Variety いろいろ

大学野球日本一 そして140年の歩み【アオガクタイムトラベラー】

2023年度東都大学野球春季リーグで、2006年春以来17年ぶり13度目の優勝を果たした大学硬式野球部。10勝1敗、勝率9割9厘と、2位を大きく引き離しての優勝だった。
17年ぶりという枕詞に少々驚き、時間の経過の速さを思い知った。

そして全国各リーグの勝者のみが参加して行われる全日本大学野球選手権大会。
その決勝で、明治大学を4-0で破り、18年ぶり5度目の大学日本一に。

全日本選手権の優勝監督インタビューのシーン。
「日本一への歩み、いかがでした?」との問いに、安藤寧則(あんどう やすのり)監督は、38秒間、顔を上げなかった。いや上げられなかった。涙をこらえていたのだ。
今までの様々な出来事や思いが去来していたのであろう。
見ていた私も涙が出てきた。
おめでとう。

この機会に、青山学院の野球の歴史をご紹介したい。
アオガクタイムトラベラー隊の出動である。

 

東都大学リーグ

青山学院大学硬式野球部が東都大学1部リーグで初優勝したのは1988年の秋季リーグ。創部105年目にしてようやく掴んだ優勝だった。


「青山学院大学新聞」野球部初優勝記念特別号 1988.11.1

 

この「創部105年目の初優勝」という表現は、実は事実とは異なる。
1883年、東京英和学校(青山学院の前身)に野球部が創設された。同部はその年を創部の年としている。
1949年に本学は新制大学として出発し、1951年に東都大学野球連盟に加盟している。
大学になる以前は、中学部・高等学部(専門部)に野球部が存在し、大小さまざまな大会で優勝しているため、「東都大学リーグ加盟後37年にして初めて勝ち取った優勝」という表現が正解である(少し回りくどくなってしまった……)。

その東都大学リーグは、加盟22校(2023年6月現在)を4部制に分け、年間、春季と秋季のリーグ戦が行われる。リーグ戦で最下位の大学は、その下位リーグの優勝校との入れ替え戦が待っている。

春・秋のリーグ戦が終わると、大学日本一を決める大会が行われる。
全日本大学野球選手権大会は、全国にある26個の大学野球連盟のそれぞれの春季リーグの優勝校(1部)が参加して大学日本一を決定する。
明治神宮野球大会は、東都大学と東京六大学以外は、9つのブロックにまとめられて、合計11ブロックの秋季リーグ各優勝校などが代表して参加し、大学日本一を競う。

東都大学リーグでの本学の軌跡を年表にまとめてみた。


<>内の数字は優勝回数

 

1996年11月に行われた全日本アマチュア王座決定戦(1991-1997開催)では、住友金属と対戦し、6-5で勝利し、優勝している。

不思議なことに、秋の明治神宮大会での優勝がいまだなし。
2023年秋、再び胴上げされる安藤監督を見たい。

 

1988年 初優勝のとき

1988年の秋季リーグ戦で初優勝したとき、同部の部長を務めていたのが、伊藤文雄国際政治経済学部教授であった。

伊藤先生の前任は、気賀健生文学部教授が通算25年間部長を務めてきた。また近藤正雄氏が27年間監督を務め、2部から1部リーグへと定着させてきた。

1987年、その二人がほぼ同時に入れ替わることになった。
1月に伊藤部長が就任し、8月にはそれまでコーチだった河原井正雄氏を監督に昇格させた。
その結果が早くも形に表れた初優勝だった。

 

 

「バスケット部及び野球部を試合に勝てる部に育てるためにいろいろな苦労をしてきました。特に、優勝させるための監督問題で計り知れない辛苦を味わってきているだけに、二度と体育会の部長はしないという気持ちもあり(後略)」と『青山学院大学体育会陸上競技部90周年史』で伊藤先生は語っているように、この監督招聘の際には苦労したようだ。
新しい酒を新しい革袋に盛るにも、なかなか簡単にはいかない現実がある。
現状路線を維持するのか、新たな路線を採るのか……。

