Column コラム

『ねずみとり』よ、永遠に――アガサ・クリスティーのミステリー【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第6回】

青山学院大学文学部比較芸術学科教授

佐久間 康夫

演劇史上最長のロングラン

アガサ・クリスティーの『ねずみとり』は、世界の演劇史上最長のロングラン記録を保持する芝居です。新型コロナウイルス感染症の影響で、連続上演がこの3月にいったん途絶えましたが、初演は1952年というから驚きです。初日の幕が開いて以来、休演日の日曜をのぞき月曜から土曜まで休むことなく公演を続けてきました。その上演回数たるや、2万8千回を超える計算になります。

「初日を観たなんて、ママ、そんなに歳とっているの」と小さい女の子にあきれられる若い母親を描いた風刺マンガが、初演後15年たった頃の新聞にのっていました。今年で68年目のシーズンを迎えた芝居ですから、はたして初演に接することのできた観客がどのくらいご存命なものか、考えるとため息が出てしまいます。

『ねずみとり』の初演はロンドンのアンバサダーズ劇場にて。74年からは隣接するセント・マーティンズ劇場に移転しました。

夜の劇場街にきらめくセント・マーティンズ劇場のネオンサイン

 

セント・マーティンズ劇場の全景。収容人数550名の居心地の良い劇場

 

なにしろ最長記録なので、正確にいうなら「ロンゲスト・ラン」です。ちなみに『ねずみとり』とは異なる演目ですが、ダッチェス劇場では、1日も上演がもたなかったという不名誉な「ショーテスト・ラン」が記録に残っています。お客が終演までに全員帰ってしまったというのです。どんなに出来が悪かったのか、かえって観に行ってみたいくらいですね。

『ねずみとり』を上演する劇場は、国会議事堂、大英博物館、王立裁判所と並ぶロンドンの観光名所である、とジョークにされるほどです。劇場までタクシーで乗りつけた日本人客が運転手にチップを渡さなかったため、運転手が腹いせに真犯人の名前を客に向かって大声で叫んだ、という一件があったそうです。17回も観たのにいまだに犯人が誰か分からない、というとぼけたマンガも目にしたことがあります。

劇場近くの電話ボックスは今や街のオブジェに。ねずみではなくキリンが捕まっている(笑)

 

『ねずみとり』の真犯人の名前は……

あらすじを簡単に紹介しましょう。若い夫婦の営むゲストハウスのオープンの日。大雪に見舞われる中、宿泊客が次々に来訪し、ある殺人事件の犯人が逃走中とのニュースが話題になります。宿に緊急配備された刑事はさらに連続して事件が起きる可能性を示唆します。いわくありげな登場人物たちの間には不穏な空気が流れます。「3匹の盲目のねずみ」という童謡の不気味なメロディーが聞こえ、ついに泊まり客の一人に殺人鬼の魔の手が……。

豪雪で外界との連絡を絶たれた宿という閉ざされた空間。登場人物はわずかに8名。殺人事件の犯人はこの中の一人です。フーダニット(“whodunit”)という犯人捜しを主眼とするミステリーの定石といえます。

一度観れば底が割れる内容ではありますが、これほど長く愛されてきたのには、それなりのわけがあります。キャストはほぼ毎年交代しますが、役者一人ひとりが生き生きと演じる芝居の醍醐味を味わえます。そして「人生にはいろんなことが起こる。それに堪えていかなくっちゃ――何事もなかったように平然と」といった名せりふの数々が心に響きます。

初演で刑事役を演じた名優リチャード・アッテンボローの手形。劇場にほど近いレスター・スクエアにて

 

カーテンコールの際には、俳優の一人が進み出て、観客に向かってスピーチするのが決まりになっています。「みなさんは今夜から私たちの《共犯者》です。劇場を一歩出たら、ぜったいに真犯人の名前を明かさないでください」と。もちろんここで観客はやんやの喝采です。

 

汲めども尽きぬクリスティーの魅力

生涯に長編66作、短編156作もの推理小説を書いたミステリーの女王。実際に英語でも“Queen of Crime”(文字通りには「犯罪の女王」)と呼ばれています。『ねずみとり』をはじめ劇作も20編ほどにのぼります。映画化・テレビドラマ化された作品にいたっては数え切れません。

クリスティーは探偵と犯人が知恵比べするという知的遊戯の世界を作りあげました。彼女は人生をある種のゲームととらえていたのだと思います。そんな作家の書く殺人事件ですから、過剰な深刻味がなく、読了後はさらにまた次のクリスティー作品に手を伸ばしたくなります。古き良きイギリスの、これは極上のエンターテインメントなのです。

「名探偵みなを集めて《さて》といい」という私の好きな川柳があります。クリスティー作品で活躍する名探偵役には、おなじみのベルギー人エルキュール・ポアロやイギリス人のミス・マープルがいます。その快刀乱麻を断つ推理によって、トリックはみごと看破されるのが常です。シャーロック・ホームズを引き合いに出すまでもなく、クリスティーにおいても探偵役のエキセントリックな性格描写は、ミステリーを味わう上で大きな楽しみのひとつです。

一人二役、密室、意外な犯人、アリバイ崩しなどなど、枚挙にいとまのないほどトリックを考案した作家はクリスティーをおいて他にいません。彼女は第1次世界大戦時に薬剤師の助手として働き、傷病兵が薬の効き目で回復する姿を目の当たりにしました。後に、自身が創造したフィクションで「良薬」ならぬ「毒薬」を頻繁に利用したクリスティーは、ミステリーの中の殺害方法について、「私は毒殺がお気に入りです」と語っています。この言葉が含蓄に富んでいますね。

『ねずみとり』の初演50周年を祝う記念の銘板

[Photo:佐久間 康夫]

参考文献
アガサ・クリスティー著 鳴海四郎訳『ねずみとり』(ハヤカワ文庫 1980)
(青山学院大学名誉教授でおられた故浅田寛厚先生の解説がすばらしい)
数藤康雄編『アガサ・クリスティー百科事典』(ハヤカワ文庫 2004)
Peter Saunders, The Mousetrap Story(St. Martin’s Theatre 1992)
【次回へ続く】