秘密の地下通路を探れ(女子短期大学編) 短大70年の歩み【アオガクタイムトラベラー】
2021/02/04
前回、青山キャンパスの“巨大ではなかった”地下通路を探検した時のこと。調査が終わった後、N課長にお礼を言って、アオガクタイムトラベラー(ATT)の基地に戻ろうとしていたところ、管理部の別の課のK課長が声をかけてきた。
「ぜひ調査してほしいものがあるんですよ」
なんだろう?
K課長がウキウキしている。
「この機会を手ぐすねを引いて待っていました」
なんだかとてもうれしい。
女子短期大学の在校生に配付している「学生生活の手引き」の冊子をひろげ、あるページを指さした。
「ここに“地下通路”があるんです」
なんとなく“地下専門の探検隊”という地位を築きつつあるのだろうか。
うれしいかぎりだ。
「面白そうですね」
でも、在校生に公表しているのだから、正式な地下通路なのだろう。
調査に値するのだろうか?
K課長にお礼を言い、基地に戻りみんなに事情を話すと、
ホワイト隊員が「こんな通路、知らないですねえ」
と遠い学生時代を振り返って語った。
おっと、
“秘密”の地下通路なのだろうか?
「青短(アオタン)の秘密の地下通路」。
調査しない、なんてことを言ったら、世間が許すはずが無い。
アオガクタイムトラベラーの出動である。
ちなみに、アオガクタイムトラベラーの隊員の名前は、全員カラー名である。
“ホワイト”は特に人気があり、隊員間で熾烈な獲得争いが行われた“いわくつき”のカラーである。
2021年1月某日。
入試業務もはじまり忙しい時期。
しかし「アオガクプラス」の記事をこしらえねばという強迫観念、いや、使命感を持って、アオガクタイムトラベラー隊の2名、ホワイト隊員と私ブルーは、女子短期大学へ。
普段、女子短期大学の施設・設備の管理を行ってくださっている株式会社アイビー・シー・エス(以下、IVYCS)のSさんのご案内で地下通路へ。
普段立ち入りできない地下の階段を降りて行った。
眼前の暗闇。
漆黒の世界は、動物を不安にさせる。
火を発見し、電気を発明した遠い人間の祖先に感謝したい。
通路は、電気が点いていないと、この歳でも正直、怖い。
北校舎から入り、まっすぐに伸びる通路を行くと南校舎の地上への階段にたどり着く。
そこからさらに体育館へと続く通路が存在した。
全長60mほどだっただろうか。
ゴールとなる扉を開けると、
「あっ、ここ、体育で使ったことがある!」とホワイト隊員が遠い学生時代を追憶する言葉を発した。
その声で、暗闇という異次元から、ようやく現世に戻った気がして、人心地がついた。
女子短期大学事務部のY庶務課長にお話を伺った。
2007年に異動で女子短期大学事務部にいらした時に前任者から「この地下通路は学生には使わせていない」と聞いていらっしゃったそうだ。
それ以前は、「雨の時など、学生が濡れないようにと、この通路を使って体育館や南校舎、北校舎へ移動をしていたという話を聞いたことがある」と教えてくださった。
約10年、ここで働いていらっしゃるIVYCSのSさんも「看板などの物品を置いておく場所で、学生が使っているのは見たことがありません。雨の時に荷物の運搬でこの通路を使うことがあります。先生でも、ここを利用する方は古くからいらっしゃる方ぐらいですね」と説明してくださった。
ネコが迷って入ってきてしまったというミニ騒動もあったと伺った。
後でSさんの同僚で少し年配のFさんにも伺ってみたが、同じ回答だった。
南校舎から体育館までの通路は、水漏れのため湿気で壁に模様がついてしまっている、とのお話だった。
ご協力に感謝いたします。
「学生が雨に濡れないために」
なんと心優しい気遣いではないか。
先人の想いに尊敬の念を抱いた。
ある一定期間は使われていたのだろう。
学生時代に使ったことがある方の証言を得るために、多くの職員の方々に尋ねてみたが、なかなか見つからない。
職員になってからその存在を知った方、今回その存在を初めて知った方ばかりだった。
すでに退職されている方々にもお尋ねしてみた。
するとGさんから、
「学生が使っている姿を見たことがある」との貴重な証言をいただいた。
やはり使われていた時期があったのだ!