しかしこの伊藤部長の決断が、就任2年目にして優勝、という結果を残した。

 

河原井正雄監督「優勝を振り返ってみて」 「青山学報」141号(1988.12)より

    伊藤部長は「監督と私と一心同体で野球部を一流チームにしよう」「困ったことは私に何でも相談して欲しい」と、私に言葉をかけてくれました。優勝する為には何が必要なのか? という所から議論を始め、優秀な選手に本学を受験してもらうためには、グラウンド等施設面での協力を学院側にお願いするとか、色々の検討を重ねましたが、何よりも現在の部員の、意識改革が第一歩であると考えました。

 

河原井監督は、選手たちに「青山学院大学の学生であれ」という考えを浸透させたという。当時の練習地である綱島グラウンドがキャンパスから遠く、青山学院大学の中にあって、孤立を感じていたという。しかし徐々にクラスメイトが試合会場に応援に来てくれるようになり、選手もうれしかったようだ。

そして長時間の合同練習を短時間にして、残りの時間を選手の自主性に任せるようになった。その結果、個人の時間を利用して自ずから自主練に励み、夜も遅くまで練習をする、努力する選手が出てきた。河原井監督が理想とする「練習が終わってからが本当の練習」をするようになった。
そしてその選手たちが部を率先して引っ張っていく形になっていった、という。


初優勝の時のウイニングボールと台座

 


同じく優勝記念の盾

 

翌年1989年の秋も優勝を果たした。

 

伊藤文雄先生「野球部優勝の陰に思うこと」 「青山学報」146号(1989.12)

    最終週の対駒大3回戦のゲームでは、従来の本学のチームでは想像も出来ないような力強さを見せてくれました。午後7時を回る延長14回、雨の降るナイターで約2,000名近い学生がずぶ濡れになりながら応援し、サヨナラ逆転ホームランに感激の涙を流させるようなゲームをするようにまで成長してきたのです。(略)
    2回目の優勝でも思うことですが、応援する多くの学生の目の前で自力優勝することが如何に重要な事であるかを痛感いたしております。野球部の面倒をみることになって2年目になりますが、野球部の部活動は学生の純粋な課外活動の一環としてのものよりは、学生に大学の魂を植え付ける働きをするためにあるものと考えざるを得なくなりました。5,000名近い学生が母校の優勝のためにカレッジ・ソングを歌い、母校の選手を無心に応援する姿を生み出すことにこそ野球部の存在意義があるのではないかと思うのです。

 

爾来、様々な苦労を乗り越え、青山学院大学硬式野球部は全盛期を迎え、数多くのプロ野球選手を輩出してきた。


祝勝会場で拍手で迎えられる河原井監督(左)と伊藤部長(右)

 

少し補足したい。
東都大学リーグ加盟の前年、1950年夏開催の全国新制大学野球選手権大会東京予選で本学は優勝し、東京都代表として全国大会に出場している。
「青山学院新聞」の当時の記事には、「昨年に引き続き連続優勝の偉業を成し遂げた」と書かれており、東都大学リーグに所属する前も、各大会で結果を残している。

その1950年の東京都予選大会では、
 準決勝 本学11×9慶應義塾大(延長10回)
 決勝  本学13×12東京大学(延長10回)
と記録されており、どちらも延長戦、接戦を制しての優勝だった。
決勝戦で戦った東京大学は戦前“一高”と呼ばれ、野球の歴史も古い。

なお、その後進んだ全国大会では、残念ながら、2回戦で近畿大学に敗れている。

 

