Column コラム

湖水地方の春の息吹─ピーターラビットの風景─【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第9回】

青山学院大学文学部比較芸術学科教授

佐久間 康夫

イースターって何?

キリスト教の文化圏でクリスマスとならぶ重要な行事がイースターです。十字架にかけられたイエス・キリストが3日後に復活した奇跡を祝うお祭りで、日本語では復活祭と訳されます。イースターという言葉の語源については、諸説ありますが、ゲルマン神話の春と暁の女神エオストレに由来するという説はなんとも魅力的です。

12月25日と決まっているクリスマスとは対照的に、イースターは毎年日にちが変わるムーヴィング・ホリデー(移動祝祭日)です。年によって日にちが変動する理由は、「春分の日を過ぎて最初の満月の後の日曜日」とされるからですが、クリスマスと違い、今年のイースターが何月何日なのか、私はいつもたいへん混乱してしまいます。

ともあれイースターには、春の訪れと重なる頃というところに深い意味がありそうです。いわゆる春休みのことをイースター・ホリデーズと呼び、4月からの春学期をイースター・タームと名付ける大学もあるくらいです。イエスの復活を祝福する宗教的儀式には、ヨーロッパの厳しい冬が過ぎ去り、待ちに待った春の到来を喜ぶ民衆の気持ちが反映しているのだと思います。

春先のマーケットにずらりと並ぶ定番の品は、イースター・バニーと呼ばれるうさぎのぬいぐるみや、大きな卵の形をした菓子イースター・エッグ(チョコレートで作られていたり、彩色した卵型の容器にキャンディーを入れていたり)です。多産なうさぎは繁殖のシンボルとして、また卵は生命が誕生するというイメージそのままに、長い冬を耐えた後に迎える芽吹きを象徴し、イエスの復活とも符合するわけです。

イースター・バニーとエッグ

 

この時期は、酷寒のさなかにいち早く釣り鐘の白い花を覗かせるスノー・ドロップ、可憐なクロッカス、一面の野を真っ黄色に染める菜の花、そして群生して風にそよぐダフォディル(黄水仙)という具合に、春を告げる花が順番に咲いていきます。日本の文化では、春と連想される花はもっぱら梅や桜ですが、ところ変われば花も変わるものですね。

春の盛りの菜の花畑。ケンブリッジ近郊の村コートンにて

 

 

ピーターラビットの誕生

さて、そんなイギリスには、世界で一番愛されたうさぎがいます。その名はピーターラビット。ビアトリクス・ポターの絵本に登場する人気者です。作者ポターは、ロンドンの裕福な家庭で育ち、教育は家庭で受け、学校には行きませんでした。孤独な少女時代を送った彼女は、絵を描くことが何よりも好きだったため、博物館に通っては動物のデッサンにいそしんだといいます。

ポターの描く絵は、少しもマンガ化されていませんし、必要以上に可愛く描かれてもいません。それは動物の動きをみごとにとらえたもので、顔つきや体の線などは、まさに実物そっくり。写実的な筆致を保ちながらも、ピーターラビットときたら青い上着を着て、二本足で走るのです。リアリティとファンタジーが何げなく混ざりあったところに、万人を魅了するポターの絵の秘密があるようです。

絵本『ピーターラビットのおはなし』の表紙
ビアトリクス・ポター作・絵 いしいももこ訳 福音館書店

 

ポターの家族は毎夏をスコットランドで過ごし、彼女が16歳の時にはイングランド北西部カンブリア州の湖水地方の風物に触れる機会を得ました。それは感受性豊かな少女にとって最高の思い出になりました。幼い頃から山や湖に囲まれた生活をした体験は、ポター特有の動物を見つめる観察力と合体して、後に絵本作家として大成する基礎を形作ったのです。

「何を書いたらいいか分からないの。だから4匹の小さなうさぎのお話をするわね」。ポターは自分のペットのうさぎをモデルにして、病床にあった知り合いの男の子をなぐさめるため、短いお話を手紙で書きました。1893年のことです。この物語がロンドンの出版社で一冊の本にされるのには、まだ10年ほども時が必要でしたが、それから続編が次々に書かれるベストセラーになろうとは、手紙を書いた頃には思いもよらなかったことでしょう。

ポターの絵本は、アニメ化されていますが、なんとバレエでも上演されたことがあります。ロンドンのロイヤル・バレエの舞台では、まるで絵本から抜け出してきたかのような世界が躍動します。音楽や振付の見事さもさることながら、あの着ぐるみ姿でどうしてこんなに踊れるのか、とバレエダンサーの鮮やかな技量に目を奪われるばかり。一見の価値あり、とお薦めします。

 

環境保護運動をささえて

ポターの残した20冊を超える絵本の背景をなすのは、彼女が愛した湖水地方です。これは名前の通り、山あいに無数の湖が点在するイギリスきっての景勝地。私も家族でキャンプに出かけ、清澄な空気の中に全身をひたす解放感を満喫したことがあります。

ニア・ソーリー村からホークスヘッドに向かったあたりの典型的な湖水地方の風景

 

ポターは絵本の莫大な印税収入で広大な土地を購入し、後半生は農場経営者として暮らしました。そして遺言で自分の土地をすべて、ナショナル・トラストに寄付し、飼育している羊の種類から針金の太さまでも、一切変更を加えてはならないと命じたのです。愛した自然が破壊されるのを恐れ、変わらぬ姿のまま残されることを願ったためです。

ニア・ソーリー村東端にあるポターが住んだ農家ヒル・トップ。17世紀に建てられたこのコテージで多くの作品が生み出された

 

ポターが生きた頃のまま保存される農場の石垣も往時をしのぶよすがに

 

ナショナル・トラストとは環境保護を目的として活動する民間団体です。市民がお金を出しあって、貴族の館や庭園、修道院などの歴史的な文化・自然遺産を買収し、いたずらに環境が破壊されることを防いでいます。ポターは創立間もないナショナル・トラストの協力者として、その発展に大いに貢献した人物でした。ナショナル・トラストの管理する土地や家屋は、イースターの頃から秋口まで一般の観光客に開放され、そうして得た入場料で管理維持費をまかなうという仕組みです。

「冬来たりなば春遠からじ」と歌ったのはイギリスロマン派の詩人シェリーです。穏やかな春の訪れとともに普通の日常が遠からず復活する日を祈りたいものです。

ヒル・トップの農場を一望して。絵本で描かれた動物たちが今にも飛び出してきそう

 

[Photo:佐久間 康夫]

参考文献
ビアトリクス・ポター、いしいももこ訳『ピーターラビットのおはなし』(福音館書店 1971)
(他にシリーズの絵本すべてが翻訳出版されています)
岩野礼子『ピーターラビットの村から』(晶文社 1995)
定松正『イギリス児童文学紀行』(玉川大学出版部 2004)
小野まり『図説英国ナショナル・トラスト―美しいイギリスを残した人々』(河出書房新社 2016)
推薦映像
英国ロイヤル・バレエ団『ピーターラビットと仲間たち』(原題Tales of Beatrix Potter)
(コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウスで上演されたバレエ版)
レネー・ゼルウィガー主演クリス・ヌーナン監督『ミス・ポター』(原題Miss Potter)
(ポターの生涯が生き生きと再現された映画)