青山キャンパスにかつて川の源があった!?【アオガクタイムトラベラー】
2021/06/25
2021年3月末、財務部の田中さんからメールが届いた。
「あるサイトに、かつて青山学院構内に【湧水】が有ったということが書いてありました。そこからイモリ川という流れが始まっていたようです。ぜひタイムトラベラーの力で謎を解き明かしてください」
田中さんは、歌舞伎役者のような端正な顔立ちをしている男前だ。
調査依頼、ありがたい(良かった、仕事の話じゃなくて……?)。
そして面白そうなテーマだ。
しかし、なかなか難しそうなテーマでもある。
なにせ、「明治期には埋め立てられているようだが」との記述が・・・。
100年前。
難題だ。
アオガクタイムトラベラー隊、久しぶりの出動である。
さて、どこから調べようか?
4月に入り、学校も新たに動き出し、忙しさにまかせてしばらく調査をさぼっていたところ、偶然、面白い記事にあたった。
昨年のコロナ禍にあっても勢いを感じさせていた中等部ウェブサイト。その記事を読んで、2021年の広報部の注力テーマを「中等部3年生選択授業」に決めた。これから1年間を通して、その魅力ある授業の取材に入っていくことに決定した。
受験生や保護者の方には必見のアイテムとなるだろう。青山学院中等部の魅力と勢いを感じていただきたい。
それはさておき、その関連ニュースにあった下のニュースに目が留まった。
2020.2.6「3年選択〈理科B〉特別課外活動 報告」
「渋谷川支流のひとつ、旧イモリ川跡を約1時間かけて巡り、浸食による地形の特徴を観察しました。」
と書かれていた。
これではないか!
なんと、すでに中等部では授業でイモリ川について学んでいるではないか。
すると今度は、2021年の3年生選択授業「社会D地理」で、渋谷・表参道周辺の歴史や地形を調べる“巡検”があるとの情報を入手した。
早速、ブラック&ホワイト隊員と私ブルーで、その“巡検”に同行、取材を試みた。
ちなみに、アオガクタイムトラベラーの隊員の名前は、全員カラー名である。
さて、“巡検”に同行したブラック&ホワイト隊員と私ブルーだったが、水野祐輔先生の健脚ぶりと、中学3年生という体力にかけて絶頂期にある若者についていこうとしたのが間違いだった。2時間かけて渋谷から表参道を巡った。数々の発見があったが、すでに途中からヘトヘトに。
しかし、調査結果は良好だった。
水野先生が用意された古地図や水源を示した地図を手に入れ、また、中等部沿いに走る道路は、かつて“イモリ川”と呼ばれる川が流れていて、現在は暗渠(あんきょ)になっていることを学んだ。そしてその川は、渋谷川に流れ込んでいる、と。久しぶりに“分水嶺”なる単語も聞き、大変勉強になった、楽しい旅だった。
水野先生、生徒の皆さん、ありがとう。
「水源を示した地図」を手に入れた。
ちょっと横道に。
そのころ、人事異動があり(我が組織もご多分に漏れないのだ)、レッド隊長が就任した。
早速レッド隊長に調査進行中のイモリ川の報告をすると、
「きっとイモリがいっぱい住んでいたんだろうな」とつぶやいた。
なるほど。
「妙高の合宿地にも“いもり池”というのがあるよ」
そう、レッド隊長は、大学陸上競技部〈長距離ブロック〉のコーチも務めているのだ。
ここで、イモリについて調べてみた。
漢字で書くと“井守”。
「井戸の中に暮らし害虫を食べることから、井戸を守る存在と考えられ名付けられました」と、とあるサイトに書かれていた。
また「水田や川の澱みなど流れのない水辺で暮らしています」とも。
イモリが住む、とてもきれいな川だったのだろう。渋谷川にはホタルも住んでいたという。
イモリ(広辞苑第5版より)
「イモリの名前の由来」を手に入れた。
ところで、その後に続く追込項目に目がとまった。
井守の黒焼き(広辞苑第5版より)
この風習、なんとも、犯罪の匂いがする。
閑話休題。
今回手に入れた水源を示した地図によると、青山学院記念館(大学体育館)の下あたりに水の流れが始まる場所があるようだ。
破線ということは、地下を流れていることを表している。
さて、次はどうしよう?
