Column コラム

私の足のともしび 【第3回「地球地図」】

青山学院大学地球社会共生学部教授

村上 広史

 

地球サミット時代の新施策

霞が関出向2年目の1992年は、ブラジルのリオデジャネイロで「国連環境開発会議」(地球サミット)が開催された年であった。霞が関の中央官庁でもさまざまな施策が検討され、多くの職員がリオに出張した。私が当時出向していた建設省国際課においても、新規施策を補佐級の職員である海外協力官(以下、協力官)が発案し、課内で検討していた。もっとも、新規施策の検討は毎年度当初に行われ、次年度の概算要求に繋げるのが通常の業務パターンであった。そのため、その年は地球サミットのテーマである持続可能な開発に貢献する施策案を協力官が考えることになっていたのである。

 

一方、当時私の担当業務の一つは、JICA(国際協力事業団、現在の国際協力機構)の途上国地形図作成事業を支援することであった。そして、途上国から研修員として来日した技術者からは、必ずと言ってよいほど「地図がない」とか、「旧宗主国が作成した古い地図のままだ」という話を聞いていた。そのため、一定の品質の地図が未整備のままで、地球環境の時間変化や地域間の違いを定量的に把握したり比較したりできるのだろうか、と疑問に思っていた。そこで、統一仕様に基づく地球全体の地図整備を行うことを新規施策として提案しようと考えた。

 

JICA集団研修で出会った途上国の地図専門家(後列右端が筆者)

 

もちろん、そんな提案はあまりにも非現実的であり、普通の役人であれば一笑に付してしまうような絵空事である。しかも、そのような大それた提案をするのであれば、類似した取り組みの有無や過去のプロジェクトなどの先行事例を十分調査しておくべきであろう。しかし、インターネットが普及する前のことで、入手できる情報も限られていたことと、提案をまとめるための時間的な制約もあり、調査が不十分なままの提案となった。しかも、協力官が考えた施策案に対する当時の国際課長の口癖は、「お前らのアイデアは、地に足がめり込んでおる。地から足が浮いている案を持ってこい」だった。それは、既存の常識に囚われずに、未来に繋がる施策を自由な発想で考えよ、という意味なのだろうと私なりに解釈していた。そのため、非常識なぐらいの提案がちょうどよいのだろうと考えたのである。

 

 

地球地図整備構想の誕生

4月末には課内ヒアリングが会議室で行われ、4人の協力官はそれぞれが準備した新規施策案を順番に課長に説明した。会議室と言えば、通常はテーブルと椅子がある部屋になるが、その時は通常の会議室がすべて塞がっていたらしく、畳敷きの部屋でのヒアリングとなった。そのため、普段の会議とは異なる雰囲気の会議であった。先輩協力官たちが先に説明したが、「地に足がめり込んでおる」という課長のコメントを何度か聞かされることになった。ところが、私の番になって一通り説明し終わった時、課長がいつもより低い声で「国土地理院はやる気があるのか」と言った。それまでのざっくばらんな口調から急に真面目な声色になったことで圧力を感じた私は、その圧に押されてとっさに「大丈夫です」と答えてしまった。実は、自分の出身元の国土地理院への根回しなど一切していなかった。そのあとの課長とのやり取りは、某国の政治家ではないが記憶に残っていない。

 

会議室から執務室に戻った時、課長は機嫌が良かった。課長席の前のソファに呼び出された私は、課長の口から次々と出る指示を必死にメモっていた。課長の頭からは次々とアイデアが湧き出しているようであった。地球全体の地図を統一仕様で作成する、というコンセプトが気に入ったらしい。施策の名称も課長のアイデアで「地球地図整備構想」と即決した。斯くして、2年目になって少しは余裕を持って仕事ができることを期待していた私は、新たなプロジェクトに取り組むことになり、1年目以上に忙しくなったのである。

 

 

国内関係機関への協力依頼・調整

どんなに素晴らしい施策でも、単独の部署や組織だけでは実現できない。特に、本構想の内容を具体化するための技術的な拠り所である国土地理院の協力は欠かせなかった。しかし、事前の根回しなしに、新規施策の推進をこちらで勝手に決めていたため、事後承諾という行政組織としてはあるまじき状況での協力依頼になった。初めて聞いた担当者は寝耳に水であったであろう。しかし、幹部も含めて国土地理院の方々には構想の趣旨を理解してもらうことができ、前向きに対応してもらえることになった。ただし、構想の旗を振っているのは霞が関の本省であるため、国土地理院に対しては上意下達的な形で仕事を依頼することが多くなった。その結果として、担当していただいた方々にはご苦労をおかけするとともに、大変お世話になった。逆の立場に立てば、霞が関から余計な仕事が急に降ってきたということになるわけで、申し訳ない気持ちで一杯になりながら仕事を依頼したのを覚えている。

