私の足のともしび 【第2回「55カ国語で話そう」】
2024/10/15
「おい、協力官で今暇なんは誰や」。関西弁の課長の声が部屋に響いた。協力官とは、建設省国際課(当時)に4人いた海外協力官という補佐級で直属の部下がいないスタッフ職の職員である。そのような部下たちに対して、本省の課長が暇な奴はいるかと聞くのは、非日常的なことである。なぜなら、このような問いかけは、特命的な指示を出す意図が明らかなので、通常業務で忙しい協力官が自ら「自分は暇です」などと返事をするはずがないからである。
また、そもそも課長たるもの、部下の業務内容を良く理解しているはずなので、特命業務であってもどの部下に指示を出すかは自らが判断して直接依頼するのが当然であろう。もっとも、当時課長は年度初めに国際課に異動してから2、3日しか経過しておらず、個々の協力官の業務内容を全て理解できているわけではなかった。
しかし、それにしても課長の冒頭の質問は、非日常性という点で課内の空気を凍らせるのに十分なインパクトがあった。そのため、課長の声が響いた直後に課内は沈黙に包まれ、4人の協力官は仕事の手を止めてお互いに顔を見合わせたのである。
ところが、その協力官の一人であった私は、その時なんと沈黙を破って「はい、私だと思います」とわざわざ手を挙げて返事をしたのである。実は、前年度から国際課に所属していた他の3人の協力官とは異なり、私は課長と同じく年度初めに国際課に異動したばかりだった。そのため、前任者から引継ぎは受けていたものの、仕事の優先順位など十分理解できておらず、当面急いで片付けるべき仕事も思いつかなかった。しかも、霞が関への出向は初めてで、着任直後の上司がどんな人か様子を見ながら仕事をしていく、などという高度な役人テクニックは持ち合わせていなかった。つまり、霞が関のお役人としては若葉マーク状態だったのである。
しかし、返事をした直後に、私は他の3人の協力官の少し驚いたような視線を感じた。それで、課長以上に非常識なことをしてしまったのではないかと気づいたのだが、その時はもう手遅れであった。課長の机の前に呼び出され、課長から「特命業務」を言い渡されることになったのである。
課長からの指示は、様々な言語の挨拶表現をまとめた用語集を本にまとめて出版せよ、というものであった。聞けば、課長はその日カンボジアからの要人の大臣表敬に同席していて、大臣がカンボジア語をひと言使って挨拶されたらしい。その結果、要人は大いに喜ばれ、会話が弾んでその場が大変和やかな雰囲気になり、大臣もお喜びだったというのである。そのことが、海外からの要人の表敬訪問の際に事前に準備がしやすいように多言語の挨拶本を作っておく、という課長のアイデアに繋がったのであった。現代であれば、外国語の挨拶などスマホの翻訳アプリを使えば簡単に済む話である。しかし、私が出向した1991年当時は、スマホはもちろん、インターネットすら普及しておらず、モノクロのプリンターを執務室内でネット共有するのが関の山だったのだ。
課長の特命業務の趣旨は分かったものの、どのように取り掛かったら良いものか、と思案しながら席に戻ると、隣の先輩協力官が知恵をくれた。建設省から海外に出向している大使館の書記官やJICA(国際協力事業団/現在の国際協力機構)の専門家に挨拶言葉の翻訳を依頼するのが良い、というのである。国際課が彼ら海外出向組への連絡窓口になっていたので、依頼しやすいのであった。もちろん、出向中の方々はそれぞれ別組織での業務に多忙であるので、お願いベースで勤務時間外にご協力いただくことになる。それでも、何から手をつけて良いか分からなかった私には大きな助けになった。
そこで、早速翻訳を依頼する挨拶言葉の準備に取り掛かった。「こんにちは」などの通常の表現はもちろん、数字や上下などの簡単な名詞に加え、「靴を脱いでください」など、施設見学の場で役立ちそうな表現も追加し、全体で97個の言葉やフレーズを考えた。そして、趣旨を説明する依頼文とともに、翻訳用語リストを出向中の方々に送付したのである。受け取った皆さんは、さぞ驚かれたであろう。それでも、2、3週間で17カ国語への翻訳が完成した。
しかし、この方法で翻訳できる言語数は17が限界であった。一方、出来上がった用語集は書籍として販売するのが課長の構想であった。そのため、17カ国語では課長が想定している用語集としては不十分に思われた。そして、もっと言語数を簡単に増やす方法はないか、縁もゆかりもない国の言葉をどうやって翻訳できるだろうか、と思案する日々がしばらく続いたのである。
そんなある日、ふと机の上を見ると、在日外国公館の職員録が置かれていた。開いてみると、当たり前だが日本にある外国の大使館や領事館の職員名が掲載されていた。さらに当たり前だが、それらの公館のほとんどは都内にある。そこで、在京大使館に翻訳を頼めば良いではないか、とひらめいた。同時に、自分の目がそれまで外国在住の方に依頼することにしか向いていなかったことに気づかされた。まさに、灯台下暗しである。