明治時代 日本野球の草創期

さて1883年、東京英和学校(青山学院の前身)に本学野球部が創設された、と冒頭で紹介したが、その資料を探ってみた。

『青山学院大学野球部120年の歩み』によると、野球部創始者は、東京英和学校で教師をしていたジェームズ・ブラックレッジ(James Blackledge)とされていた。
ほかの資料を探すと、私のゼミの恩師である気賀健生先生が、「Wesley Hall News」で野球部創設者はブラックレッジであると記していた。
気賀先生も大学硬式野球部の顧問を務めており、気賀先生のこの「Wesley Hall News」での調査が元となり、『青山学院大学野球部120年の歩み』にも記されたのだろうと推測する。

ジェームズ・ブラックレッジは1849年イギリスに生まれ、アメリカに渡りドルー神学大学で学んだ後、1882~1886年の間東京英和学校で教壇に立った。


ジェームズ・ブラックレッジ

 


前列中央のロバート・S・マクレイの後ろに立つブラックレッジ

 

1944年に本学を卒業し、中日スポーツなどの記者となった茂木義徳氏が『青山学院大学野球部120年の歩み』に次の文を寄せている。

    日本最初の(野球)試合は、“普及者”いわゆる平岡廣煕の作った新橋クラブと、駒場の農学校との間に明治15(1882)年に行われたのが最初のようで、明治16(1883)年から18(1885)年にかけて俄然野球熱が高まり、東京英和学校(青山学院の前身)、波羅学校(現・明治学院)、慶應義塾などが野球部を作り出した。(中略)

    青山と明治学院の定期野球戦などは、日本の大学野球の草分けの試合ともいえる。当時の青山学院は非常に強く、覇を唱えたこともあった。慶應大学や、少し遅れて出来た旧制第一高等学校(後の東京大学教養学部など)の野球部などは敵ではなかった。今でこそ東京六大学野球の王者として野球界に君臨しているが、当時は慶應や一高が青山を破ったりするとそれこそ一大ニュースとなったくらいだった。明治24(1891)年に一高が農学校及び青山学院を破った時、“号外”が出たという。

    以上が、我が野球部の神代だが、その後青山の野球は有名無実のものとなってしまい、僅かに、“野球の父”ともいわれる橋戸頑鐵が中学部に籍をおいていただけ。しかし、高等部野球部が、その魂を受け継いでいた。その高等部が単独で活躍したのは大正末期の頃から昭和初期にかけてである。(以下略)


1934年10月20日 日東都大学野球一部リーグで初優勝した日の記念のウイニングボール
青山学院中学部×東京高等師範学校附属中学

 

ここで出てくる橋戸頑鐵(本名:真)氏について紹介したい。
青山学院中学部で投手として活躍し、その後、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学。同校野球部の2代目の主将を務めた。彼が慶應義塾に“挑戦状”を差し出し、第1回早慶戦が行われた。その後、アメリカに留学し、帰国後、新聞社に勤めた。日本初のプロ野球チームを創設し、都市対抗野球大会開催に関わるなど、その功績が讃えられ、野球殿堂歴代特別表彰者に選ばれた最初の人物の一人である(ほかに正力松太郎、澤村栄治ら9名が名を連ねている)。1927年から行われている都市対抗野球大会で最優秀選手に贈られる賞は橋戸賞(1936年創設)と名付けられた。


後列右から3番目の学ランを着ているのが橋戸氏(1899年撮影)

 

また、『慶應義塾野球部史』によると、「青山英和学校と試合をしたのが最初」と記されており、慶應の野球部が誕生したのは青山学院より後であったことがわかった。慶應義塾野球部の起源を1888年の三田ベースボール倶楽部の結成としている。

「青山学報」13号(1956年3月)には、医学博士の和田八千穂氏による「我が国野球の始まり-東京英和学校の明治18・19年頃のベースボールチームに就て」と題した文章が寄せられている。

    当時我校のベースボールチームは青山の山賊と言われたくらいの支度(ユニフォーム)で、短袴、足袋洗足(おそらく、足袋を毎日洗いながら使うという意味)でした。(中略)