証拠探しだろうなあ。
いつものように紫煙をくゆらせながら沈思していると、ふと、ある光景を思い出した。
そういえば、ウェスレーホールのあたり、幼稚園の前の東門あたりは、大雨や台風の翌日などは水はけが悪く、水が染み出たままだった様子が頭に浮かんできた。
なにか関係があるかもしれない。
早速その現象を、管理部に確認すべく電話をしてみた。
するとドンピシャだった。
「数年前に地下からの水の噴出の影響で、道路が陥没したことがあります」
これだ! これに違いない。
すると電話の直後、管理部施設課のH氏がわざわざ資料を届けに来てくれた。まさにH氏が道路陥没時の調査にあたったという。
どうやら、今も地下に水の流れがあるようだ。
その影響で土砂が流され、陥没が起きてしまったのだった。
そして「これ見たことあります?」と1冊の資料を差し出された。
「青山学院構内遺跡(青学会館増改築地点)-伊予西条藩松平家上屋敷跡の調査-」
お礼もそこそこに、むさぼるように資料に見入った。
「イモリ川」の文字、そして
「池跡が見つかった」との文字が。
ついに発見したのだった。【湧水=水源=池】があったのだ。
「証拠資料」を手に入れた。
資料「青山学院構内遺跡(青学会館増改築地点)-伊予西条藩松平家上屋敷跡の調査-」。
これは当時、近くの北青山遺跡の調査を行っていた田村晃一大学文学部教授が、青学会館の拡張計画があると知り、この機会に構内の遺跡調査の必要性を当時の羽坂勇司理事長に訴え、実現したものであり、1991年11月から本調査が開始された発掘調査の記録である。
青山学院構内遺跡調査委員会の委員長には吉田章一郎大学名誉教授(元大学文学部教授)が就任し、東京都教育庁や渋谷区教育委員会の協力のもと実施された。
私事ながら、私が3年次に在籍していたころの話で、懐かしい先生のお名前にここで触れるとは感慨深い。しかし考古学専攻ではなかったため、この発掘調査の記憶が残念ながら、無い。
この地は「国道246号の台地が標高34mで、イモリ川に沿って250mにつき約4m低くなる勾配である」と記されていた。
確か“巡検”の折にも、国道246号が分水嶺になっていると、水野先生が仰っていた。
かつて青山キャンパスは、ほぼ全域が伊予西条藩松平家上屋敷跡にあたり、明治維新による版籍奉還、廃藩置県により、1871(明治4)年に収公されて開拓使用地となり「第1官園」と称される農業試験場として使われていた。
その後1882年に開拓使が廃止されたことに伴い、第1官園は民間に払い下げられ、1年の間に所有者が3回変わったのち、明治16(1883)年に東京英和学校(青山学院の前身)の所有となった、と書かれていた。
このころの話は、以前紹介した端田晶氏の記事「国産ビール開発にかけた情熱 ~ 青山キャンパス秘史」に詳しく述べられているのでぜひご覧いただきたい。
また、本学の宮副謙司先生がご執筆された青山の地理や歴史を深く知るためのコラム「【青山学】青山から考える地域活性化論」にも、青山キャンパスの歴史について触れられているので、ぜひご覧いただきたい。
調査記録によると、調査の際に、「出水が多く(B-4グリッド)」、「出水が絶えず(池遺構)」との記載が目立ち、水源の存在を窺わせた。
そして池跡も見つかった。「明治19年の地図にみられる池に相当するものと考えられる」と書かれていた。しかし「掘り込みが深く出水が多かったため、池跡の調査は部分的な調査に止まらざるをえなかった」と記録されている。
考察の章では、池についての記述がされていた。
「池は明治19年の地図に書かれている池と同じものと思われるが、この地図に調査範囲を重ね合わせても、池の東端の位置はほぼ合うが、南北方向の位置は調査結果と一致しない。(後略)」と書かれていた。
ちなみにしきりに登場してきた「明治19年の地図」も追ってみた。
ところがネット上で探しても見当たらない。
ダメもとで本学の図書館の所蔵を検索したところ、なんと、所蔵していることがわかった。
大岡昇平『少年-ある自伝の試み』(1975年 筑摩書房)にも、川と池を記した地図が記載されていた。
