そぞろ歩きノッティング・ヒル【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第11回】
2021/07/09
ロンドンは色々な顔を私たちに見せてくれます。都会にあるとは思えないほど広大なハイド・パーク、エリザベス女王の住居バッキンガム宮殿、歴史上の人物が断頭台の露と消えたロンドン塔、人類の至宝を所蔵する大英博物館、17世紀以来上演の続けられるドルーリー・レーン劇場などなど。
「ロンドンに飽きた人は、人生に飽きた人である。ロンドンには人生が与えうる全てのものがあるからだ」。この名文句を残したのは、18世紀の文豪サミュエル・ジョンソン(通称ジョンソン博士)です。博士の周りには文壇の人々が集い、談論風発のサロンが形成されました。彼は詩や小説や戯曲も残しましたが、何といっても、かつてない構想の『英語辞典』(1755)を作ったことで記憶されています。
ジョンソン博士は、この英語の辞書を病苦と貧窮にあえぎながら、独力で完成させました。定義や用例が高く評価される一方、彼の強烈な個性が反映されていることでも有名です。例えば「オート麦」(“oats”)の項では、「イングランドでは普通は馬の飼料だが、スコットランドでは人の食用に供される」といった、今日なら物議をかもしそうな語釈も含まれています。
私は青山学院の学生時代に、恩師から「NEDを調べなさい」と口すっぱく注意されたものです。NEDとは『ニュー・イングリッシュ・ディクショナリー』の頭文字で、世界中の英単語すべてを収集した、権威ある辞書のこと。その後OED(『オックスフォード英語辞典』)と改称されますが、恩師の青年時代には、ジョンソンの『辞典』に比べて「新しい」ためNEDと呼ばれていたのです。ジョンソン博士の存在がいかに大きかったかの証でしょうね。
さて、日々何かしら新しい発見に出会える都市ロンドン。私はかの地に降り立つと、いつもジョンソン博士の冒頭の言葉を思い出すのですが、今回はそんなロンドンの名所の一つ、ノッティング・ヒルをご紹介しましょう。
ノッティング・ヒルとはロンドン西部の地区のこと。閑静な邸宅や歴史的建造物の並ぶケンジントンのほど近くに位置しています。ウィリアム王子ご一家がお住まいのケンジントン宮殿よりは西方。子どもの本で名高い『くまのパディントン』の主人公の命名の由来となったパディントン駅の南西に当たります。
ノッティング・ヒルの一帯は必ずしも高級住宅街というわけではなく、かつては賃貸料も安かったのか、芸術家や若者、それに海外からの移民が多く住みついて、どことなく下町の雰囲気を漂わせています。なかでもポートベロ・ロードを中心に毎週開催されるポートベロ・マーケットは大人気。アンティークからファンシーグッズまで、ありとあらゆる雑貨商が軒を並べる様は壮観ですが、つい狭い路地に入り込んでしまうとまず迷子になりそうです。
また、夏の終わりに数日間行われるノッティング・ヒル・カーニバルも近年は評判を呼んで、海外からも行楽客が押し寄せるようになりました。カリブ系の移民が中心のエキゾチックな祭りで、サンバ・カーニバルをイメージしてもらえると分かりやすいですね。私が訪れた数年前はロンドンの夏にしては珍しい猛暑で、騒然とした群衆の波にもまれるうち、撮影機材まで変調をきたしてしまいました。落ち着いた街並みにこの時期だけは熱狂的な興奮の渦が巻き起こり、ロンドンが多様な文化の織りなす都市であることに改めて気づかされます。
この町が国際的に有名になったのには、1999年に公開された映画『ノッティングヒルの恋人』の影響も大きかったと思います。実在する旅行書専門店を舞台に、しがない書店のオーナーとハリウッドの大女優が恋に落ちるという恋愛コメディです。スクリーンには四季折々のノッティング・ヒルの情景が見事にとらえられています。
映画のプロットは、恋人たちが紆余曲折を経て、結婚にいたるという喜劇の王道にのっとっています。女性の役柄の地位が高く、相手役の男性が一般市民という設定は、往年の名作『ローマの休日』を下敷きにしているのだと思います。実際、記者会見がクライマックスとなる点など、『ローマの休日』を文字通りなぞったもので、思わず笑いを禁じ得ません。書店主役のヒュー・グラントを相手に、大女優の役を演じたジュリア・ロバーツはここで一世一代の演技を見せてくれますが、それはかのオードリー・ヘップバーンに勝るとも劣らぬ千両役者ぶりです。
映画のオープニングでのヒロインは、いかにも大女優にふさわしい、つまりポーズとしての笑みを絶やしません。その彼女が、ラストシーンでは真実の恋に目覚めた一人の女性として、心からの笑顔を見せるのです。舞台であれ、映画であれ、私はこれほど素敵な笑顔に接したことがありません。この映画の最大の見どころはここにあるとさえ思います。
この映画でもう一つ忘れられないのは主題歌の“She”です。オリジナルはイギリスの70年代のテレビドラマの主題歌としてフランスの偉大なシャンソン歌手シャルル・アズナブールが作った曲です。これをイギリスの歌手エルビス・コステロがカバーして大ヒットしました。映画の冒頭にはアズナブールの歌うヴァージョンが流され、肝心の幕切れではコステロが歌うという憎い仕掛けで、胸を打つ名場面にいっそう花を添えています。
[Photo:佐久間 康夫]