私の足のともしび 【第5回「9.11」】
2025/10/15
その日、私はいつもより1時間ほど遅く午前8時半ごろの電車に乗って出勤した。夏休みに子どもたちと慣れないテニスをやった際に腰を捻って腰痛になり、駅前のカイロプラクティックでマッサージをしてもらってから出勤したのだ。電車の中でいつものように椅子に座りながらパソコンを開いて仕事をしていた時だった。携帯電話で話しながら前の車両から入ってきた40代ぐらいの女性が突然大声で叫び出した。弟が乗った飛行機がハイジャックされたというようなことを言っていた。
マンハッタンの街中では大声を出す人をたまに見かけるが、通勤電車の中ではあまり見かけない。何が起きたんだろうと思いながら仕事を続けていると、電車のスピードが落ちて、マンハッタンに入るだいぶ手前のところで数分間停止した。そこは、ちょうど電車からマンハッタンの様子が良く見えるところだった。目を上げて車窓を通して見ると、世界貿易センタービルの上部から灰色の煙のようなものが立ち上っていた。何があったのだろうかと思いながらも、電車に同乗していた人たちに変化はなく、車内は普段と変わらない雰囲気であった。間もなく電車は動き出し、いつもよりノロノロと、しかし何事もなかったように終点のグランドセントラル駅に到着した。
駅や街の様子も普段と変わらない雰囲気だったので、いつものように歩いて国連に向かった。しかし、地図課の部屋を開けた瞬間、普段と違う雰囲気に驚いた。職員たちが7インチぐらいの小型モノクロテレビをどこからか持ち出してきてみんなで見ていたのである。何があったのかと聞くと、まだ知らないのか、というような顔つきで世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだことを教えてくれた。私もテレビに映し出される映像に釘付けになり、電車で見た煙はこれだったのかと思った。その時はすでに北棟と南棟の両方のビルに大型旅客機が突っ込んでいて、単なる事故ではないことが明らかだった。しかも、ペンタゴンにも旅客機が突っ込んだようだというニュースも飛び込んできていた。
とは言え、テレビばかりを見ているわけにもいかず、気が落ち着かないまま自分の部屋に入ってメールチェックなどいつものことから始めて仕事に集中しようとしていた。しかし、しばらくすると私の秘書的な存在で課内唯一の事務職員が血相を変えて私の部屋に飛び込んできた。何事かと思えば、世界貿易センタービルが崩壊したと言うのである。私は咄嗟に「まさかそんなことが起こるはずはないから、何かの間違いだろう」と言ってしまった。しかし、あまりに彼女が真顔なので、テレビを見に行くとその様子が映し出されており、大変なことになったと直感した。
世界貿易センタービルには、いつか入ってみたいと思っていたのだが、まだ赴任1年目だったため、その機会を持てていなかった。ただし、テロ事件の1カ月ほど前に日本から友人家族が来た際に、一緒にマンハッタンのバスツアーに参加し、ビルのそばを通り過ぎながら下から見上げ、その大きさに圧倒されていた。その大きなビルが2棟とも一瞬にして崩れ去ったのは、テロの恐ろしさとともに、文明のもろさを思い知らされた気がした。
そのような状況だったので仕事ができる雰囲気ではないな、と思いながらも自分の部屋に戻って仕事を再開した時だった。今度はハイジャックされた別の旅客機が国連を狙っているかもしれない、という情報が国連に入ったらしく、全職員に対して退去命令が出された。
国連から退去するなら家に帰るしかないので、駅に行って電車の運行状況を確認すると、案の定電車は動いていなかった。運行再開まで時間がかかりそうだったので途中で一緒になった顔見知りの日本人国連職員と一緒に駅そばのカフェに入って、その日起きたことを振り返り、何が起こったのかを話していた。
14時ごろになってやっと電車が動き出すという情報が入ったので、最初の電車に乗ってみた。日本の満員電車ほどではなかったが、車内は混雑していて多くのビジネスマンが立ったまま乗っていた。しかし、普段だったらお喋りで賑やかなはずの車内は、誰一人として声を発しない無言の空間となっていた。
みんなうつむき加減で、何が起きたかを消化しようとしているようであり、テロ攻撃の衝撃で茫然自失となっているようでもあった。そして、彼らの足元を見てさらに驚いた。彼らの革靴が細かい灰のようなもので真っ白になっていたのだ。崩壊した世界貿易センタービルの近くから逃げてきたのだろう。彼らが受けた精神的な衝撃を考えるとかける言葉が思いつかなかった。改めて事の重大さを肌で感じる経験であった。
世界貿易センタービルには、日本の銀行などのオフィスがあったため、テロ被害に遭われた日本人も少なくなかった。私の次男は当時日本の小学6年生になり、自宅近くのミドルスクールに通い始めたところだったが、同じ学校に通う日本人の親が何人か犠牲になった。
その後世界貿易センタービルの跡地には、内側の壁を水が滝となって静かに流れ落ちる四角形の「プール」が2カ所設置された。そのプールの4辺には犠牲者の名前が刻まれ、所どころ日本人と思われる犠牲者の名前が刻まれている。突然の出来事で、遺族の方々が受けた衝撃の大きさはもちろん、特に次男と彼の同年代の子どもたちへのインパクトは私の想像を超えていた。
