山と城と芸術のウェールズへ【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第5回】
2020/06/11
ウェールズと聞いて、パッとイメージのわく人はどのくらいいらっしゃるでしょうか? 2020年4月に亡くなった作家のC.W.ニコルさんがウェールズの出身でした。日本の自然を愛するあまり長野県に居を定め、日本国籍を取得して、環境保護に尽力された方です。
ウェールズは表現芸術の分野で才能豊かな人材を輩出した国として知られています。私が初めて意識したウェールズ人はアンソニー・ホプキンスでした。アメリカのサスペンス映画の名作『羊たちの沈黙』(1991)で一躍大スターの仲間入りをした名優です。数々のハリウッド映画に出演していますが、彼はウェールズ出身で、もとはロンドンのナショナル・シアターなどで鳴らした舞台俳優でした。
そのホプキンスにとって憧れの俳優が、世紀の二枚目と称えられた郷土の先輩リチャード・バートンでした。音楽に目を転じれば、ポップスではダイナミックな歌が人気のトム・ジョーンズ、クラシックでは声の強さがワーグナーの楽劇にところをえたソプラノのグィネス・ジョーンズ、深々としたバリトンの低音が魅力のブリン・ターフェル、また天才少女歌手として脚光を浴びたシャルロット・チャーチなど、多士済々です。
ケンブリッジに住んでいた頃、ご近所の人にウェールズに旅行すると言ったところ、「あんな雨ばかり降るところに!」とあきれ顔をされたことがあります。実際に年間の降雨量がとても多い地方なので、こればかりは反論しようがありません。
とはいえ自然の美しさにかけては、イギリスのほかの地域にひけをとるものではありません。雄大なスノードニア国立公園が有名です。その中心にある山の名はスノードン。英語ではマウント・スノードンではなく、ただスノードンというのが正式名称です。
イングランドとウェールズの山の中の最高峰ですが、元来がなだらかな地勢のイギリス、一番高いといっても標高はわずか1085メートルにすぎません。山が多く平地が少ない日本に暮らす私たちには、さほど険しい山岳とは思えません。ふもとの町スランベリスから登山鉄道で一気に登頂できるほどです。ちなみにこの登山鉄道は、日本でもおなじみの「きかんしゃトーマス」に登場する機関車のモデルになっています。
ウェールズを舞台とした忘れられない映画があります。1995年に制作され、そのものずばり『ウェールズの山』という邦題で公開された映画です。小さな村のお国自慢の種だった山が、測量してみたら山と認定されるには6メートル低かったため、村人が土を盛って、「山」を仕立てあげるというプロットがじつに愉快でした。
ウェールズの主たる産業は鉱業です。私はスレート(粘板岩)の採掘場を見学したことがあります。トロッコで地下へおそろしく深く降りていくのですが、5億年前のスレートを発掘しているという話でした。ウェールズの山々には、想像を絶する豊かな時間が埋蔵されているわけです。
連合王国イギリスの国旗は「ユニオン・ジャック」と呼ばれ、イングランドとスコットランドと北アイルランドの3つの地域の国旗を重ね合わせたものといわれます。本来ならば、赤い竜をあしらったウェールズの国旗「レッド・ドラゴン」が含まれないといけないはずですが、ウェールズはユニオン・ジャックが制定される以前にイングランドに併合されていたため、その絵柄には入っていないのです。のけものにされてしまい、ちょっと気の毒になりますね。
イギリスでは皇太子のことを、プリンス・オブ・ウェールズと称します。直訳すればウェールズの王子です。イギリス全体の皇太子なのになぜウェールズの王子と呼ぶのか、と素朴な疑問が生まれるのも無理からぬ話です。それは、13世紀にウェールズ征服をなしとげたイングランド国王エドワード三世が王子誕生に際して、「王子が最初にしゃべる言葉はウェールズ語だ」と述べたという故事に由来するそうです。
皇太子の戴冠式をウェールズで行い、プリンス・オブ・ウェールズと名乗らせるのは、イングランドに併合されたウェールズ人が味わうであろう屈辱感を払しょくするためだったのです。実際、皇太子の戴冠式は当地のカナーヴォン城で行われ、その習わしが今日まで続いている次第です。
ウェールズには英語とは異なるウェールズ語という土着の言語が存在します。もっともウェールズ語を日常的に話すことのできる人の数が減少しているため、近年、保存運動が盛んなそうです。たしかにウェールズに参りますと、交通標識などが英語とウェールズ語の2か国語で表記されています。
そんなウェールズ語で書かれた世界で一番長いとされる名前の駅があります。あまりにも長すぎるので、現地では普通「スランフェアPG」と省略されていますが、正式にはなんと‟Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch”(赤い洞窟の聖ティシリオ教会と激しい渦巻きの近くにある白いハシバミの谷あいにある聖マリア教会)といいます。何をでたらめな、と思われそうですので(笑)、駅名が表示されている当地の写真をあげておきましょう。
[Photo:佐久間 康夫]※国旗除く