Column コラム

イギリス廃虚ツアーにようこそ【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第23回】

青山学院大学名誉教授

佐久間 康夫

 

歴史をひもとけば廃虚あり

廃虚という言葉にはどこか人の心を揺さぶるものがあります。悠久の歴史を誇るイギリスには、多くの名所旧跡に交じって、廃虚がいたるところに存在します。イギリスという国では〈廃虚百選〉も容易に選べそうなくらいです。

栄華の象徴であった威風堂々たる建造物がなぜ廃虚になり果てたのか。悲劇的な出来事に起因する例もあって、廃虚には人々の悲しい記憶が塗り込められているのかもしれません。今もそこを吹く風には、少しばかり涙の残り香が感じられます。それでは私のお気に入りをいくつかご紹介しましょう。

ノッティンガムの郊外にあるニューステッド・アビーは、1170年頃に建立されたと伝わります。

ニューステッド・アビーの廃虚

 

ヘンリー八世が断行した宗教改革で没収された修道院が、16世紀半ばにジョン・バイロン卿へカントリー・ハウスとして譲渡されました。それから250年あまり経って、その所領を受け継いだのが、第6代男爵となったロマン派の大詩人ジョージ・ゴードン・バイロンでした。彼はケンブリッジ大学を卒業後、荒廃していた建物に大改修を施し、元の修道院長の部屋を居室としました。後に故国を捨てて、ヨーロッパ大陸を放浪、ギリシャで客死した遊蕩貴族バイロンですが、生涯にわたりこの地に愛着を抱いていた様子が自作の詩に歌われています。

広大な敷地に広がる館や庭園は現在ノッティンガム市の管理下に

 

サフォーク州にベリー・セント・エドマンズという、とてもイギリス的な雰囲気に満ちあふれた町があります。イースト・アングリア王国(918年イングランドに併合)最後の王セント・エドマンズが殉教して埋葬されたといういわれがあり、11世紀に建てられた修道院は巡礼地として人気を博しました。

ベリー・セント・エドマンズの廃虚

 

地名がちょっと不思議な感じですが、「ベリー」はゲルマン語系が語源の‟borough”という町を表す語に由来するようです。修道院はやはり宗教改革の折に破壊されましたが、廃虚となった今も町の真ん中で存在を主張し続けています。イングランドで3番目に古い劇場の現存する町でもあります。

1214年、貴族が国王にマグナカルタの批准を迫った来歴が銘板に記されています

 

廃虚は地方だけに残っているわけではなく、大都会ロンドンにも散見されます。商業地区のザ・シティでも斬新なデザインの未来的な建築群に埋もれるように、中世のロンドンを取り囲んでいた城壁の一部が目にとまります。テムズ川南岸にも、ロンドン・ブリッジからほど近いところにウィンチェスター主教の住居だったウィンチェスター・パレスの跡があります。19世紀初めの火災で焼失した大ホールの遺構に残った14世紀のバラ窓が、昔の壮麗な居宅のたたずまいをしのばせます。

ウィンチェスター・パレスの遺構に残されたバラ窓

 

ケニルワースの城――つわものどもが夢の跡

私が青山学院大学の学生だった40年以上も前の話ですが、恩師に勧められ訪れたイギリスの名勝の中で、一番強い印象を受けたのはケニルワースの城の廃虚でした。

ケニルワース城の全景

 

ケニルワースはイングランド中部のウォリックシャーにある町です。1120年代という中世に歴史を遡ります。当時強大な軍事力を誇っていたウォリック伯爵を牽制しようと、時の国王ヘンリー一世がその居城であるウォリック城の目と鼻の先の町ケニルワースに建てた城が起源だそうです。

城のキープ(天守)

 

話は一気に16世紀のルネサンス期へと飛びます。強大な絶対王政を確立したヘンリー八世の息子エドワード六世が15歳の若さで死去すると、後見人ノーサンバランド公ジョン・ダドリーは権力を握ろうと暗躍。彼は王家の血筋をひくジェイン・グレイを女王に推戴(すいたい)し、自分の息子ギルフォードをジェインと結婚させたのです。

しかし、ヘンリー八世の長女メアリーが貴族や民衆の支持を得て、王位の正統性を主張したため、ノーサンバランド公のもくろみはあえなく挫折。ジェインは女王在位わずか9日にして、首謀者たちとロンドン塔で処刑されました。新しく即位した女王メアリーは、その後の苛烈な宗教弾圧によって、ブラディ・メアリー(血まみれのメアリー)との芳しくないあだ名で歴史に名を残します。

 

