白亜の城はどの建物?(カレッジソングと応援歌)【アオガクタイムトラベラー】
2024/09/04
ある日、レッド隊長が昼休みから戻ってくるなり
「『白亜の城』ってなんのことだか知ってる?」
と尋ねてきた。
(何のことだろう……)
「ほらっ、カレッジソングに出てくる歌詞の……。」
(まずい。曲は知っているけど、歌ったことが無い……)
「そういえば出てきますよね (知らないぞ。;^_^A)。何でしょうね? 調べてみましょう!」
アオガクタイムトラベラー隊、なんと1年ぶりの出動である。
創立150周年で忙しいからなあ……。
先ず、「白亜」の意味を広辞苑で調べてみた。
チョークについて、以前、中等部の選択授業「美術」を取材した際に、筒井祥之先生がチョークのことを「白亜」と仰っていた。
→ 美術「テンペラと油彩」筒井祥之先生インタビュー【青山学院中等部3年生選択授業】
ちなみに、「白亜館」という言葉は、ホワイトハウスの訳語である、と広辞苑に記されていた。
さらに、地球には「白亜紀」という時代がある。今から約1億4,500万年前から6,600万年前にあたる中生代最後の時代であり、後期・前期に区分される。白亜(石灰岩)の地層を形成したことが名前の由来だとのこと。
要するに、「白亜の城」とは、白い色をした建物を指すことがわかる。
白亜の城 = 白色の建物
さて、その白色の建物はどの建物のことなのだろうか?
どの建物も最初は白いような気もするが……。
独自で調査していくより道はなし。
青山学院大学カレッジソング
松本 休 作詞
高橋 繁 作曲
1.紫におう西郊の森
夢さめやらぬ緑ケ岡の
霞にそびゆわが白亜城
春光うららに
今さしそめて
常盤木の色映ゆる
われらが母校 青山
2.わが若き日の燃ゆる紅
集うわれらが学びの園に
いや高き望みつきぬ喜び
仰ぎ見る夏の
陽の影長く
常盤木の色映ゆる
われらが母校 青山
3.ああ悦楽の四歳の暮らし
時は移れど永久の結ばれ
都の空に想出のまどい
たそがるる日射し
その背に負いて
常盤木の色映ゆる
われらが母校 青山
4.梢をわたる木枯らしの舞
霜夜の月のその輪なりに
群れて踊りの響く歌声
篝火の焔
影を焦がして
常盤木の色映ゆる
われらが母校 青山
下記のページにてぜひご視聴ください。
カレッジソングの制作について、『青山学院大学応援団創立五十周年記念誌』の「カレッジソング」の項には次のように書かれている。
1番の歌詞に登場する「霞にそびゆわが白亜城」。
かっこいいフレーズである。
この“そびゆる”「白亜城」はどの建物を指しているのか?
高さがありそうなイメージである。
一番よいのは、作詞された松本休さんに伺うことだが、95年前のことであり、残念ながらご存命ではないだろう。
そして『青山学院大学応援団創立五十周年記念誌』にもこの件は触れられていない。
実は、応援歌にも「白亜の城」という言葉が登場することを知った。
応援歌について見ていこう。
青山学院大学応援歌(第一)「白亜の城」
塙 昭彦 作詞
遠藤 紀世志 作曲
白亜の城に 湧き上がる
若人の若人の歌声が
大空に流れ行く
青山よ青山よ 青山
拳をあげて 闘魂は湧く
我等 青山
ああ この力この闘志
若人の若人の勝鬨が
清き大地に轟きぬ
青山よ青山よ 青山
永久の勝利を寿ぎて
我等 青山
下記のページにてぜひご視聴ください。
〈動画作成元・掲載にあたってのご協力:大学応援団フェスタ実行委員会〉
この応援歌は、『青山学院大学応援団創立五十周年記念誌』によると、
と書かれている。
今年は公認されて、ちょうど60周年にあたる。
実際に作られたご本人に聞くことができれば、と思い、ウェブ検索。
作詞をされた塙さんを調べると、ウィキペディアに載っている!