    今日用いるミットもグローブなどなんらの護身具は皆無だったのでした。時に明治学院チームと試合をしました。明治学院は既にハイカラで金ボタンの霜降りの羅紗(毛織物)のユニフォームを着し、帽子は我憲兵用の軍帽に似た型のキャップにユニオンカレッジの頭文字を組み合わせたマークを付けておりました。(略)

    当時、新橋鉄道局にアメリカより帰った野球通の平岡(廣煕)さんという牧師が居られたので時々教えを受けに行きました。また我校の先生キッチン氏にもコーチを受けました。駒場農学校チームとも時々試合をしました。(略)

    私が思うのですが、我が青山チームと明治学院チームが引き続き発達していたらあるいは今の早慶戦よりも“青明戦”のほうが今日我が国野球界の覇権を握っていたろうと、今更ながら残念に思う次第でございます。

(一部補足や、現代語に書きかえています)


1899(明治32)年撮影
確かに山賊っぽいか?!

 

日本における野球の草創期に、青山学院はなんと強いチームを誇っていたことか。“神代”=伝説の時代と茂木氏が称していることからも、その強さがうかがえる。

ここで登場する「中学部」は、現代の学齢で考えると、おおよそ中学生から高校生だと捉えられよう。
東京英和学校の学則を見てみると、
・第1条1 生徒は満13年以上の者とす
・第2条2 修学年間は予科を5年とし、本科を4科に分かち各4年とす

この後、この「予科」が中学部に、「本科」が高等学部に変わっていく。
「高等学部」と「神学部」の二つを合わせて青山学院専門部と呼んでいた。この専門部は、現代で言うとおおよそ大学生にあたる。

前出の橋戸頑鐵は、青山学院の中学部を出て、早稲田大学に進学している。青山学院が大学となるのは、戦後のことである。

『青山学院五十年史』(青山学院 1932年)には、野球に関する思い出話が散見された。

    ●岡田具氏
    「私達も野球はずいぶん好きで、時には一高や学習院へ皆と試合にまで行ったほどであったが……」
    労働しながら学校に通える実業部活版所で働きながら野球をしていた。
    ●成田潔英氏
    「一高を破って一時天下に覇を唱えた学院の野球部も、橋戸君らが卒業されて後、しばらく不振の状態であったが、復活し、再度相当強い中学チームが出来上がり、麻布中、明治学院や学習院等と盛んにしのぎを削ったものである。(中略)
    学院野球部の真の後援者でかつ理解者である先生の一人は、石坂正信院長だと思う」
    ●杉村一枝氏
    「当時青山学院といえばスポーツ学校として有名であった。庭球(テニス)では〈誰々〉など多士済々で全勝したこともあった。ランニングでは〈誰々〉など堂々たる選手が続出して学院の名を轟かした。野球も全盛時代でなかなか優勢であった。当時の覇者慶應普通部にはついに勝てなかったが、2対3の接戦をしていた。何でも明治学院を目標としたもので、他校には負けても明治学院だけには負けられなかった」(〈誰々〉の実名は省略)
    ●津島純平氏
    「中学部は当時、慶應普通部と都下中等学校野球の双璧だった」

 

これらの回顧は、中学部時代のことで、その上の高等学部の野球部には、突出した強さは無かったようである。

ちなみに今年2023年5月21日、岐阜県立岐阜高等学校の創立150周年事業の一環である「日本最古の野球部激突」と題した野球の記念試合に本学高等部硬式野球部が招待され、岐阜市の長良川球場で試合が開催された。岐阜高校野球部は1884年に創部されており、お互いに140年の歴史を背負っている。

 

