Interview インタビュー あおやま すぴりっと

「映像」を通じて日本と中国をつなぐ〈卒業生・松田 奈月さん〉

学生時代に観た中国映画に魅了され、社会人生活を経て中国に留学した松田さん。そのまま中国で暮らして早20年、映像を通じて日本に中国を、そして中国に日本を伝える担い手として走り続けています。
多忙な日々の中で小説の執筆や映像制作にも取り組み、いずれも高い評価を得るなど、その活躍はとどまるところを知りません。
今回は仕事への情熱や日本と中国への思い、そして学生時代の思い出を語っていただきました。

(2019年1月17日インタビュー)

 

小学校から大学までいつも学校が好きだった

──松田さんは現在、上海で映像制作の仕事をされていらっしゃいます。映像の仕事は子どものころからの憧れだったのですか。
中学・高校時代は文芸部に所属し、青山学院大学でも日本文学科に入学しましたから、映像というより文章に関わるような仕事をしたいと思っていました。

中学・高校の文芸部では小説を書いたり、名作を戯曲にして文化祭で発表したりしました。文章を書くのが好きだったので、同じ趣味を持つ仲間たちと一緒に活動するのが楽しかったですね。文化祭の発表では女子校だったので男性役も演じたのですが、片や演劇部はさながら宝塚歌劇団のような華やかさ、一方の文芸部は何だか地味で(笑)。そのうえ「自分には演じる側の役者は向いていない」ということを実感しました。ただこの時の経験が、自分は今、役者さんに対して、それだけ大変なことを要求しているのだという自覚につながっています。

──日本文学を学ぼうと思われたのはなぜでしょう。
高校時代は太宰治と宮沢賢治が好きでしたが、実は理系を中心に学んでいて、文学を学問として学ぶという意識はあまり持っていませんでした。ところが理系の勉強につまずいてしまい、進路を改めて考えた時、日本文学で好きなことを学ぼうと思ったのです。

──大学の授業はいかがでしたか。
面白かったですね。高校までは「小説を読み、その内容を研究する」ことが文学を学ぶことだと思っていたのですが、もっと幅広いものだということを知りました。ゼミでは、自分たちで発見する楽しさを教えていただき、全文漢字で書かれている古事記を読み込んで、擬態語や擬音語を漢字で書くための試行錯誤を学んだことも忘れられない経験です。ほかには、出身の中学と高校がカトリックの学校だったということもあり、「キリスト教概論」でプロテスタントとの相違点がわかったことも勉強になりました。

また、日本文学に縁が深いということで、「中国文学」と第2外国語で「中国語」を選択しました。この中国語を、大学では4年間学ぶことができたんですよね。残念ながら語学力はさほど上達しなかったのですが、4年間学び続け、テキストも上級に進み、中国語に接し続けられたことは、本当にありがたいことだと思っています。

ゼミ
ゼミの活動で友人と(右が松田さん)

 

──学生生活はいかがでしょう。
もともと学校が好きなのです。誰もいない教室の雰囲気も好きで、それを味わうために朝早く登校することもありました。大学ではそれに学ぶ楽しさも加わったので、単位もフルに取ったほどです。専門分野だけではなく、興味のあることを幅広く学べるのがうれしくて……。これぞ大学の醍醐味ですね。しかもいくつ履修しても同じ授業料でいいなんて、なんてありがたいのだろうと、教職課程まで取っていました。

それだけぎっしり履修してもアルバイトをする時間もありましたし、長い休みには、所属したサイクリング部で北海道など遠方まで足を延ばしたことも良い思い出です。私の時代は、1・2年次が厚木キャンパス、3・4年次が青山キャンパスで、両方のキャンパスで過ごせたことも良かったです。充実した4年間を過ごせたおかげで、卒業してからも母校のことが気になります。駅伝など、母校が活躍している姿を見るとうれしくなりますね。

松田さんの大学時代

 

中国映画に惹かれ北京電影学院に留学

──大学卒業後は社会人生活を経て中国に留学されました。この留学が、松田さんの人生の大きなターニングポイントといえるかもしれませんね。
そうですね。北京電影学院で撮影技術を学びたくて留学をしたのですが、そのきっかけになったのは学生時代にはまった中国映画です。私が大学生の頃に、映画監督のウォン・カーウァイが登場して香港映画に新風を巻き起こしました。同じ時期、中国ではちょうど文化大革命が終わった後に映画を学んだ〝第五世代〟と呼ばれる映画監督たちが登場します。『紅いコーリャン』のチャン・イーモウ、『さらば、わが愛/覇王別姫』のチェン・カイコーなど、世界的にも有名な監督が続々と現れ、それまで邦画とハリウッド映画しか観たことのなかった私も、中国映画を観るようになりました。