それによると、
経済学部ご卒業後、株式会社イトーヨーカ堂(現・株式会社セブン&アイ・ホールディングス)入社。常務取締役、専務取締役、専務取締役中国室長、専務執行役員を歴任。2007年5月に株式会社セブン&アイ・フードシステムズ代表取締役社長、株式会社デニーズジャパン代表取締役社長に就任した、と書かれていた。
すごい先輩である。
しかし最終行に、2018年7月12日ご永眠と記されていた。
謹んで哀悼の意を捧げます。
作曲をご担当された遠藤さんはどうだろう。
ウェブで検索すると、一般社団法人日本レコード協会の会報にお名前が記されていた。
そこに「一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)理事」との肩書きを発見。やはり音楽の道を進まれたのか、と思いつつ、ご存命であればお話を伺いたいと願い、連絡先を入手し、お電話をしてみることに。
すると、お電話口にご本人様が出てくださった!
「遠藤様と塙様が作られた応援歌について調べております。作詞をご担当された塙様はご他界されていることがわかりまして、遠藤様にお電話いたしました。“白亜の城”がどの建物を指しているかご存知でしょうか?」
「塙君は亡くなっていましたか……。
私は作曲だけだったので、“白亜の城”が何を指しているのかは分からないなあ」
見知らぬ人間から急に、60年前の学生時代にまで記憶を遡らされ、友の訃報を聞かされ、白亜の城を知っているかと尋ねられ、さぞかし困惑されたことと思います。
「急なご質問にご対応いただき、ありがとうございました。どうかご健勝でお過ごしください」と会話を終えた。
遠藤様、ありがとうございました。
カレッジソングの歌詞に登場し、応援歌のタイトルにも採用されている「白亜の城」。
ここからは、推測していくよりほかに道はなし。
「青山学報」のデータベースで「白亜」をキーワードにして検索すると、「白亜城」を発見!
これで解決したのではなかろうか?!
真っ白なベリーホールの写真が表紙を大きく飾っている。
もう、これで決定にしよう!
ところが、ほかにもヒットしてしまった。
見ぬふりをするわけにはいかないか……。
タイトル「白亜会成る」
である。
昭和6年度文科卒業生の親睦団体として組織された「白亜会」というものがあった。「青山学報」115号(1933年10月30日号)に掲載されている。
ここには会則しか載っておらず、名前の由来の説明がない。
推測するしかないのだが、文科は当時、高等学部にあり、神学部とは別を成していた。
昭和4年に神学部と高等学部が一緒になり「専門部」となっている。
しかし、文科の校舎は高等学部校舎であったはずであり、それは現在の大学1号館(現存)である。
「白亜会」がなにをもって白亜と名付けたかは定かではないが、写真をご覧いただくとわかるように、もしかすると1号館は、1926年に建ったばかりで、1933年当時はまだ真っ白で、1号館のことを「白亜」と称していた可能性がある。
実は、『青山学院大学応援団創立五十周年記念誌』の「応援歌」の項には次の通り記載されている。
青山学院大学応援団は 昭和28(1953)年、石川浩氏を初代団長(新制大学1期生)とし、創立している。
ここで、白亜の城は「礼拝堂」を意味している、とはっきり記されていた。
大学の礼拝堂は、中学部講堂であった建物を改修して1959年に再建されている。
1962年に応援歌が制作されているので、まだ改修されて間もなく、真白に輝いていたのだろう。
現在の大学礼拝堂は、2001年9月に完成したガウチャー記念礼拝堂だ。旧大学礼拝堂で長らく大学の礼拝が守られてきた。
●応援団OBの皆様から
応援団のOBの方にいきさつが伝わっていないかどうかと思い至り、元応援団団長で、現在青山学院の職員であるAさんに相談したところ、応援団のOB総会で、往年の先輩方に確認いただき、伝聞での認識で、ある見解をいただくことができた。
