Column コラム

私の足のともしび 【第1回「社会人としての海外大学院留学という冒険」】

青山学院大学地球社会共生学部教授

村上 広史

世の中には様々な職業があって私たちの日常生活を支えている。国家公務員もその一つである。私は青山学院大学に勤務する前の35年余りをその国家公務員として国土交通省(省庁再編前は建設省)国土地理院に勤務した。このコラムでは、その中で経験したことを公私両面で取り上げる。初回は就職して5年後の海外大学院留学の経緯についてである。

 

就職直後の想定外

そもそも国家公務員を目指した理由は、大学院で修士課程まで学んだ地球の磁場に関する知識や経験を国の研究機関で活かしたいと考えたからであった。そこで、その分野ができそうな国土地理院に技術職(技官)として就職した。しかし、就職後に任された仕事は、大学で学んできたこととは直接関係のない分野の仕事であった。しかも、最初の4年間は、毎年異動があって所属が変わり、必然的に仕事内容も変更された。たぶん、様々な仕事を広く学んで組織全体の将来を担う人材を育成したいという管理者側の親心だったのであろう。

 

しかし、任された分野についてじっくり学ぶ必要を感じた私は、当時の科学技術庁の在外研究員制度を活用して海外で勉強したいと考えるようになった。ところが、国家公務員の場合、在外研究員制度を活用できるのも年功序列が基本である。そのため、待ち行列の下のほうだった私の順番が来るのは数年先のことで、将来の見通しが開けない日々が続いたのであった。

 

 

民間奨学金への応募

そんなある日、NHKのローカルニュースでフルブライト奨学金の募集案内を見た私は目の前が開けたように感じて応募しようと思い立った。しかし、奨学金の名前ぐらいしか知らなかった私は、応募した後で想定外の状況を経験することになる。当時の奨学金には、現在と違って大学教授向け、若手研究者向け、大学院生向けなど募集対象が異なるいくつかのプログラムが用意されていた。当然だが、若手研究者向けは博士を取得した一人前の研究者が対象であり、博士を持っていなければ、大学院生向けのプログラムを選択するという設計である。

 

しかし、そのような常識すら持ち合わせていないばかりか、自らを研究者と勝手に自負していた私は大胆にも若手研究者向けのプログラムに応募したのである。当然のことだが、応募後に奨学金事務局から、博士を持たない私は若手研究者向けのプログラムには応募できないと電話連絡があった。普通なら申請内容の間違いで応募を取り消されるところだったのだろう。しかし、事務局の方は親切にも大学院留学のプログラムに変更すれば応募を継続できるとおっしゃって下さったのである。そこで、留学すれば自分の勉強は自由にできるだろうと安易に考えた私は、無謀にも事務局に応募プログラムの変更を依頼してしまうのである。

 

もともとテレビのニュースがきっかけで、応募に必要なTOEFL受験や面接対策など付け焼刃とも言えないような準備で応募したため、奨学金に合格する可能性は極めて低いだろうと悲観的に考えていた。しかし、振り返ってみると、私が応募した1987年当時はバブル絶頂期で、企業がこぞって自前で社員を留学させていた時期であった。そのためか、その年の秋に奨学金の合格通知を受け取り、留学のための具体的な準備を始めることになった。もちろん、当たり前のことだが、大学院生として奨学金を受給する限りは、学位取得を目指して授業の履修登録などを行うことが前提となっていた。斯くして、当初の想定とは違い、私は大学院生としての留学を目指すことになったのである。

 

 

大学院への応募

奨学金に合格しても大学院に受け入れてもらえなければ意味がない。そのため、奨学金合格の喜びもつかの間、次は応募する大学院を急いで探さなければならなくなった。まさに泥縄である。しかも、指導教員不在で、大学時代の専門とは異なる分野の大学院を目指す必要があった。

 

しかし、学びたい分野はそれまでの仕事との関連で定まっていたので、該当する分野の論文を読んで研究者を探し、応募すべき大学院を絞り込んだ。また、推薦状も必要であったため、所属していた学会の著名な大学教授にお願いして書いてもらった。さらに、米国の大学院の多くは当時まだGRE(Graduate Record Examinations)の点数を要求していたので、その受験も必要であった。しかも、GREは頻繁に試験が行われず、大学院の応募に間に合う時期の試験申込は締め切られていた。しかし、奨学金の事務局からスタンバイで受験するためのクーポンを提供され、試験当日に早朝から会場に並んで何とか受験することができた。そうやって何とか大学院応募に必要な資料を準備して応募した結果、最も研究分野が近いと考えていたRoy Welch教授がいる米国ジョージア大学大学院に受け入れてもらうことができたのである。

 

もっとも、大学院に合格しても、Welch教授が指導してくれるとは限らない。しかし、幸いなことに、渡米1か月前の夏に、私が所属する学会の4年に一度の国際会議がアジアで初めて、しかも京都で開催され、そこに彼が参加することになっていた。そこで、その国際会議の裏方の手伝いで出張した機会を利用し、会場でWelch教授にお会いして留学中の指導を直談判した結果、指導していただけることになった。少々強引であったが、留学前にWelch教授に面会し、指導を約束していただけたのは幸いなことであった。