大学で中国語を学んでいたことも影響しましたね。派手さはなくても人間をじっくりと描いた地に足のついた人間ドラマが多く、どんどん中国映画の魅力にはまっていくと同時に、映画の制作そのものにも興味を持つようになりました。そして、中国映画の監督やスタッフのほとんどが北京電影学院出身だということに気づき調べてみたところ、留学生も受け入れていることを知って「これだ!」と思いました。

とはいえ一度も中国に行ったことがなかったので、まずは卒業旅行で友人と一緒に約1カ月間、中国を旅行しました。その時に現地で受けたカルチャーショックは大きかったですね。パワーにも圧倒されたし、混とんとしているからこその面白さを感じつつも、中国についてわからないことが多すぎました。「実際に暮らしてみないとわからないだろう」と感じ、留学したいという思いが強まりました。

大学卒業後は外資系のマーケティング会社に勤め、3年間働いて留学費用を貯めました。そして1999年に、北京電影学院に留学。半年間、中国語語学クラスで勉強したあと、1年制の撮影学科に入学して撮影技術を学び始めました。

松田奈月さんインタビュー

 

──監督学科や脚本学科に進もうとは思われなかったのですか。
監督学科は基本的に留学生だけでクラスが構成されることになっていたので、中国の人たちと一緒に学びたいと思っていた私にはちょっと違うかなと感じました。脚本学科は特に考えていなかったのですが、脚本は中国語で書かなければならないので、相当苦労したと思います。撮影学科も授業は中国語でしたが、技術系の話が多いので機械の使い方などがなんとなくわかる分、まだ理解しやすかったですね。

撮影学科では5、6人に1台のカメラを与えられ、それを使って日々課題に取り組んでいました。同じものを撮っても人によって切り取り方がまるで違うので、グループで動くことで他の人の撮影の仕方を見ることができたことは勉強になりました。学校内で自主映画も作ることができ、ほかの学科の学生と一緒に制作したこともあります。中国人だけではなく、韓国やマレーシアなどの留学生と組んで作ることも面白かったですね。また、学内には映画館もあり、月曜日は中国映画2本立て、火曜日は海外映画2本立て、水曜日は卒業生の新作など、充実したラインナップを当時は無料で観ることができてありがたかったです。

──技術以外でも学ばれたことはありますか。
学びたいことを存分に学べる日々の中で痛切に感じたのは、〝待っているだけでは順番は回ってこない〟ということでした。日本人は順番を守るし、全員に平等に機会が与えられるよう、ほとんど無意識に気を配りますよね。しかし中国で同じ感覚でいると、いつまで経ってもカメラを手にすることはできません。気がつけば「私はまだ一度もカメラを持っていないのに、あの人はもう二度目」なんていうことが起こります。自分からアクションを起こすことの重要性を学びました。

──留学を終えても、そのまま現地に残り仕事を始められたそうですね。
中国の大学は基本的に全寮制なので、和気あいあいと楽しい一方で、ある意味閉ざされた社会でもあります。せっかく中国にいるのだから外の世界も見てみたいと思い、新聞広告で見つけた北京のテレビ制作会社で働き始めました。ところがロケが週に一度あるかないかという状態で(笑)。のんびりしすぎていてこれはまずいと思い、日系の広告代理店に転職しました。

転職先は広告業界だから映像の仕事があるかと思っていたのですが、実際の業務はマーケティングが中心でした。留学前に日本でしていた仕事にまた戻った感じで、「この仕事をするために中国に来たのかな」という思いはあったのですが、逆に日本で身につけたスキルを活かして中国で働けていると前向きに捉え、1年と少しの間働きました。

そうして中国に来て3年が経った頃、そろそろ帰国して日本で就職しようと思うようになりました。できれば中国の映像関係の仕事があればいいなと思いつつ、ネットで求人を探しながら日本へ送る荷物をまとめていた時に、日本のテレビ番組制作会社が上海の現地ディレクターを募集している求人を見つけたのです。すぐさま上海に面接に行って、経験もない仕事なのに「できます」と言って(笑)、採用してもらいました。北京から日本に送るつもりだった荷物はそのまま上海に送り、その後ずっと暮らしていますから、留学以来20年間、中国で生活していることになります。

短編映画「温時泉光」 紹興にて撮影
短編映画「温時泉光」 紹興にて撮影(2015年)
カメラの側に立つ松田さん