 

一方、地球規模の構想を実現していこうとすると、身内の国土地理院だけでなく、組織外の関係機関からの協力も不可欠になる。したがって、関係省庁への協力依頼などのため、課長のお供で動き回ることになった。地球環境問題においては環境と外交が重要になるので、関係する省庁に構想内容を説明して助言を求め、協力可能な既存施策の有無などを尋ねた。しかし、外交辞令的なコメントが中心で、積極的に協力しようという反応はなかった。どちらかというと環境保全とは対極に位置し、超ドメスティックな組織が地球環境問題に役立つ取り組みを始めようとしたのであるから、当然の反応であった。

 

普通の役人ならそこで落胆し、施策を変更するか、施策そのものを断念するという判断をしたであろう。しかし、その時の課長は落胆するどころか、関係者から新たな知見を得たという認識で、ますます意気軒昂に新規施策の推進に邁進していったのである。そこには、世の中で良く言われる「最後まで諦めるな」といった根性論的要素も多少はあったかもしれない。しかし、印象として強く残ったのは、施策のあるべき姿を追求しようとする純粋な探求心と、改善点を素直に認めつつ行動する謙虚さであった。そして、このことを可能にしたのは、本当に国のためになることを行おうという課長の姿勢であったように思う。個人の願望や打算だけではできない行動であろう。国家公務員として非常に大事なことを教えられた経験であった。

 

このようにして関係省庁のそれぞれの立場を明らかにすることができた。しかし、行政機関のアイデアや立場だけで新規施策を進めては、必要性や実効性に関して検討が不十分になる可能性がある。そこで、関係分野の外部専門家で構成される委員会を設置して助言を求めるのが、行政を行う上では常套手段である。地球地図整備構想についても、理念の取りまとめや利用者の立場での仕様案の検討のために、地球規模のデータ整備や地球環境研究、そして広報の専門家による懇談会を実施し、委員会を設置した。このような会議では、会議中はもちろん、事前の打ち合わせや会議前後の時間に高名な専門家の方々と直接お話する機会が与えられるので大きな刺激になる。国家公務員として仕事をする上での醍醐味でもある。

 

 

国連会議への参加

地球地図整備構想が国際協力プロジェクトとして動き出すためには、国内と並行して国際会議などでの協力依頼をはじめとしたプロモーションも欠かせない。特に、国連の会議で議論され決議文案に明記されれば「お墨付き」をいただいたことになる。そこで、地球地図を決議文案に明記してもらうことをめざし、1993年1月初めに米国ニューヨークの国連本部で開催された国連アメリカ地域地図会議に参加することになった。この会議は、南北アメリカ地域内の途上国の地図整備促進を図るために、経済社会理事会の下に設置され、4年ごとに5日間開催されていた。参加国の中心は当然南北アメリカ諸国だが、欧州はじめ他の地域からの参加も可能な会議であった。この会議の他にアジア太平洋地域のための地図会議が3年ごとに開催されていたが、そちらは直近の開催が1994年であったため、最初にアメリカ地域の会議に参加することになったのである。

 

しかし、そもそも国連の会議に参加すること自体が初めての経験だった私には、不安だらけの出張となった。そして、その不安は的中した。私の発表は、記憶によれば会議の2日目で、午前10時に始まるセッションの3番目に予定されていた。しかし、前夜不覚にも目覚まし時計のセットを忘れていたらしい。夜明けが遅い真冬のニューヨークのまだ暗いホテルで目を覚まし時計を見ると、午前9時15分過ぎであった。発表を逃せば日本に戻る顔はないな、などと思いながら慌てて飛び起きた。そして、冷たい雨が降る薄暗いマンハッタンの街なかを急いで通り抜け、ホテルから7ブロックほど先の国連本部へと急いだ。会議場に駆け込んだのは午前10時20分ごろだった。幸い国連時間で会議が定刻には始まらなかったらしく、まだ最初の発表者が発表しているところだった。その時の安堵感は一生忘れないだろう。しかも、私の直前の発表が突如キャンセルになったため、到着後まもなく発表することになり、まさにぎりぎりセーフのタイミングだった。