もっとも、当時の建設省は超ドメスティック官庁(国内業務専門の組織)として有名だったので、国際課と言えども在京大使館との接点は皆無に近かった。したがって、こちらから連絡したところで、厚意で翻訳してくれるという保証はない。
しかし、このアイデアの実現可能性について根拠もなく確信した私は、翻訳が必要な言語の国の在京大使館に電話をかけまくり、訪問のアポを依頼し始めた。大使館によって規模の大小があるので、お会いしてくださる方は書記官から公使の方までさまざまだったが、幸い断られたという記憶はない。超ドメスティック官庁からの連絡ということで、大使館の方も興味を持ってくださったようである。
大使館訪問のアポが順調に取れたため、5月から7月にかけて、日中は毎日のように大使館訪問を行った。まず、最初の訪問でプロジェクトの趣旨を伝え、翻訳をお願いする表現のリストをお渡しする。そして、1、2週間後に翻訳されたリストをいただきに再度伺う、という単純な訪問の繰り返しの予定であった。
しかし、実際に始めてみると、対応くださった外交官の方々は、国際課の仕事内容や、さらには日本文化のことなどについても質問されるので、時には1時間ぐらいゆっくりお話しすることも珍しくなかった。しかも、訪問すればエアコンが効いた綺麗な応接室に通されるし、温かい紅茶や、暑い日には冷たい飲み物なども出してくださった。一方、建設省が入っていた当時の合同庁舎はお世辞にも綺麗とは言えず、人口密度が高くて、エアコンの効きも良くないところだった。いわば、<汚い・窮屈・クソ暑い>の3Kだったのである(現在は改装により改善されている)。そんな職場から、毎日のようにして脱出してさまざまな国の大使館を訪問し、エアコンが効いた涼しい応接室に出かけて行って紅茶などを飲みながら談笑するのは快適であった。
結果的に47の在京大使館・公館に協力していただき、重複する言語を整理したところ、言語数は最終的に55カ国語になった。課長のアイデアで、本の名前は『55カ国語で話そう』となり、ご協力いただいた大使館・公館の皆さんを招いた出版記念パーティーまで開催することができた。個人的にも霞が関での仕事の面白さを実感できるプロジェクトとなったのである。
もちろん、用語集のプロジェクトだけをやっていたわけではなく、出向1年目からさまざまな仕事に携わった。例えば、途上国での活動を拡大していたNGO支援のための予算要求を行うことになり、いくつかのNGOの事務所を訪問した。その中で、彼らの活動内容や途上国支援の情熱を直に知ることができたのは貴重な経験となった。また、他省が法律改正を行った際には法令協議の仕事にも係わり、世の中が複雑な利害関係のもとで成り立っていることを改めて痛感した。
しかし、これらの仕事の多くは、用語集プロジェクトのように快適な仕事ばかりではなく、長時間の勤務が必要となる仕事もあって体力的にも大きなチャレンジであった。また、現代は週休二日が一般的だが、当時はまだ週休二日制に移行する過渡期で、土曜出勤があったため週末も短かった。しかも、出向当初、私は2人の子どもと3人目を妊娠中の家内とつくば市内の公務員住宅に住んでいた(つくばでは、子どもが3人いる家庭は珍しくない)。そして、当時はつくばエクスプレス開業前で、JR常磐線で片道2時間余りかけて通勤していたので、通勤そのものの負担も大きかった。さらに、出向直後の夏に3人目が生まれたが、現代のような父親の育休などは論外の時代であり、家内と私の実家はともに遠方だったこともあって、家族全体、中でも家内には大きな負担となった。そのため、出向そのものは家族にとっても最悪のタイミングだったのである。
もっとも、私の経験とは比べものにならないくらい大変な修羅場を通られた方々の武勇伝を出向中に何度も聞いていた。しかも、そのような武勇伝の持ち主は有能な方々ばかりで、身を粉にして仕事に真正面から取り組んでいた。そのため、霞が関には日本の将来のために献身的に取り組む精鋭たちが集結していることを実感することが多かった。
翻って、私は目の前の仕事に追われていて、気力と体力の限界を瀬踏みしているような毎日を過ごしていた。しかし、賢明な家内の底知れぬ忍耐と教会の兄姉の皆さんの助けによって無事乗り越えられた。今思い出しても感謝しかない。そして、先が見えない状況でも神が全てを支配し、イエス・キリストが常にともにおられる(マタイによる福音書第28章20節)という米国留学時代の信仰の経験は、出向というチャレンジの中でも大きな支えであった。
とは言え、このような経験は家族にとっても自分にとっても短いほうが良い。仕事は面白かったが、心の中では1年だけで出向が終わることを期待していた。しかし、出向は継続し、2年目にはまた新たなプロジェクトに関わることになるのである。