時代は卒業後にプロに進む力不足を痛感して悔しい思いもしましたが、結果として青学に進んだことは遠回りではなかったと思います。
──2015年のドラフト会議でオリックス・バファローズから1巡目で指名されました。そのときのお気持ちをお聞かせください。
まさか1位指名していただけるとは思ってもいなかったので驚きました。どの球団にしろ、3位くらいまでに入れたらいいなと思っていたくらいです。必要としてくれるところでプレーしたかったので、オリックス・バファローズがいい評価をしてくださったことはうれしかったですね。
──1年目からケガに悩まされました。
開幕スタメンに選ばれ、新人タイ記録の6試合連続安打と幸先のいいスタートを切れましたが、その後はケガに見舞われました。特に腰を痛めたときは日常生活を送るのも苦しく、朝起きるのが憂鬱でした。先輩はもちろん、同級生や後輩が活躍している姿をテレビで見ていると、「自分もまたあの場に戻れるのか」「もう一生野球はできないんじゃないか」と、ネガティブな気持ちにもなりました。やはり野球ができないことが一番つらかったので、球団のトレーナーに頼るだけでなく、自分でも調べて東京や大阪などあちこちへ治療に行くなど必死でした。結局どの治療が正解だったのかはわかりませんが、再びグラウンドに立つことができるようになりました。ケガをしたことで自分の体への理解が深まり、興味を持つようになったことは良かったと思っています。
──心身の良い状態を保つために気をつけていることはありますか。
メンタル面では、あまり一喜一憂せず、落ち込んでもその感情に振り回されたりしないように心がけています。緊張もするし後ろ向きな気持ちになることもありますが、「そういうものなのだ」と受け入れるんです。それに緊張感があるほうがいいプレーができますから、むしろ「緊張はプレーヤーの醍醐味」くらいに考えています。それからオンとオフのめりはりは大事ですね。休日は家族との時間を大切にし、一緒に買い物に行くなど気分転換しています。
フィジカルな面では、トレーニングは欠かしません。しかもメジャーリーグは日本以上に体の大きな選手がそろっていますが、大きくないと長打が打てないと思ったことはないですね。ここ数年、自主トレではハンマー投げの金メダリストであり、現在はスポーツ庁長官を務める室伏広治さんが野球に特化したプログラムを組んでくださり、それをもとにトレーニングしています。ただ筋肉をつけたり大きくしたりするだけでなく、そのパワーをいかに生かすかなど、いろいろアドバイスを受けています。
──NGO「国境なき子どもたち」へ1本塁打ごとに10万円寄付されていますね。
社会貢献活動をしていきたいという気持ちは入団時から抱いていて、特に若い頃から行うことに意味があると思っていました。幼少時に映像で見たストリートチルドレンが心に残っていたので、貧困に苦しみ助けを必要としている子どもたちへの支援を決めました。「少しでも多く支援を届けられるように頑張ろう」という思いもありました。現地から送ってくれるお礼の動画で、喜んでくれている姿を見るとうれしくなります。コロナが落ち着いたら現地にも行ってみたいと思っていますし、この活動を継続していくことが大事だと思っています。
──ファンサービスも大切にされていらっしゃいますね。
球場やキャンプなど、直接ファンの方と触れ合える機会は大切にして、とりわけ子どもにはできる限り時間を割くようにしています。もしも僕と接したことで、将来はプロ野球選手になりたいと思ってくれる子がいたらうれしいですね。
──これまでに野球をやめたいと思ったことはありますか。
高校3年生の夏、甲子園に出られなかったとき燃え尽きたというか、ちょっと投げやりな気持ちになりました。でも結局、また野球がしたくなって、やっぱり自分は野球が好きなんだとよくわかりました。
──吉田さんにとって野球とは何でしょう。
野球は職業ですが、人生を学ぶものでもあります。人間関係も、夢に向かって頑張ることも、野球を通じて学びました。自分を支えてくれるものであり、ときに人を支えられるものでもあります。僕は青学での4年間で「自分で考える」という力を身につけることができました。そしてプロになってからは視野が広がり、より選択肢が増えました。「こうでなければならない」という思い込みを取り除くことができるようになったし、日本代表で出会った人たちから良い刺激をたくさん受けたことも、その後の人生に影響を与えていると思います。
──野球の魅力を教えてください。
野球は同じ局面がほぼなく、難しいし大変だけど面白い、そう思っています。チームスポーツでありながら個人競技でもあり、攻守も走りも全部できなければいけないけれど、みんなが同じである必要はなく個性があっていい、という点が魅力です。全力でプレーすることで、子どもたちに野球の楽しさを伝えると同時に夢を与えられたらいいなと思います。そのためにもWBCは勝ちたいですね。
──今後の目標をお聞かせください。
野球については「ここまでたどり着けたらゴール」という到達点を設定していません。上っていくのが好きなので、大きな目標を達成するために、その手前にある小さな目標を一つひとつクリアしていきたいと考えています。
──最後に後輩へメッセージを。
目標があることは大事だと思います。自分を理解し、自分の性格を考えた上で目標を設定してみてください。目標を立ててそれを達成するために努力し、取捨選択を積み重ねていく毎日は、何となく生きるよりはずっと充実していると思いますし、僕自身も実践していることです。また、目標があれば、そのために今は何をすべきかを逆算して考えることができます。そうすると自分で選んだ道を進むことになるので、結果として後悔しない人生を歩めることにつながっていくと思います。大きな目標を立てて、そのために一つずつ階段を上っていく地道な歩みはときに遠回りすることもありますが、その分目標を達成できたときの達成感はとてつもなく大きいと思うので、ぜひ一歩ずつ頑張ってください。
大学時代のトピックス
2年生 第39回日米大学野球選手権大会日本代表
3年生 第27回ハーレムベースボールウィーク日本代表
4年生 2015年ユニバーシアード日本代表。4番打者で出場〈優勝〉
オリックス・バファローズ時代の成績