 

発表後、二人の参加者から質問を受けた。一人は米国国防総省の国防地図局(現在の国家地理空間情報局)の方で、米国による同様の地球規模のデータ整備との関係はどうなるのか、という趣旨の質問だった。事前に相談されずにいきなり国連の会議で発表されたので驚かれたのであろう。とりあえず、国際協力による整備を進めるという地球地図整備構想の趣旨を説明して理解を求めた。追加の質問やコメントはなかったものの、米国を敵に回しては期待していた決議文への賛同は得られない。そこで、後日のレセプションで、米国の取り組みと競合しようとするものではないことを直接本人に改めて説明した。彼はにこやかに応対してくれたのでひと安心であった。

 

一方、もう一人の質問者は、地理学で国際的に有名な大学教授で、この会議でも何度かセッションの議長を務め、英語、フランス語、スペイン語を操りながら巧みに議事進行を行うなど会議の中心的な存在であった。100年ほど前に国際学会が同様な構想の実現に取り組んだものの、完成できずに中止したが、今回の日本の提案は何が違うのか、と彼は質問した。地球環境問題への対処の必要性が国際的に認知されるようになり、当時に比べ国際協力の可能性が高まったという趣旨の説明をしたと思う。どちらの質問者も、遠く離れた日本からやってきた30代半ばの若造が突然何を言い出すのかと真意を測りかねていたのだろう。国連会議常連の大御所から見れば当然のリアクションであった。

 

一方、参加目的であった決議文案に地球地図を明記する件は達成できなかった。決議文案の取りまとめ過程すら知らないまま初めて国連会議に参加したので、やむを得ない結果である。しかし、「国連は、地球環境に役立つ最新のデジタル地理情報を整備するよう各国に促すべき」という文言を盛り込むことができた。理想通りの結果ではなかったが、地球地図のプロモーションという点では半歩前進となった。

 

 

想定外の出会い

米国出張の機会を最大限に活用するため、国連会議の終了後はワシントンD. C. 近郊の米国地質調査所(USGS)に向かった。USGSの地図局は、地図整備に関して当時世界的に最も進んだ取り組みをしていた。そのため、構想に何らかの協力を得られれば、その実現に向けて大きな追い風になるという思惑があったのである。

 

USGSを訪問してみると、若輩者が訪問したにもかかわらず、地図局の幹部が打ち合わせに参加し、私の話を熱心に聞いてくれた。しかし、具体的な協力や助言については、特段のコメントもないまま打ち合わせは終了した。そして、半ばあきらめに似た気持ちで会議室を出てホテルに帰ろうとした時だった。打ち合わせに同席していた50代と思われる男性が近づいてきて、自分も同様の構想を持って活動しているので一緒にやらないかと話しかけてきた。その男性は、カリフォルニア大学サンタバーバラ校のJohn E. Estes教授であった。なぜ西海岸の大学教授が東部のUSGSという連邦政府機関にいたかというと、彼が当時技術顧問として地図局幹部と定期的に一緒に仕事をしていたからであった。私がUSGSを訪問した時もちょうどUSGSに滞在しており、私の話を聞いていたのだ。恥ずかしながら、私はその時彼のことを全く知らなかった。そして、この出会いが、地球地図整備構想を実現に向けて大きく前進させることになった。彼は地理の分野で世界的に有名なだけでなく、人格的にも非常に尊敬されていて、国際的な協力を進めていく上で不可欠な人物だったからである。もし、私がUSGSを訪問した時に彼がその場にいなかったら、地球地図整備構想が日本発の国際協力プロジェクトとして離陸することはできなかったであろう。

 

米国地質調査所(USGS)でお会いした時のJohn Estes教授

 

 

国際プロジェクトの始動

その後、当時出雲市長をされていた岩國哲人氏が構想の趣旨に賛同してくださり、Estes教授が参加する国際会議を出雲市で開催してくださるなど、国内でも協力の輪が広がっていった。岩國氏は、その後国会議員になられたが、国会でもご自身の貴重な質問時間を使って、しばしば地球地図整備の重要性を訴える質問をしてくださった。出雲市の国際会議の2年後には、2回目の国際会議を国内で開催し、Estes教授を委員長とする国際委員会を設置することができた。この委員会では、各国の地図作成機関や関係国際機関、民間企業から参加した委員によって地球地図の技術仕様などが議論された。Estes教授の卓越したリーダーシップとともに、委員全員がEstes教授に敬意を払いながら議論に参加していたのが印象的であった。