ありがたく存じます。
〈OBの皆様のご回答〉
完璧にするために、ウェブでも調べよう。
「青山学院大学卒業生教職員校友白亜の会」という団体がヒットした。
青山学院大学の卒業生で、幼稚園、小学校、中学校、高等学校に勤める教職員、教育行政職に就く現職及び退職者の皆様で組織した「青山学院大学卒業生教職員同窓会」を、「青山学院大学卒業生教職員校友白亜の会」と名付けて2009年にリニューアルスタートした組織であった。
「白亜」という言葉が入っていたため、早速、その言葉の由来をお聞きすべく、同会のウェブサイトに問い合わせてみた。
すると、同会会長の山口菜穂子先生からすぐにお返事をいただいた。
山口先生は、会を立ち上げた当時の会長・副会長にわざわざ聞いてくださったとのことで、大変ありがたく存じます。
ここに引用させていただきます。
〈元会長のご回答〉
〈元副会長のご回答〉
その際に「白亜城」が何を指しているか特に話した覚えはありませんが、1号館や2号館の外壁が白亜(石灰岩)の漆喰のように白かったのではないかと想像したり、世俗的な経済優先の社会から離れた学問の府としてのイメージから「白亜の会」が相応しいとしたように思っています。
これでまとめてみよう、と思って、「白亜の城は大学礼拝堂」という結論にしてしまおうと思ったのだが、
「あれっ、なんか違うぞ……」
衰えゆく脳が警告を発した。
時系列で再構築してみよう。
「カレッジソングと応援歌の作成時代が違う」
という事実に思い至る。
カレッジソングで出てくる「白亜の城」と、応援歌の「白亜の城」では、対象が違うのでは?
それぞれの建物がいつ建てられたのか、時系列で並べてみた。
そうすると、カレッジソングの「白亜の城」は、どこなのだろう?
1929年2月に披露、となっているから、それ以前に建っていた建物になる。
大学礼拝堂(1959年完成)はもってのほか。
そして、有力候補のベリーホール(1931年完成)や間島記念館(1929年10月完成)もまだ建っていないではないか!
1923年の関東大震災で、青山学院の建物は壊滅している。
→ アオガクプラス「100年前 関東大震災と青山学院」へ
すると、その後の復興で優先して1926年4月に建てられた「高等学部校舎(現・大学1号館)」と「中学部校舎(現・大学2号館)」が自ずと見えてきた。
作詞・作曲の松本氏と高橋氏は1925年に高等学部に入学していることから、
「高等学部校舎(現・大学1号館)」
という答えが導き出される。
竣工間もない高等学部校舎は、大震災からの復興のシンボルとして、まばゆいばかりに白く輝いていたに違いない。未来への希望を象徴する建物だったのだ。
そして、応援歌の「白亜の城」は、
応援団の皆様が仰る通り、
大学礼拝堂 (ただし、旧大学礼拝堂)
という結論に至った。
加えて、『青山学院の白亜の城』として、「青山学院大学卒業生教職員校友白亜の会」の方々が語られた『キリスト教主義に基づく清く美しく輝いている学校』という意味としてはいかがだろう。
青山学院に建つ全ての建物が、神から贈られし白亜城!
これからも、時と場所、人によって、新たな「白亜城」がそびゆるのであろう。
これまでも、校友の皆さんの様々な集まりで歌い継がれているカレッジソングと応援歌。
今年2024年、箱根駅伝や東都大学野球リーグ戦・全日本大学野球選手権大会での優勝のおかげで、カレッジソングや応援歌が大いに奏でられ、歌われた。
これからも、青山学院が存在するかぎり、その伝統はとこしえに。
〈参考資料〉
『青山学院大学応援団創立五十周年記念誌』(青山学院大学応援団OB会 2002年)
『青山学報』各号
〈協力〉
遠藤紀世志様
青山学院大学卒業生教職員校友白亜の会様
大学応援団OBの皆様
大学応援団
資料センター
〈関連リンク〉