Column コラム

ハイ/ロー・カルチャー徒然帳〈5〉*もし君が勝利と破滅に出会い、この二人のペテン師を同等に扱えるなら …将棋とチェスと敗北と

*Rudyard Kipling, “If”
青山学院大学コミュニティ人間科学部教授

松村 伸一

キリスト教学校の広報誌で公表するのも憚られるが、日曜午前は将棋番組を観て過ごすことが多い。日常を離れた世界に浸ってホッとするわけだが、春先の将棋情報で、全日本学生将棋連盟の女流名人戦参加者のひとりとして青山学院大学の学生が紹介され、5月7日(2017年)の放送では番組司会のアイドルが大学将棋部を訪れて手合わせに挑んでいたのには、一驚した。学生たちが勝っても負けてもスマートなのは青学らしかった。文化系部活に光が当たるのは何だかうれしい。

昨年来、将棋界の話題が一般ニュースを賑わすことが多々あった。将棋ソフトがついに名人に勝ったとか、対局中にスマホを使用した不正疑惑が起きたとか(その後潔白と認定されたが)、暗いニュースもあった一方、中学生プロ棋士藤井聡太四段の誕生とその快進撃は大いに話題となった。また、夭折の棋士村山聖が病魔と闘いながら盤上に自分の存在を刻む姿を描いた『聖の青春』が映画化されたほか、羽海野チカの漫画『3月のライオン』も、アニメと実写映画になった。映画版は未見だが、名匠新房昭之監督によるアニメ作品のほうは、新房色の濃い演出(振り返る首のスローモーション、幾何学的な風景と手描き風の色面との対比)が、高校生棋士桐山零の愛おしくも苛烈な日常を見事に描き出していた。

現役で活躍中の日本の英文学研究者にも、高名な詰め将棋作家や元奨励会員がいたりする。英米文学にはチェスを重要なモチーフとする作品が少なくない。シェイクスピア最後の作『テンペスト』ではクライマックスで若い恋人たちがチェスに興じている。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』は物語の進行そのものがチェスの棋譜になぞらえられているし、サミュエル・ベケットの『マーフィー』には自閉症めいた奇妙な棋譜が出てくる。米国のエドガー・アラン・ポーにはチェスを指す自動人形を扱う短編があり、ウィリアム・フォークナーには戦型にちなんだタイトルの短編推理小説集『ナイツ・ギャンビット』がある。もっとも、私の知る最高のチェス小説としては、日本文学から小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』を挙げておきたい。

最も有名なチェス棋士といえばボビー・フィッシャーだろう。最近の浩瀚な伝記『完全なるチェス』は、2004年に成田空港で彼が逮捕される場面から幕を開ける。トビー・マグワイア主演の映画『完全なるチェックメイト』では、米ソ冷戦下、ソ連勢に勝利して栄光に包まれながら、孤独と狂気の淵へ足を踏み入れていく未来が暗示されていた。天才の栄光と悲惨は物語やゴシップの格好の素材だが、反ユダヤ主義にとりつかれた天才の盤外の言動を知れば知るほど暗澹たる思いがする。

Good loser というとあきらめの良い敗者の像が浮かぶが、負けたくないという強烈な思いもまた貴いものである。『3月のライオン』 では、覚悟のできた敗者は堂々としていて、最後まで緊張を強いられた勝者のほうが敗者めいて見えると主人公が語っていたが、テレビ対局では心の準備が間に合わないのか、がっくり落ち込む敗者を見ることがある。それもまた良き敗者の姿だと思う。

 

ご紹介した作品

書籍『3月のライオン』(1)
書籍『3月のライオン』(1)
著者: 羽海野チカ
出版社:白泉社
刊行:2008年2月
税抜価格:467円
白泉社 書籍紹介ページへ

 

書籍『猫を抱いて象と泳ぐ』
書籍『猫を抱いて象と泳ぐ』
著者: 小川洋子
出版社:文藝春秋(文春文庫)
刊行:2011年7月
税抜価格:640円
文藝春秋BOOKS 書籍紹介ページへ

 

「青山学報」260号(2017年6月発行)より転載
【次回へ続く】