 

さらに、その後まもなく、国連事務局から地球地図整備構想への参加奨励レターが加盟国に送付されたことなどにより、最終的に184の国や地域が地球地図整備に協力するプロジェクトになった。Estes教授には、これらの会議で何度もお会いし、個人的に自宅にも招いていただいた。しかし、大変残念なことに、2001年に病気で突然亡くなられた。多くの関係者から彼の死を悼む声を聞いた。専門家として世の中に貢献する上で、豊富な専門知識や経験を有していることは当然だが、人格面での魅力が重要であることを彼を通して教えられたのは貴重な経験であった。

 

Estes教授の自宅でスポーツカーの運転席に乗せてもらった筆者

 

一方、プロジェクトの具体的な前進のためには、構想のプロモーションに加え、自らの力で地図整備を行うことが難しい途上国へのデジタル地図作成技術支援も欠かせなかった。そのため、JICAに新たな集団研修を創設していただくことで、多くの途上国技術者に技術移転を行うことができた。当初私はこの研修の重要性については十分理解できていなかった。しかし、地図のデータは一度整備すればそれで終わりというわけではない。開発などにより地表の様子は変化するため、随時データの更新が必要となる。したがって、初期データ整備だけでなく、その更新を持続可能な形で行えるような人的資源及び資金がなければ、地球環境の変化を監視していくことは困難になる。JICAの集団研修は、そのために必要な技術移転に大いに役立ったようである。その後の国際会議で途上国の方々にお会いした時、研修に参加できたことを何度も感謝された。

 

 

プロジェクトの終息

しかし、技術革新がこのような状況にも変化をもたらしつつある。特に、人工衛星による地球観測の進展と、記録媒体の容量やデータ処理能力の向上は、目を見張るものがある。例えば、1990年代半ばに米国の人工衛星による地球観測データを受信する施設を訪問し、データサーバの部屋を見学した時のことである。そこには、天井まで届くほどの高さがある直径数mの円筒形のデータサーバが置かれていて、担当者が20TB(テラバイト)の容量があると自慢げに話していた。しかし、最近は単体で容量20TBのハードディスクがパソコン用に販売されている。また、地球規模のデータの処理能力やウェブ上でのデータ活用技術も大きく前進した。そして、民間企業による地球規模の詳細なデータ整備やビジネス活用も進展した。

 

もともと地球地図は、縮尺100万分の1のデジタル地図を各国が協力して整備することを前提に国際会議等で協力を呼び掛けていた。しかし、さまざまな主体による地球規模の詳細なデータ整備とその活用が進む中で、地球地図の役割が収束に近づいたことを踏まえ、2016年にプロジェクトの終息を決定した。主権国家にとって、領土の地図を自ら整備・維持することは極めて重要なため、途上国も含めて自国の地図を自ら整備・更新できるところまで達成できなかったのは心残りである。しかし、構想立ち上げから、その終息の決定に至るまで関わることができたのは幸いなことであった。

 

最初の一歩

この経験を振り返るたびに考えるのが、最初に構想を提案した時の国際課長がごく普通のお役人だったらどうなっていただろうということである。多分、一笑に付されて終わってしまい、何も起きなかったであろう。ところが、非常識な構想であったにもかかわらず、当時の国際課長は大胆にも最初の一歩を踏み出したのである。石橋を叩いても渡らないのがお役人と思われがちだが、彼は違っていた。その結果、どんどん道が切り開かれていった。そして、それを実際に体験できたのは貴重な経験であった。少々大袈裟だが、ハリウッド映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で、インディが橋のない断崖絶壁から一歩踏み出した瞬間に初めて橋が現れたシーンに似た感覚であった。それは新約聖書のへブライ人への手紙第11章1節に基づいて、信仰によって歩むということがどんなことかを体験することでもあったように思う。

 

また、このプロジェクトに関わるまで、個人的には国際的な仕事に特段興味があったわけではなかったし、向いているとも思っていなかった。しかし、このプロジェクトを通して、国連の会議に出席し、国際会議を主催するという過程で、多少なりとも国際的な経験を積むことになった。そして、数年後には、その経験がまた想定外の道を開くことになったのである。