1874年に開校した「女子小学校」にはじまる女子教育の伝統を引き継ぎ、戦後、1950年に青山学院女子短期大学が開校し、これまでに学科卒業生約60,000名、専攻科修了生約6,000名を輩出してきました。2020年に創立70周年を迎えましたが、残念なことに、2019年4月から学生の募集を停止しており、その歴史に幕を下ろそうとしています。
また、新型コロナウイルスの影響により、創立70周年の記念式典は、当初10月31日に行う予定だったところ、2021年3月13日へと延期されることになりました。思い出深い式典になることを願っています。式典の模様は、後日、青山学院女子短期大学ウェブサイトや「青山学報」にてお伝えいたします。
第二次世界大戦終戦後の1946年、青山学院には、男子系の『青山学院専門学校』と、女子系の『青山学院女子専門学校』がありました。戦後の学制改革により、両校ともそれぞれで新制の4年制大学を目指しましたが、学院の財政面で両者同時に大学になることは叶わず、男子の『青山学院専門学校』が「大学」として、『青山学院女子専門学校』は、日本では初めて導入される「短期大学 junior college」として出発することになりました。
青山学院女子短期大学が発足した当時、日本における短期大学のモデル・スクールとして、文部省の勧めと紹介もあり、全国から短期大学の教職員らが見学に訪れていたと、「青山学院新聞」37号(1950年9月15日発行)に記されています。
1950年当時は木造校舎でしたが、戦後の青山学院再建復興計画として「10年計画」が策定され、木造校舎から鉄筋コンクリートへと建て替えられていくことになります。その計画の一つが、1961年4月15日に第1期工事が終了し献堂式が行われた女子短期大学新校舎でした。
鉄筋コンクリート地下1階、地上4階建、延592.1坪、総工費5954万円、竹中工務店の設計施工で、1960年8月から工事が進められていました。
『短大の発展のために当初の計画を繰り上げて建築された』と「青山学報」41号(1961年5月8日発行)に記されています。
戦争が終わり平和の時を迎え、土埃が舞い立ち、槌音が響く、活気ある青山学院の姿が思い浮かんできます。
この地下通路はいつ作られたのか?
女子短期大学事務部と本部管理部の方々のご協力を仰ぎ、下記の通り判明しました。
1961年4月 新校舎完成(現・北校舎)
1967年3月 南校舎完成 この時、北校舎と南校舎を繋ぐ地下通路が作られた
1980年3月 体育館完成
1980年11月 体育館からも地下通路が繋がる
その後、国の教育制度に関する政策が不安定化した影響もあり、1958年には再び4年制大学を目指します。しかし大学側の教授たちの反対を受け、新たな案として大学内に新学部を設けて移設する案も提示され、常務委員会で一度は承認されたものの、再び大学側の強い反対を受け、白紙撤回となってしまいます。
そして1964年に制度的に「短期大学」が高等教育機関として恒久化したこともあり、本学では学科の増設を行うなど、女子短期大学として発展・充実した時を迎えます。
青山学院女子短期大学は、通称「青短(アオタン)」と呼ばれ、「白短」(学習院女子短期大学。目白に在ったことから“白”。2001年に幕を閉じる)、「赤短」(山脇学園短期大学。赤坂に在ったことから“赤”。2011年に幕を閉じる)とともに女子短大の“御三家”として名を馳せ、青短は、面倒見の良い学校として、そして抜群の就職力を誇る「最強の短大」という地位を築いていました。青短出身者は“高嶺の花”と言われる時代を築きました。
女子短期大学が培ってきた教育・研究の伝統と精神は、大学に受け継がれます。2019年4月に青山学院大学に新設された「コミュニティ人間科学部」、2021年4月に青山学院大学に新設予定の「スクーンメーカー記念ジェンダー研究センター」などに引き継がれ、地域や社会に貢献できる人物を育てていきます。女性・男性にかかわらず、地の塩となり、世の光として活躍する人物がこれからも羽ばたいていくことでしょう。
〈参考文献〉
「青山学院新聞」37号(1950年9月15日発行)
「青山学報」41号(1961年5月8日発行)
『青山学院100年 1874-1974』学校法人青山学院 1975年
『青山学院120年』学校法人青山学院 1996年
『青山学院女子短期大学 六十五年史 ―通史編』青山学院女子短期大学 2016年
『青山学院女子短期大学 六十五年史 ―文集編』青山学院女子短期大学 2016年
『青山学院女子短期大学 六十五年史 ―資料編』青山学院女子短期大学 2018年
寒さが身に染みる季節ですね。しばらく冬眠です。
目下、相模原祭で長年活躍している「環境戦隊エコレンジャー」に親近感を覚えています。
変身は、暖かくなってからかな。