 

京都の国際会議でお会いしたRoy Welch教授

 

 

出張か休職か、それが問題

奨学金受給と進学先の大学院が決まっても、国家公務員の場合は勝手に留学ができるわけではない。留学そのものの可否はもちろん、どのような身分で留学するかを職場に相談し、了承してもらう必要がある。留学の可否については、奨学金応募の際に事前に上司に相談していたため、応募することについては上司が職場内の了承を取り付けてくれていたことが幸いした。上司からは、無許可で応募していたら留学は認められなかったぞ、と組織人としての基本を教えられた。今にして思えば当たり前のことだが、当時は事前に上司に相談すること自体にも迷いがあったので、事前に相談しておいてよかったと胸を撫で下ろしたのを覚えている。

 

留学中の身分に関する職場の判断は、留学期間が1年であれば出張、それより長期を希望する場合は1年8か月までの休職であった。出張の場合は、職場の給与が全額支給されるが、休職の場合は給与の一部のみの支給となる。一方、大学院として学位を目指すのに、1年だけではコースワークだけで終わってしまう。もちろん、1年8か月でも全く不十分ではあるが、少しでも長期の滞在が必要と判断し、休職での留学を選択することにした。当時は既に結婚して2歳の子供がいたが、貧乏学生を覚悟しての留学となった。

 

 

久しぶりの学生生活

渡米後は、奨学金受給者として義務付けられていたミネソタ大学での3週間サマープログラムに参加後、家族と合流して大学院のあるジョージア州アセンズ市という小さな大学町にアパートを借りて住み始めた。秋学期が目前に迫っていたので、早速Welch教授に相談をし、1年8か月の滞在期間を前提にできるだけ圧縮したコースワークのプログラムを考えていただいた。

 

ミネソタ大学のサマースクールで仲間と野球の試合を観戦

 

コースワークは圧縮してもらったものの、所属した地理学部では、地理学の歴史に関するゼミ形式の授業が必修となっていた。この授業は10人足らずの少人数のクラスで議論しながら進める形式で、議論に参加するためには毎回事前に何十ページもの文献を読んでおく必要があった。しかも、文献や授業の内容は学部時代の専門ではなかった。そのため、授業への貢献度はほぼゼロの状態が続いた。そこで、中間及び期末レポートに最善を尽くすことで何とか単位を取得することができたのである。他の授業は、それまで仕事で学んだことが活かせる測量やデータベースに関するものだったので、大きな困難なく単位を取得していくことができた。また、2学期目からは博士論文に向けて少しずつ参考文献を読んだり、地図修正のための画像データの認識という自らの研究プロジェクトに取り組んだりすることもできるようになっていた。

 

研究プロジェクトのために研究室でデータ整備中

 

1年目終了直後にジョージア大学地理学部の建物の前で臨月の家内と

 

 

せまる滞在期限

とは言え、2年目になれば1年8か月の滞在期間は残すところ僅かとなる。研究プロジェクトのほうは少しずつ進んでいたが、とても滞在期限までに博士論文を書き上げられる状況ではなかった。それでも、その時はとにかくコースワークを終了し、Ph. D. のための資格試験(Qualifying Exam)だけでも合格できれば、帰国後に論文を書き上げる機会もあるだろうと考えていた。

 

しかし、2年目の秋学期が終了して帰国まで残すところ4か月ぐらいになった時、Welch教授から突然呼び出され、驚くべきことを告げられた。あと4か月で博士論文を仕上げることは無理だから、日本の国土地理院長宛に4か月の延長願いの手紙を書くので連絡先を教えてくれ、という話であった。教授からの依頼であったため連絡先をお伝えしたものの、私の心中は穏やかではなかった。もちろん、教授が留学期間延長のための手紙までわざわざ書いて下さることに対する感謝の気持ちは大きいものがあった。しかし、当然とはいえ、教授から間に合わないと明言され、予定通りには終わらないという現実に直面したことによる落胆は大きかった。

 

また、手紙を受け取る職場の様子を想像すれば、安易に喜べるわけでもない。そもそも、職場には無理を言って1年8か月の休職での留学を認めてもらっている。その上、Welch教授からの延長願いの手紙が届けば、職場では私が教授に依頼して手紙を書かせたと誤解される可能性もある。そうなれば、組織よりも個人の都合を優先する国家公務員にあるまじきことを要求してくる不届きものと評価される。そして、そのような依頼を容認して延長を許せば「悪しき前例」を残すことになるので、普通の職場であれば即却下となる。つまり、教授の手紙は、延長却下の可能性が高いだけでなく、その可否如何に拘わらず、わがままなけしからん職員という評価が残るだけの愚かな結果になる可能性を意味していた。したがって、そのような教授の依頼は自分で断って、博士論文の結果がどうなろうと、潔く予定通りに帰国するのが優等生の国家公務員が取るべき行動ということになる。しかし、私は優等生の行動は取らなかった。今振り返ると、心のどこかに何とか学位を取りたいという気持ちが強くあったのだろうと思う。

 

2年目のクリスマスに自宅で長男と

 

教会でお世話になった御婦人のお宅に食事に招かれた時の写真

 

 

延長されるか否か、それが問題?