実は以前、2021年3月11日に公開した『東日本大震災から10年 青山学院の3.11』という青山学院公式サイトの記事を作成するにあたり、当時、帰宅困難者の受け入れにあたって指揮をとった石黒隆文・現総局長へのインタビューの際に、「大岡昇平氏の自叙伝『少年』を読んだことがあるのですが」とのお話を伺い、その後、私も図書館から借りて読み、「青山学院付近略図」(下画像)という地図を見つけていた。そこには池も川も記されていたが、まさかこのイモリ川の話題に繋がるとは思ってもいなかった。
大岡昇平は言わずと知れた小説家・評論家で、現在の京都大学で学び、太平洋戦争では兵隊として招集されてフィリピンの部隊に配属となり、捕虜となった。その時の経験をもとに執筆した『俘虜記』や『レイテ戦記』などが数々の文学賞を受賞。1988年に亡くなっている。大学入試問題で必ず目に触れた名前だと思い出す方も多いのではないだろうか。
その大岡氏は、中学生の学齢期を青山学院中学部で学んでいた(1921~1924年)。紹介した『少年-ある自伝の試み』には、赤裸々な中学生時代の様子が描かれている。
この図を見ると、明治18年の「東京実測図」や、遺跡発掘調査時とは、池の位置が異なっている。
これらの手に入れたアイテムから、若干、正確な位置については不明だが、次の結論に至った。
かつて、青山キャンパスに【 水源 = 湧き水が溜まる場所 = 池 】があり、現在は池が無くなったものの、水源は今も地下に存在し、暗渠となって地下に川が流れている
ネット上に“暗渠ハンター”なる言葉を見つけた。
暗渠(精選版 日本国語大辞典より)
暗渠をめぐって旅をしている方々がいて、実に楽しそうだ。町の歴史を知り、はたまたハザードマップにも繋がるなど、暗渠は奥が深そうだ。
今回の旅も楽しい旅だった。多くの方々との関わりがあった。感謝の言葉しかない。
過去の記事との繋がりもあり、面白かった。
今回は燃料が切れることなく(いや、中等部の“巡検”で1回切れてしまったが)、巨大なジグソーパズルの一部分が完成したかのような達成感を味わった。
田中さんには良いテーマをご提供いただき、感謝である。
欲を言えば、当時の池の写真があればなお良かったのだが……。
そう考えると、今の青山学院の様子を記録に収め、後世の人々に歴史を伝える仕事は大きな使命であることをあらためて悟らせてくれる旅でもあった。
〈参考文献〉
『東京23区凸凹地図』昭文社企画編集室 2020年 昭文社
「青山学院構内遺跡(青学会館増改築地点)-伊予西条藩松平家上屋敷跡の調査-」青山学院構内遺跡調査委員会 1994年 学校法人青山学院
『少年-ある自伝の試み』大岡昇平 1975年 筑摩書房
『明治前期内務省地理局作成地図集成』地図資料編纂会 1999年 柏書房
『青山学院九十年史』1965年 学校法人青山学院
〈協力〉
・中等部 水野先生率いる“巡検”隊
・管理部
コロナのせいで、エコレンジャーの取材に行けない!
せっかくブルーの衣装もそろえたのに・・・。
どうしましょう?
以前、史学科合同研究室の副手をされていた藤井様より、青山学院構内遺跡発掘調査時の様子をお届けいただきました。
「不発弾」が出て来たそうです。
私も学生時代に藤井様にお世話になりました。”史学科のお母さん”のような存在でした。
井戸もあり、ポンプで水を汲みながら掘っていたように思われます。池の源だったのですね。
公になっているかどうかはわかりませんが、発掘をしていたあの当時の2月、考古学専攻の口述試験の日に、構内遺跡から不発弾が発見され、池田助手が息せき切って非常階段を上がってきて、急遽、口述試験中断となり、田村先生が急いで遺跡に行かれたことを思い出しました。
史学科の合同研究室には氣賀健生先生がいらして「青山学院は戦時中に焼夷弾をおとされているから、その残骸かな?」と話をしていたことも思い出されます。
その不発弾は、ユンボ(油圧ショベルカー)を操っているおじさんが「この位大丈夫、信管は外れている」と持ち帰ったそうです。
以上、貴重なお話をいただきました。
ありがとうございました。