マーケットと『マイ・フェア・レディ』【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第3回】
2020/01/31
イギリスでは19世紀半ば、世界に先駆けて鉄道路線が全国に展開しました。さすが産業革命のおひざ元、その面目躍如たる一面といえます。旅行代理店を開業したトマス・クックは、団体旅行を流行させて、近代ツーリズムの父と呼ばれました。私自身、学生時代にトマス・クック社が発行していたオレンジ色の時刻表を手に、ヨーロッパ周遊を楽しんだ一人です。創業170年を超える同社が昨年倒産したニュースは世界中に大きな衝撃を与えました。
旅行業が盛り上がりを見せた同じ頃、国中に広がっていく鉄道網に目をつけた商人がいました。その名はW.H.スミス。彼は鉄道の各駅に新聞売り場を次々と開店し、大成功を収めました。今風にいえば駅ナカですね。今日にいたるもイギリスの駅で決まって「WHスミス」という名前の書店を目にするゆえんです。
地方に出向きますと、鉄道の駅が町の中心部から離れているため、旅行者を戸惑わせる例がよくあります。では、町の真ん中にあるものは何か、というと、それはマーケットです。小さめの町ですと、屋外に露店を並べて設営される形が一般的です。マーケットでは衣食住に関わるほとんどすべての買い物が間に合います。その市場を取り囲むように、教会、パブ(居酒屋)、スーパーなどの路面店が建ち並ぶというのが、イギリスの町の基本的なイメージです。
さて、印象的なマーケットの場面で始まる有名なミュージカルがあります。1956年に初演された傑作『マイ・フェア・レディ』です。オードリー・ヘップバーンが主演した映画版でおなじみの方も多いでしょう。バーナード・ショーの喜劇『ピグマリオン』(1913)を原作とする物語は、言語学教授ヒギンズが花売り娘イライザを貴婦人へと仕立てあげられるか、という賭けをめぐって進展します。
劇中でイライザの働く場所は、ロンドンのコヴェント・ガーデン・マーケットという設定です。コヴェント・ガーデンという言葉の響きがなんとも素敵ですね。この地名は、その昔ヘンリー八世が宗教改革を断行した際に、解散した修道院(convent)の庭だったという史実に由来します。17世紀以来、300年以上にわたり青果市場でしたが、今日では雑貨などを扱うマーケットに変貌し、大勢の観光客でにぎわっています。
ヒギンズ教授はイライザの下町なまりをなんとか上流社会の発音に矯正しようと悪戦苦闘します。イライザの話す言葉はコクニーと呼ばれる癖の強いロンドン方言です。“h”の発音ができないので、例えば“how”が「ハウ」ではなく「アウ」と聞こえます。また、「エイ」という二重母音が「アイ」という発音になるという特徴があります。“take”という語が「テイク」ではなく「タイク」となるわけです。
ちなみにオーストラリア人の英語にコクニーと同じ特徴が多く見られるのは、かの地にロンドンの下町出身の移民が多かったから、という説があります。「今日は出かけます」(“I’m going today.”)という発音が、オーストラリア人の英語では「今日は死ぬつもりです」(“I’m going to die.”)と区別がつかないとか?!
作品の題名にもジョークが込められているようです。「マイフェア」は、「メイフェア」のコクニー流の発音という点がポイントです。メイフェアとはロンドンの高級住宅地のこと。つまり「上流の貴婦人」という意味と、「私の美しい恋人」という意味をかけた洒落になっているのです。
ヒギンズ教授は人々の階級を決定するのは言葉遣いだ、と主張します。たしかに第一印象はその人の話しぶりによって決まってしまうことがあります。せっかく良いことを言っても、話し方が悪いために真意がうまく伝わらない、という苦い経験は誰しも思い当たることでしょう。
とはいえ、ヒギンズは社会に潜む階級格差を自明のことと認めていて、上流社会の価値観こそが一番と決めつけています。彼は案外と俗物根性の持ち主なのです。下町娘が上流の貴婦人に変貌するというサクセス・ストーリーはあくまでうわべだけ。その装いの背景には、ヒギンズに代表されるかたくなな価値観に凝り固まった社会への風刺が込められているように思えます。
『マイ・フェア・レディ』はミュージカルにふさわしく、主役の男女が結ばれると予感させて幕を閉じます。しかし辛辣な皮肉屋として知られたバーナード・ショーが、このミュージカル版の幕切れを観たら、どんな顔をしたでしょう? もともと原作の『ピグマリオン』が初演された当時から、安直なハッピー・エンディングを匂わせる演出には大いに不満だったそうですから。『マイ・フェア・レディ』というミュージカル、見かけの華やかさとは裏腹に、一筋縄ではいかない作品のようです。
[Photo:佐久間 康夫]