自分の子どもたちにも何らかの影響があったのだろうかと気にはなった。しかし、現地のミドルスクールに入ったばかりの次男や小学校に通っていた三男は、別の問題に直面していて、家内と私もその対応に毎日かなりの時間をかける必要があった。そのため、正直なところテロの影響を考えている余裕はあまりなかった。
日本のゆとり教育真っ盛りの小学校に通っていた次男と三男は、渡米前まで家で宿題をしたことがなかった。すべて学校で終わらせてきていたらしい。家に帰るなりランドセルを放り投げて近所の友達の家に遊びに行くのが日課になっていた。
ところが、現地校に入ってからは事情が全く変わってしまった。特に、ミドルスクールに入った次男は、言葉の問題に加えて毎日結構な量の宿題が出されたため、平日は日付が変わるころまで毎日親が手伝いながら宿題に取り組む日が続いた。中でも驚いたのは読書量の多さである。日本なら大学生でも尻込みするような200ページ程度のペーパーバックを2カ月に1冊の割合で読ませられたのだ。日本であれば、小学6年生に文庫本の小説を年間4、5冊読ませるようなことなのであろう。正直なところ、このままゆとり教育を続けていては、日本は将来アメリカに負けるのではないかと感じた。
もっとも、英語が母国語ではない子どもは、英語補修(ESL: English as a Second Language)クラスに行く必要があったため、宿題は無理しなくてもよい、と学校の担任からは言われていた。しかし、本人は何とか周りに追いつきたかったらしく、時には泣きながら宿題に取り組んだ。家内も単語の意味を教えながら付きっ切りでペーパーバックを一緒に読む日が数カ月続いた。
しかし、幸いなことに2、3冊ぐらい読んだところで、本人もだいぶ理解できるようになり、家内が手伝う必要はなくなっていった。ESLも1年で卒業試験に合格でき、2年目からは宿題をほぼ一人でできるようになったのは感謝なことであった。
他の駐在員家族の様子を聴くと、子どもによって上手く適応できる場合とできない場合があって、ご苦労されているご家族もいらした。もっとも、駐在員家族の多くは子どもが小さいうちに一度駐在を経験していて、駐在生活に慣れているご家族が多かった。派遣する企業側も戦略的に自社の戦士たちを育成しているのだと痛感した。
一方、三男は現地校になかなか適応できず、半ば拒否反応を示していた。渡米当時はまだ小学3年生で、英語にも一番早く適応してくれるだろうと想定していたが、実際には一番適応に苦労した。さらに、時々早く日本に帰りたいと言って泣いていた。親の転勤は、子どもの人生に少なからず影響する。転勤先が海外ともなればなおさらである。三男の涙に接するたびに、国連への転勤は間違いだったのだろうかという疑問が湧いてきた。しかし、そのたびに励みになったのが、新約聖書のローマの信徒への手紙第8章28節の御言葉であった。
幸い、三男はその後、人気漫画をきっかけに囲碁に興味を持つようになり、前向きに学校生活を送るようになった。本人の熱意に押されてマンハッタンの日本人囲碁クラブやニュージャージー州の囲碁教室にも何度か連れていったりした。彼は日本に帰国後も囲碁を続け、大学在学中に囲碁が強い韓国に1年間留学した。帰ってきたときには、韓国語はもちろんペラペラでパソコンのOSは韓国語になり、米国滞在中は大嫌いだった英語も家族で一番上手になっていた。子育ての難しさと同時に、子どもの可能性の大きさを痛感する経験であった。
米国生活も1年目の終わりごろになると、子どもたちの教育問題は改善に向かい始めていた。しかし、やっと落ち着いた生活ができるだろうと期待し始めた矢先、想定外の事態に直面した。突然家主が家を建て直すために賃貸契約を1年で打ち切ると不動産屋を通して連絡してきたのである。日本と違ってアメリカでは家主の立場が強く、借主の都合は尊重されない。連絡があった直後には、勝手に重機が前庭に置かれて、庭の木を処分し始めた。そのため、またしても家探しが必要になったのだが、今回も良い物件はすぐには見つからなかった。
長年地元に住んでいる日本人の助言で日系の不動産屋に問い合わせたところ、良い物件を紹介してもらうことができた。しかし、そこに入居できるのはそれまでの賃貸契約が切れてから2カ月後であった。そのため、どうしても2カ月間だけ短期で生活する家が必要になった。しかし、そんな都合の良い家は簡単に見つかるわけではない。
結局数年は人が住んでいなかっただろうと思われる「幽霊屋敷」に一時的に引っ越すことになり、家内と私は少々気落ちした。日中仕事をしていた私は気分転換ができたが、終日「幽霊屋敷」にいた家内には申し訳なかった。それでも、何とかその2カ月を乗り切って、日系不動産屋の仲介で再度引っ越した家は快適なところで、本帰国になるまで生活することができた。駅にも徒歩で行くことができたので、駅まで車で送迎してくれていた家内の負担も軽くなった。
テロ事件や子どもの教育、2度の引っ越しなど、想定外のことが続いた国連勤務1年目だった。しかし、実は私は仕事の面でも冒頭から想定外なことに直面していたのだった。