エリザベス女王と恋におちたロバート・ダドリー

大逆罪で処刑されたノーサンバランド公の遺児の1人ロバート・ダドリーは、新しいメアリー女王の時代には不遇をかこつ身となりました。メアリーの異母妹エリザベスも姉の憎しみを一身に受けて、命すら狙われる始末でした。同じように身の危険にさらされて育った2人はいわば気心の知れた幼なじみ。眉目秀麗の貴公子ロバートとエリザベスはいつしか恋を語らう仲になったのです。

Robert Dudley, 1st Earl of Leicester by Unknown Anglo-Netherlandish artist
oil on panel, circa 1575 NPG 447 © National Portrait Gallery, London

 

メアリーが病没すると、次にエリザベスが王位を継ぐことになりました。ロバート・ダドリーが、エリザベス女王との結婚を夢見たとしてもおかしくはありません。しかし2人の婚姻を阻む大きな問題がありました。ロバートにはすでに妻がいたのです! 彼の妻エイミー・ロブサートは1560年に滞在先の館で階段から謎の転落死を遂げます。事故か、自殺か、それとも、、、? 妻の死はロバートにとってはもっけの幸いというわけで、彼には疑惑の目が向けられることになりました。

今日ならワイドショーの格好のネタになりそうな大スキャンダルです。実際、この一件が遠因となって、女王はロバートとの結婚を断念せざるを得ませんでした。もっともロバートは女王の寵愛を完全に失ったわけではなく、その後、初代レスター伯爵という爵位とケニルワースの城を与えられます。19世紀の詩人・作家ウォルター・スコットは、小説『ケニルワースの城』において、ロバートの妻エイミーの悲劇的な運命をメロドラマチックに描いています。

 

ケニルワース城の饗宴

当時、女王エリザベスには大勢の家臣団を連れて、イングランド各地を巡幸(じゅんこう)する習わしがありました。女王の巡幸は自らのカリスマ性を世に知らしめる政治的なイベントで、地元の有力貴族に女王歓迎のための大金を出費させるのも狙いのひとつだったといわれます。江戸時代の参勤交代に似ていなくもないですね。女王の方から貴族の元を訪ねるので、大名に江戸と所領を往復させる大名行列とは微妙に異なりますが。

Queen Elizabeth I by Nicholas Hilliard oil on panel, circa 1575
NPG 190 © National Portrait Gallery, London

 

1575年のこと。ロバートはエリザベス女王を自分の居城ケニルワースに迎え、贅の限りを尽くす歓待をしました。19日間におよぶ、かつて例のない大宴会や行事が催されました。芝居好きのロバート・ダドリーは、自らの爵位を名乗らせた劇団「レスター伯一座」のパトロンでした。女王陛下を迎えた御前芝居も自分の劇団に上演させています。劇作家のシェイクスピアは近隣の村の出身で、当時まだ11歳の少年でしたが、ケニルワースまで女王の来駕を見物に来て、豪勢な出し物に夢中になったのではないかと、想像をたくましくしたいところです。

エリザベスの庭園。現在は16世紀風に復元され、花の咲き乱れる庭に

 

この時の女王のケニルワース巡幸は、ロバートが女王の愛を得るために最後の賭けに出たものといわれます。しかし、自身の乱脈な女性関係に加え、王と廷臣という関係もからんで、ロバートの思うようにはいきません。しかも彼はよりによってエリザベスの母親(アン・ブーリン)の姉の孫にあたる若い女性レティス・ノウルズと愛人関係になります(2人は後に結婚します)。この恋はエリザベスをカンカンに怒らせてしまいます。

「私はイングランドと結婚する」と宣言したほどの女王エリザベス。スペインの無敵艦隊が来襲するという国難のさなか、独身を貫く人生を選びました。エリザベスとロバートの恋は、やんぬるかな、一筋縄にはいきませんでした。まさにイギリスが無敵艦隊を撃退した1588年、ロバートは失意のうちに病死します。恋と政治のはざまで、権力闘争にあけくれ、時代の荒波を泳ぎぬいた波乱の人生でした。

城の内部を見まわして

 

ロバートの死後、50年ほど経って勃発したピューリタン革命の戦いの中、王党派の根城となったケニルワースの城は、議会派の攻撃によって破壊され、今日の変わり果てた姿になりました。そして、現在は歴史的建造物の保存を主旨とするイングリッシュ・ヘリテージの管理のもと、いにしえの栄耀栄華の名残を静かにたたえています。

インナー・ベイリー(城郭の中庭)に立って

 

かつて城は周囲を湖に囲まれていましたが、今日では美しい田園地帯が広がっています

 

[Photo:佐久間 康夫、Portrait : National Portrait Gallery]

 

紹介した本
ウォルター・スコット著、朱牟田夏雄訳『ケニルワースの城』(集英社 1979)

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