電子メールやウェブ会議がまだ現在のように普及していない時代の話である。そのため、海外との連絡を容易に行える状況ではなかった。帰国準備のことを考えると、1か月ぐらいで回答があると良いのだが、職場からの回答をじっと待つしかない。そのため、どんな回答がいつ届くのかが気になって自分の研究に集中するのも難しい状況が続いた。心の中では、延長を認めてもらいたいという思いと、認められなかったらどうなるだろうという不安が錯綜していたのである。そこで、このことで私が信じる神の御心がどこにあるのかを聖書を通して祈り求めようと考えた。当時、旧約聖書の箴言を毎日1章読みながら、神の御心を求めて祈るという人の話を聞いていた。箴言は31章あって、1か月ぐらいで答えが欲しかった私にはちょうど良かった。そこで、同じことをしてみようと考えたのである。

 

最初の20日間は、聖書の御言葉から学ぶことはたくさんあったが、留学に関して御言葉が心に響くことはなかった。たぶん、私自身の中で延長してほしいという気持ちが強すぎて、本当の意味で心を開いて御言葉を読めていなかったのだろう。しかし、第21章を読む日になって、最初の次の節を読んだ時である。

 

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」
(箴言第21章1節; 新改訳聖書第2版)

 

この節の文字が大きく浮かび上がってきて、「日本の政府と私(神)とどっちが偉いと思っているんだい?」と語りかけられているように強く感じたのである。そして、延長されてもされなくても、私を愛してくださる神が選択したことだから、それは私にとってベストな結果のはずだということに気づかされたのである。その瞬間、私はそれまで自分の心を縛っていたものから解放され、気が楽になると同時に、神がどんな方かほんの少しだけ理解が深まったように感じた。それから1週間ほど経過して、教授から4か月間の延長を認める手紙が日本から届いたと連絡があった。

 

帰国後に職場の関係者から聞いた話では、Welch教授の手紙を受け取った当時の国土地理院長が、4か月の延長で学位が取れるのであれば、貴重な機会なので延長を認めてやろうという判断をされたとのことであった。技術者が中心の組織であったので、将来を担う技術者を育てようという思いの強い方が当時の国土地理院長だったことは大きな幸いであった。その代わり、人事担当者は当時の上位機関である建設本省への説明で大変だったらしく、後日OB会でお会いした時にはその時のご苦労を笑い話として語って下さった。

 

 

ラスト・スパートとサポート

延長が認められて喜んだのもつかの間、今度は延長期間内に絶対学位を取らなければならない、という新たなプレッシャーの中で博士論文をまとめなければならなくなった。延長されたのに学位を取れなかったとなれば、いろいろご苦労された職場の皆さんに顔向けができない。何としても帰国前に口頭試験に合格し、博士論文を提出しなければならないのである。そのため、教授がもう少し長い延長を依頼してくれれば良かったのに、などというけしからん呟きをもらしながらも、ラスト・スパートをかけて研究のとりまとめと博士論文執筆に取り組んだ。

 

もちろん、私だけが頑張っても、到底完結できるものではなかった。特に、Welch教授が忙しい中でも私の拙い英語ドラフトを丁寧に修正して下さったことは、感謝に堪えない。また、口頭試験の日程も帰国に間に合うように1週間前に実施できるように調整して下さったので、学位取得に必要な手続きを現地で完了させることができた。ただし、口頭試験のあとで帰国前にやっておくべきことがもう一つあった。博士論文の3部印刷とその提出である。私の論文には、コンピュータ画面を撮影したカラー写真が数十枚必要であった。現在であれば画像ファイルを取り込み、カラープリンタで印刷すればよいだけの話である。しかし、当時カラープリンタは普及していなかったため、論文をモノクロ印刷した紙に写真屋で焼き付けてもらった数十枚の印画紙を糊付けする必要があった。帰国準備も行っていたため、自分一人では手に負えないと判断し、当時同じ大学に在外研究で滞在しておられた日本人の方々に、自宅に来ていただきお手伝いをお願いした。その中には、後に国立大学の学長になられた方もいらした。そのような方々のサポートが無ければ、期限内に終わらせることはできなかった。

 

学位試験終了後に息子たちと大学正門の前で

 

学位試験後に教会の友人一家が自宅に招いてお祝いしてくれた時に家内が用意してくれたケーキ

 

 

留学の意味

斯くして、私は図らずも学位を取得することができた。大学人ならばめでたい結果になるはずである。しかし、技官と言えども行政的な仕事が中心の職場では、組織として特段めでたいというわけではない。実際、帰国の翌年には、研究だけではなく行政の勉強もせよということで、霞が関の建設本省に出向を命じられた。では学位取得にどんな意味があったのか。それが分かるのは約30年後の退職直前のことであった。