青山学院野球部フォトギャラリー


東京英和学校野球部 1893(明治26)年撮影
後列右が勝田銀次郎。Aの文字は、以前取り上げた書体「ブラック・レター」
足元を見ると、足袋や裸足

青山学院中等科野球部 1910(明治43)年撮影

青山学院中学部野球部 1927(昭和2)年撮影
中央に阿部義宗中学部長(後の第6代院長)が写っている
ユニフォームには「AOYAMA」の文字

同上 1934(昭和9)年撮影

 

信念と情の教育者 安藤寧則

締めくくりの前に、安藤監督について語りたい。

安藤寧則氏は、本学在学中に大学硬式野球部に所属し、2000年3月卒業後、学校法人青山学院に入職し、職員のかたわら、20年近く高等部硬式野球部の監督を務めてきた。そして、2019年1月6日付で、大学硬式野球部の監督に就任した。

熱く語る、その真剣さと正直な心が人の心を打つのだと思う。
ウソや卑怯を嫌う。
そしてその雄姿は、“ダルマさん”と呼ばれ国民から愛された、かつての首相、高橋是清を彷彿とさせる。

私も心を打たれた一人であった。
安藤監督を知ったのはいつだっただろうか?
当時、学院広報として様々なスポーツの試合を取材していたものだが、個人的に一番関心があったのは高校野球だった。うちの高等部は強いのか弱いのか? どんなものかと見に行ったところから、安藤監督と出会った。

常に少数の部員でやりくりし、選手たちを同じ目標に向かわせ、共に戦ってきた安藤監督。「教育者として在りたい」と語り、怒るではなく諭す。「ぼくの話よりも、選手たちの話を聞いてやってください」と、選手たちへの愛情があふれる。

監督の魅力に取りつかれたかのように、私は自力で高校野球の特設ページを学院ウェブサイト内に作成し、全選手にインタビューをして顔写真を撮り、やぐら(対戦表)やスコアボードを作り、取材記録を公開した。
広報室(当時)の先輩職員からは、高校野球ばかりに肩入れしては公平性に欠ける、と言われたところをなんとか説得した。私が自由に動けるように、陰では先輩方が守ってくださったのだと思う。


高校野球特設ページ(当時)

 

さて当事者(私)は暢気に、いや気合を入れて、カメラとメモ帳を片手に試合会場のバックネット裏の正面一番前に陣取り、1球1球シャッターを切り、手製のスコアブックに記入。時には、私が現地から広報室に電話してスコアを伝えて、リアルタイムでWEBを更新する(まだ遠隔での操作ができない時代でした……)、といった肩の入れようであった。

そして忘れもしない、2006年の全国高校野球東東京大会。
組み合わせ抽選会から取材に入った。
橘-春田のバッテリー。
5回戦、二松学舎大学附属高等学校に4-0で勝利。スタンドは沸きに沸いた。
そして準々決勝で都立足立新田高等学校と対戦。
0-2で惜敗。
結果ベスト8。戦後の青山学院高等部の最高の成績である。

試合終了後、コメントをもらうためにベンチ裏に行ったときの光景は、いまだに忘れられない。
ひと言も声をかけられなかった……。


2006年やぐら

 

2008年の同大会では、ベスト16だった。
5回戦で東海大付属高輪台高等学校に敗れた時の安藤監督のコメントを紹介する。

    選手たちには、様々な面で「一番を目指せ」と言ってきました。優勝する気持ちで、「歴史を変えるんだ」という思いで臨んできました。最後まで負けるとは考えませんでした。あれだけ期待に応えてくれた選手たちに対し、もう少し楽なゲーム運びをしてあげられなかったか、悔しい思いがこみ上げてきます。試合後、堪えていた小田が「すみませんでした」と泣き崩れました。みんなで泣けるチームになりました。選手たちには、今回の経験を糧に成長してほしいと願います。この3年間が実りあるものだったかは、大学へ進み、社会に出てからわかることです。いかに社会貢献ができるかで初めてわかることです。教え子たちの話を聞くと、皆、社会に出て頑張っています。監督としてやらせていただいている中で、そのことが一番嬉しいことです。彼らは努力することの尊さを学んでいるはずです。
    「常に期待され、頼られないと終わりだ」と選手たちには言っています。「また応援してやろう」と思われるように、今後も指導してまいります。これからも選手一人ひとりの成長をぜひ見てください。暑い中、応援に駆けつけていただき、ありがとうございました。

 

私の人事異動もあり、その後は高校野球からすっかり足が遠のいてしまった。
同部は2011年にもベスト8の成績を残し、その後も、3・4回戦まで勝ち進んでいる。

安藤監督は岡山県出身。
本学の発展に重要な役割を果たした人物である万代順四郎も同郷。
粘り強く、根気強く、曲がったことを嫌う。熱い人物像が重なる。

 

終わりに

1988年の東都大学リーグでの初優勝以来、13回のリーグ優勝と、全日本大学選手権5回の優勝を誇る青山学院大学硬式野球部。
その記録があるからこそ、統率する者には、優勝をしなくてはならないという使命・責任が重くのしかかる。

2019年1月に大学硬式野球部の監督に就任後、安藤監督は、自らの意志で野球部の学生寮に選手と共に住み込んだ。陸上競技部の原晋監督や安藤弘敏コーチからも、寮生活を共にすることのメリットについて助言があったという。
練習後緩みがちな雰囲気を引き締め、早寝早起き、門限順守、整理整頓などを徹底させたという。そうしてチームの一体感を作っていった。

2006年春以来の久方ぶりの優勝には、安藤監督の1年先輩でもある中野真博コーチ(本学卒業後、東芝で投手として活躍。東芝のコーチを経て、2019年から本学のコーチに就任)の貢献が大きかったと安藤監督は話した。投手陣の陣容を固めてくれたという。

2023年は、3月に行われた2023 WORLD BASEBALL CLASSICで、日本中が大いに盛り上がった。本学出身の吉田正尚選手の活躍も記憶に新しい。メジャーリーグでの活躍にも一喜一憂している。
今年は、青山学院にとって野球の年とも言えるほど、うれしいニュースが続いている。

本学ばかりではない。
全日本大学野球選手権大会決勝戦で戦った明治大学の田中武宏監督の姿勢にも心を打たれた。礼儀の重要さ、対戦相手をも称えるマインドに尊敬の念を覚える。これぞスポーツマンシップ。それは安藤監督にも共通する。だからこそスポーツは、見る者を感動させるのだ。
教育者としてのマインドを持つこの両監督に育てられた選手たちが、この世で活躍するサーバント・リーダーになることは間違いない。

これからも本学のみならず、東都大学リーグ、そして日本の野球界が盛り上がってほしいと願っている。そして多くの人々に、感動を与えてくれますように。
多くの方々の応援・支援をお願いする次第である。

 

〈参考資料〉
『青山学院野球部120年の歩み』(青山学院大学野球部OB会 2003年)
『都市対抗野球大会四十年史』(日本社会人野球協会、毎日新聞 1969年)
『慶應義塾野球部史』(慶応義塾体育会野球部 1960年)
『青山学院五十年史』(青山学院 1932年)
「青山学院新聞」36号(1950年8月)
「青山学報」15号(1956年3月)
「青山学報」141号(1988年12月)
「青山学報」146号(1989年12月)
「青山学院大学新聞」野球部初優勝記念特別号(1988年11月1日)
『青山学院大学学友会九十年の歩み』(青山学院大学 1964年)
「Wesley Hall News」No.91(2007年3月)
『青山学院大学体育会陸上競技部90周年史』(青山学院大学陸上競技部OB会 2009年)

〈協力〉
資料センター(戦前の写真・資料は全て資料センター所蔵)

 

スポーツ報知の加藤さんの記事が泣かせる。ぜひ読んでいただきたい記事です。

 

《アオガクタイムトラベラーシリーズ》